新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

高校のクラス会出席で藤沢に

2015-12-11 17:43:11 | コラム
昭和20年4月に中学入学以来の仲間の集まり:

本11日は豪雨の中をものともせずにずぶ濡れになって新大久保駅まで歩き、小田急のロマンスカーで藤沢に向かった。我々が入学したのは中学だったが、途中で学校制度が変わって4年になる年に新制高校とやらの1年生にされてしまった。その同じ湘南中学から高校に6年間通った仲間のクラス会が、多くの生存者に便利である藤沢で開催されるのだ。東京居住者は僅か2名なので多勢に無勢で遙か彼方の藤沢まで遠征する。

今日は新宿駅で電車に乗ってダウン・ジャケットを脱ぐと、頭のところのフードから大量の雨水が流れ出す有様。しかし、藤沢に近付くにつれて天気予報通りに雨は晴れ、市内にはTシャツで歩く若者までいる始末。藤沢駅で年に一度しか会う機会がなくなった実弟と待ち合わせをしていたので、クラス会開始の12時まで久し振りの雑談。と言うよりもお互いに健康を害してしまった妻を持つ身なので、苦労のようで苦労ではない話に花を咲かせ、共にサッカー部だったので運動の話をしている間に時間となって彼とは別れて駅の近くの会場に。

我が3年1組は2005年に故人となられた担任の先生が嘆いた東大に進んだ者が浪人を含めて2人という全10組中最低の出来。何故に東大進学者の数で優劣を決めるのかと、我々私立大組は嘆いたもの。その代わりと言うか何と言うか、幹事さんに言わせると、全36人中の物故者が16名と学年第一の高率で「せめてこの率だけくらいは維持しようではないか」であり、全員大爆笑。最も早く亡くなった者は1976年=昭和51年だった。

当日の出席者は11名で、欠席を通知してきた者が5名、残る4名はずっと音信不通。それでも出席者は皆意気軒昂たるものがあって談論風発。12時開始がアッと言う間に14時となって解散。この幹事は中々の知恵者で何年前だったか「みんな良く聞け。今日は病気と孫の話は無しとする」と宣言したことがあった。全員暫く沈黙した後で誰言うともなく「それでは話題がないじゃないか」とあって、これまた大爆笑。

今回は中華料理店で回るテーブルが二つに分かれてしまったので、当方の席と幹事さんのそれとは別だったので、専ら隣に来た同じサッカー部の出身者で慶応に進んで全盛時代のキャプテンを務め、全日本の制覇にも貢献した住友金属のOBと専ら病気の話で時を過ごした。彼は心臓にも持病があるが腎臓にも問題があり、宅配の食事で減塩を守っていると誇らしくもなく回顧。何と一日6 gm.を守っているというから凄い。本日の中華料理では食べられるものはほとんど出なかった。彼が食べられない以上、同病の当方も彼に倣って到底会費に見合わない少食で終わったのは残念。

母校の自慢と採られると辛いが、幹事長は京大から日本曹達の専務、他の同級生には前高野連会長の脇村春夫君がいるが芦屋在住で欠席の葉書のみ。偉そうに他の例を挙げれば、旧第一勧銀の支店長さんが2名、自影の建設コンサルタント会社の会長であり早稲田大学の評議員が1名、東急電鉄、日本精工、旧東食の監査役、電気化学工場長、大学教授もいればアメリカの会社の東京駐在マネージャーもいた。

こういう進学先や職歴を誇示する気かと叱られそうだが、都内の有名都立高校には「一部上場企業に就職した者の名簿」があると見せられた時には、湘南高校などは未だお手柔らかな方だと正直なところ秘かに安心させられたものだった。だが、今や80歳を2~3年も過ぎた者が集まればただの高齢者の集まりでしかなく、和気藹々と楽しく2時間を過ごし、記念写真を撮って別れた。さて、来年は何人集まるのだろうか。



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