『魂の労働-ネオリベラリズムの権力論』,渋谷望
著者は冒頭で、この本の目的を「新しい権力ゲームの本質を見極めることである」という風に述べている。
これは、フーコーの何が正しく、正しくないかは「権力が真理を構成する」ということを今われわれの労働意識を形作る規範について述べた表現である。
今、働くということで自己実現を成し遂げることが、至上命題のように語られているが、それがなぜ起こったのか?
それは、経済成長が著しい時代には、消費の主体であった国民が、次第に自己実現の主体へと変化する必然があったことから生じているという。
労働と、社会参加活動の境界があいまいになり、それまでは、消費をするための労働としても存在可能であった労働というものが、それだけでは立ち行かなくなった。
労働にも、自己実現という要素が加わることで、労働への垣根が高くなった。
単純労働が機械化でなくなったことで、それまで単純労働に携わっていた底辺の人々の職が奪われ、より底辺に押しやられた・・・
などなど、この本は、現代思想の系譜をたどることでいま繰り広げられている労働に関する問題を分析しようとするものだ。
専門書ということもあって、その理解は容易ではないが、今私たちが当然のように抱いている思いというものが、実は政治による介入を経て構成されていたという視点を発見でき、たいへん興味深い。
著者は冒頭で、この本の目的を「新しい権力ゲームの本質を見極めることである」という風に述べている。
これは、フーコーの何が正しく、正しくないかは「権力が真理を構成する」ということを今われわれの労働意識を形作る規範について述べた表現である。
今、働くということで自己実現を成し遂げることが、至上命題のように語られているが、それがなぜ起こったのか?
それは、経済成長が著しい時代には、消費の主体であった国民が、次第に自己実現の主体へと変化する必然があったことから生じているという。
労働と、社会参加活動の境界があいまいになり、それまでは、消費をするための労働としても存在可能であった労働というものが、それだけでは立ち行かなくなった。
労働にも、自己実現という要素が加わることで、労働への垣根が高くなった。
単純労働が機械化でなくなったことで、それまで単純労働に携わっていた底辺の人々の職が奪われ、より底辺に押しやられた・・・
などなど、この本は、現代思想の系譜をたどることでいま繰り広げられている労働に関する問題を分析しようとするものだ。
専門書ということもあって、その理解は容易ではないが、今私たちが当然のように抱いている思いというものが、実は政治による介入を経て構成されていたという視点を発見でき、たいへん興味深い。