加工した石の内面に色を塗ってみていろいろ感じたことがあった。
とはいえ、はっきりとした結論には辿り着けていないような気がしたんですよ。
それで、とりあえず数を増やしてみる事を思いついたのですが、石材で行うには時間もコストもかかりすぎたので別の素材でためしてみる事に。
1991年制作
当初はベニヤを張り合わせて箱を作り、その内面にでも色を塗ろうかと思っていましたが質感が貧弱に思えたのでセメントで制作してみました。
制作途中で気付いたことですが、
数が増えると、展示空間もある程度の広さが必要になるから観覧者はまわりを歩くことになるんですよね。
だから、観覧者が歩いて観たとき内側の色が1色では何の変化もなくてつまらないのかなと思ったので、白、赤、黄、青の色を各面に塗り分けて観る場所によって色が変わるようにしてみました。
(結果、面白かったんですけどね。地母神的な雰囲気が消えてしまっているので、この方向で考えるのは、しばらく止めようと思いました)
1992年制作
それからしばらくして、大学の講義系の先生であった平岡博先生からの紹介で、小牧市にある東邦ガスビルギャラリーでの出品を勧められ展示することに。
会場のカーペットの質感が嫌だったのと、大学の授業の方で鉄の溶接の指導の手伝いをしていたのですが、連日、溶接溶断のグチャグチャと鉄の融けた感じが、いかにも人為的でそれだけで精神性みたいな表情が強すぎて嫌だったので、極力鉄板を加工せず黒皮鉄板の表情を活かそうと考え制作してみました。
(結果、綺麗に作品は収まったんですが、かなり広い会場であったにもかかわらず、何とも狭っ苦しくてね屋内展示では限界があるように思いましたね。)
1992年制作
そんな訳で、大学側と交渉して、キャンパス敷地内で上記のような作品を作ってみました。
で、制作してみて思った事は、野外展示の場合だと色々な色が散在しているから原色を持ってくるのは効果的なんだけど、原色とまわりの環境(景観)が対峙した感じになってしまうことに不快感があったかな。
そんでもって、景観に自分をあわせるべきなのか、逆に景観を自分に合わせるべきなのか、将来的に選ばないといけないのかなと感じるようになりましたね。
結局、どちらを選ぶべきか、結論など出ていませんでしたが、どちらの場合であったにしても、これ以上、この方向で続けようと思うと企画書とか模型とか、それまでの経緯が分かる資料作りが重要になると感じました。
1993年制作
それで、企画書や模型、制作記録を武器に発表活動を展開してゆかなければならないという課題が生まれたのでそうした方向での準備(制作)をはじめました。
ただ、これがなかなか大変でね。
もともと、彫刻科出身の僕には汗水流して健康的に作品を作る方が性あっていたんですが、それとは違うディスクワークのような作業が主体でしょ。
そんでもって、同じ彫刻を専門としている人達からは(何故か彫刻の連中は体育会系の考えが強くて)あの当時は特に非難されつづけていた「発注芸術の方向でスタイルを変えようとしているから駄目だ」とかいろいろ言われて、正直、辛かったわw
とはいえ、はっきりとした結論には辿り着けていないような気がしたんですよ。
それで、とりあえず数を増やしてみる事を思いついたのですが、石材で行うには時間もコストもかかりすぎたので別の素材でためしてみる事に。
1991年制作
当初はベニヤを張り合わせて箱を作り、その内面にでも色を塗ろうかと思っていましたが質感が貧弱に思えたのでセメントで制作してみました。
制作途中で気付いたことですが、
数が増えると、展示空間もある程度の広さが必要になるから観覧者はまわりを歩くことになるんですよね。
だから、観覧者が歩いて観たとき内側の色が1色では何の変化もなくてつまらないのかなと思ったので、白、赤、黄、青の色を各面に塗り分けて観る場所によって色が変わるようにしてみました。
(結果、面白かったんですけどね。地母神的な雰囲気が消えてしまっているので、この方向で考えるのは、しばらく止めようと思いました)
1992年制作
それからしばらくして、大学の講義系の先生であった平岡博先生からの紹介で、小牧市にある東邦ガスビルギャラリーでの出品を勧められ展示することに。
会場のカーペットの質感が嫌だったのと、大学の授業の方で鉄の溶接の指導の手伝いをしていたのですが、連日、溶接溶断のグチャグチャと鉄の融けた感じが、いかにも人為的でそれだけで精神性みたいな表情が強すぎて嫌だったので、極力鉄板を加工せず黒皮鉄板の表情を活かそうと考え制作してみました。
(結果、綺麗に作品は収まったんですが、かなり広い会場であったにもかかわらず、何とも狭っ苦しくてね屋内展示では限界があるように思いましたね。)
1992年制作
そんな訳で、大学側と交渉して、キャンパス敷地内で上記のような作品を作ってみました。
で、制作してみて思った事は、野外展示の場合だと色々な色が散在しているから原色を持ってくるのは効果的なんだけど、原色とまわりの環境(景観)が対峙した感じになってしまうことに不快感があったかな。
そんでもって、景観に自分をあわせるべきなのか、逆に景観を自分に合わせるべきなのか、将来的に選ばないといけないのかなと感じるようになりましたね。
結局、どちらを選ぶべきか、結論など出ていませんでしたが、どちらの場合であったにしても、これ以上、この方向で続けようと思うと企画書とか模型とか、それまでの経緯が分かる資料作りが重要になると感じました。
1993年制作
それで、企画書や模型、制作記録を武器に発表活動を展開してゆかなければならないという課題が生まれたのでそうした方向での準備(制作)をはじめました。
ただ、これがなかなか大変でね。
もともと、彫刻科出身の僕には汗水流して健康的に作品を作る方が性あっていたんですが、それとは違うディスクワークのような作業が主体でしょ。
そんでもって、同じ彫刻を専門としている人達からは(何故か彫刻の連中は体育会系の考えが強くて)あの当時は特に非難されつづけていた「発注芸術の方向でスタイルを変えようとしているから駄目だ」とかいろいろ言われて、正直、辛かったわw