杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

杯が乾くまで3杯目~反省と希望

2009-12-20 11:13:01 | 日記・エッセイ・コラム

 『杯が乾くまで』を書き始めて丸2年が経ちました。3年目のスタートに当たり、デザインを一新してみましたが、いかがでしょうか?

 

 

 この2年間、ブログを通していろいろな経験をしました。まずなんといっても大きかったのは、書いた原稿が瞬時に公表されることへの驚き。ライターになったばかりの頃は、原稿用紙に鉛筆なめなめ書いて、出来上がった原稿は直接編集部へ持っていくか郵送し、何度も校正を経て、活字となって世に出るのは早くて1週間後。遅いものでは半年ぐらいかかっていました。そんなロートル世代ですから、まずファックスが世に出た時にはビックリ! 原稿を家から直接先方へ送れるなんて…とエラく感激したものでした。

 

 次に衝撃的だったのは電子メール。原稿を紙に書かず、電子信号でパソコンから送れるなんて…。当初はマックを使っていたので、ウインドウズ派のクライアントとは何度となくトラブルがあったものの、この10年ぐらいの急激なIT化によって、とにかく書いた原稿は居ながらにして入稿でき、校正も居ながらにしてチェックできるようになり、書いたものが公表されるまでのタイムラグはどんどん短くなりました。

 

 そしてブログの登場です。私が『杯が乾くまで』を始めたのは2007年12月ですから、こういう業界にいる人間にしてみたらオクテのほうだったかもしれません。今まで下請けの身分で、執筆者の名前がクレジットされない仕事で生計を立てていた自分にとって、実名を名乗って堂々とモノが言えるという爽快感と、書いたものが瞬時に公表されることへの戸惑いが交錯しつつも、取材現場で出会い、仕事では伝えきれなかった対象者や対象物への思いを、実名執筆者として許される範囲で書いてみたいという欲求に抗えませんでした。

 お世話になっている評論家の金両基先生に「趣味は何かね?」と問われ、「書くことです」と応えて先生から呆れられ、改めて自分の欲の深さ?に気づかされたこともありました。

 

 

 ただ、そんなこんなで、未だにロートルブロガーゆえ、失敗や反省も多々あります。

 

 過去2年間、ブログにアップした記事で、内容に対するご意見をいただいて反省と謝罪の念に駆られ、記事そのものを削除した例が3件あります。また掲載した写真や記事の表現についてご指摘をいただき、訂正した例は2件ありました。

 

 

 削除した記事のひとつは、ある大手メディア会社を訪問した際の記事で、著作権にひっかかる写真を掲載してしまったこと。これは先方から直接お電話でご指摘いただき、その場で謝罪しました。マスコミに関わる仕事をしている身の上で、なんともお恥ずかしい話です。

 

 

 2例目は懇意にしている飲食店の開店記念パーティーに招かれたとき、県外の大手酒造メーカーの酒を試飲し、その酒の印象を雑感として書いた記事。その酒の試飲が目的ではなかった会に参加して、偶然試飲することになり、メーカーの営業が仕切っていて、楽しいはずの会が…というテイストで、試飲した酒そのものは静岡酒を飲みなれている自分や同行者には物足りない味だった、ただ食事が進めば気にならなくなる、と、飲み手としての印象をストレートに書いたのでした。

 

 これに対し、その大手メーカーの営業担当者がメールで営業妨害ではないか、というニュアンスの意見を寄せてきました。個人の雑感で書いたものでも、営業妨害と見られてしまうことへの戸惑いと反発は正直ありましたが、日本酒の応援団を名乗っている身の上で、酒に対してマイナス情報を発信するのは本意ではないと考え、削除することに決めました。

 

 

 削除3例目は今年10月に沼津で開催された、静岡県酒造組合主催・静岡県地酒まつり2009の報告記事です。

 今回の地酒まつりは運営方法が変わり、スタッフからもゲストからも様々な反響があったと思います。私はスタッフ側の内情と、一般ゲストの声の両方を知る立場にあり、正直にいえば、現場でいろんな声を聞いて過剰に反応し、事後はかつてないほどの疲労感に陥ったのでした。

 

 

 報告記事は、現場で起きた出来事の背景や事情をきちんと調べてから書くべきでしたが、自分にとって大切な酒友や、業界に貢献してくださった方からの反響が重かったため、自分が代表して“クレーマー”になろう、自分が発言すれば組合側は今後の対策の参考にしてくれるかもしれない、と、変に肩に力が入り、間髪入れず、現場で見聞きした出来事をそのまま書いてしまったのでした。

 

 

 その後、記事を読んだという組合理事のお一人から、「気苦労をおかけし申し訳なかった」と丁寧なお電話をいただき、内容への指摘は特段なかったので自分の思いは通じたのだと安堵しました。

 ところが11月初め頃、組合とは別組織の人から呼び出され「組合理事会で鈴木さんの記事が問題になっている」と聞かされ、ビックリしました。「現場で見聞きしたことをそのまま書いてしまったので誤解や間違いがあるようなら直接うかがいます、理事会へもどこへでも出向きますとお伝えください」と答えました。

 

 その後音沙汰はなかったのですが、今月中旬、組合から会長名で、組合に対する誹謗中傷であるとの抗議文と謝罪要求が、配達証明文書で送られてきました。この要求は組合員全員の総意である、と強い文言でした。

 これほどの一大事になってしまっていた事実を知らずにいたことに、恥ずかしさと同時に、「いっときの感情のまま、その場の事を書いてしまう」ブログの怖さに自ら陥り、それが「現場の率直な声だから」とどこかで言い訳していた自分の短慮に気付かされました。

 

 

 組合を誹謗中傷する気持ちなど元よりまったくなく、記事の書き方が過激だと受け取られたならば、運営が変わったことへの現場の戸惑いと情報の行き違いによるものです。しかしながら、事情や背景を調べず、真相とは異なる情報を記事にしたことにより組合の関係者を傷つけたことは、いただいた文書を通し、改めて痛感いたしました。重々反省し、心よりお詫び申し上げます。

 事情を知る関係者と相談の上、記事は本日(20日)をもって削除しましたので、あわせてご報告いたします。

 

 

 

 このこととは別に、1000人以上も集まる飲酒イベントでは、想定外のトラブルや、参加者の温度差・蔵元スタッフ側の温度差が生じるものです。

 運営方法を変えたのであれば、(いつも実行委員会で反省会を開くはずなので)良かった点・改善すべき点をぜひ検証をし、来年以降、よりよい地酒まつりの運営に反映していただきたい。これは地酒まつりを20年余応援し続けてきた一参加者の希望としてお聞き留めください。よろしくお願いいたします。

 

 

 

 2年間の総括が長くなってしまいましたが、最後にブログを始めてよかったと思えることを少し。

 

 『杯が乾くまで』の一日あたりのアクセス件数は150件前後です。この数字が低いのか多いのか想像がつきませんが、基本的にこのブログの存在を知っているのは私と直接関わりのある人だけだと思いますので、知り合いの間に限った中だとしても、毎日自分の原稿を三桁のカウントで読まれている事実には、素直に喜びを感じています。

 

 

 その中でも、意外といっていいのか、検索キーワードを分析すると、多いのは「地酒」ではなく、「歴史」「朝鮮通信使」「NPO」なんですね。たぶん地酒に関係するホームページやブログはごまんと存在するので、私みたいなローカルライターの個人日記的ブログは、「酒」のカテゴリーでは目に留まらないのでしょう。それはそれでちょっと寂しい話ですが…。

 

 

 「朝鮮通信使」に関するアクセスが多いというのは、とても光栄です。この分野は研究者の間でも発展途上だと聞いていますので、たぶんブログのような媒体でこれだけ通信使のことを書いている人間はあまりいないだろうし、関心のある人が注目してくれているというのは書き甲斐を大いに実感します。

 

 

 また、ごく少数ですが、このブログを読むことを日課にしてくれている、という方もいらっしゃいます。こんなダラダラとした文字だらけの記事を、読む習慣にしてくださっているなんて、これこそライター冥利に尽きるというもの。その方々の習慣にお応えしていくレベルの記事を、これはライターの使命として発信し続けていかねばと思っています。

 

 

 この先も、筆が走りすぎて失敗やご迷惑をおかけするかもしれませんが、お気づきの点があればどんどんご指摘ください。

 3年目もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 


紅ほっぺイン 新宿

2009-12-19 20:56:22 | 吟醸王国しずおか

 16~17日と東京出張しました。まず16日は東京の企画会社の方との打ち合わせ。今年春に実施し、好評だった首都圏主要メディア関係者対象の地酒プレスツアー第2弾(県主催事業)が、年明けに実現しそうで、引き続いてお手伝いさせていただくことに。どの蔵を、どんなルートで回るか検討しました。

 

 先方の担当者が『吟醸王国しずおか』のことをご存じで、どこかでパイロット版を試写できる場をと、ありがたいオファーもくださいました。東京の名だたるメディア関係者に観ていただけるなんて願ってもないお話。と同時に、一消費者が作る映像が、県主催事業の参加者に、静岡の酒の入門ビデオみたいに受け取られる可能性もあるわけで、映像で紹介する酒蔵が限定されるデメリットをカバーするよう、ちゃんと静岡の酒の普遍的な価値を伝える、そんな作品に仕上げていかなければ・・・と思いを新たにしました。県や酒造組合には一切支援してもらえず、無視され続けている映像制作なのに、なんでこんな役回りを・・・と自嘲したくもなりますが(苦笑)、自ら望んで背負った責任ですものね。

  

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 17日はJA静岡経済連情報誌『スマイル』の紅ほっぺ取材で、新宿高野本店へ。フルーツ生産者なら、あの店の看板コーナーに自分が作ったフルーツを飾ってもらいたい!と夢見るであろう、かの、新宿高野本店です。

 

 

 17日朝、静岡県から到着したばかりの、県いちご品評会1席~3席までの受賞いちごが、地下2階、地下1階、5階フルーツパーラーの、一番目につく看板コーナーに飾られたのです。

 折しも新宿高野恒例のストロベリーフェアの真っ最中。フルーツパーラーの森山シェフは「(福岡の)あまおうは甘さが乗るのが年明けぐらいから。(栃木の)とちおとめは酸味があるからショートケーキむき。静岡の紅ほっぺは、クリスマス前のいちごの一番の売り時からちゃんと甘いから、生で食べるデザートには最適です」と、自信作の紅ほっぺパフェを披露してくれました。

 

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 こうしてみると、見た目も惚れ惚れするほど美しいいちごですね~!! 撮影後に試食させてもらいましたが、もっちろん味もGOOD。高野のシェフにこんなふうに薦められるなんて、紅ほっぺ農家のお父さんたちに聞かせたいなぁ・・・。

 

 あまおうも、紅ほっぺも、新宿高野本店が首都圏で火をつけてブランド力を高めていった品種。このほかにも、春になればひのしずく(熊本)、さがほのか(佐賀)といったいちご新品種を取り扱うそうです。

 「うちには(新しい品種を産地とともに育てていく)責任があると思っています」と使命感を語るスタッフ。思えば、静岡の酒も、造り手と一蓮托生の思いで育ててきた酒販店の使命感のおかげで、ここまできたんですよね。

 

 

 

 ブランドを育てる力とは、まず第一に品質であり、その品質を守る技術と語る&見せる技術、どちらもヒューマンパワーに他ならない・・・紅ほっぺを、自信たっぷりに薦める新宿高野のスタッフの表情に、改めて実感させられました。


スローライフの実践者

2009-12-15 17:41:36 | アート・文化

 先週末は日頃お世話になっている女性2人とともに、伊豆の国市三福の『無畏庵』でオンナの忘年会を開きました。一人は超多忙な女性管理Dsc_0005職で、一人はバリバリの広告営業ウーマン。3人のスケジュールを合わせるのは至難の業で、1年がかりで実現した忘年会、ということで、多少遠くても私の個人グルメ帳の中でもイチオシの店にお連れしようと、4月のお花見会でお世話になった無畏庵さんへ。

 

 ご主人安陪均さんと絹子さん夫妻は、過去ブログでも紹介したとおり、陶芸家兼料理人の旦那さんと、静岡県初の女性酒匠の奥さんという素敵なカップル。安陪さんの、大阪吉兆仕込みの妥協許さぬ包丁技で、自作の器や東西の名古陶器に盛られた味、そして絹子さんが1年熟成させたという白隠正宗純米大吟醸斗瓶取りを存分に満喫させていただきました。

 

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 築300年、かやぶき屋根の無畏庵は、福厳院の母屋にあたり、安陪家が収集した古美術や古文書の宝庫でもあります。「住まいと一緒だから予約が入ると前日大慌てで掃除する」「ちゃぶ台は廃品置き場から拾ってきたの~」と笑う安陪夫妻ですが、築300年の家で暮らすって、口で言うほど簡単じゃないと思うんです。

 

 

 

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 古いものを修繕したり磨き直したりして大事に使う。料理も、食材の味や色やカタチを活かし、皮やヘタも無駄にしない。いい器も、ガラスケースに陳列しておくんじゃなくてちゃんと使う。美と日常がひとつになっているんですね。無 畏庵に行くと、日本的な暮らしの価値と、在るものを活かして客をもてなすホスピタリティの原点を見直すことができる気がします。

 

 

 

  

 

 


朝鮮王朝と三島の「誠信」

2009-12-14 10:26:53 | 朝鮮通信使

 少し遅くなりましたが、先週9日(水)夜、09年度第3回静岡県朝鮮通信使研究会総会があり、伊豆の国市文化財保護審議委員の桜井祥行先生からとても興味深い近代史秘話をうかがいました。『坂の上の雲』で注目が集まる近代Imgp1746 日本草創期における、三島と韓国朝鮮の知られざるつながりです。

 

 JR三島駅の南口にある、湧水の名所・楽寿園・楽寿館。ここは、もともと戊辰戦争の奥羽戦線で活躍した小松宮彰仁親王の別荘地でした。明治22年に東海道線が国府津まで開通し、国府津からは御殿場線が敷かれて下土狩まで延びた頃、(今の楽寿園のあるところが)水が満々と湧き出る場所ということで建てられました。

 

 

 この小松宮別荘=楽寿館を、1911年(明治44)から1926年(大正15)まで利用していたのが、朝鮮李王朝第26代皇帝高宗の次男・李垠(イ・ウン)です。1898年(明治30)生まれの彼は、1907年(明治40)、わずか10歳のときに伊藤博文に“日本留学”と称して連れて来られ、日本の皇室に組み込まれ、李王世子(英親王)と呼ばれるようになった人物です。

 

 李垠は1911年(明治44)から1926年(大正15)まで毎年のように避暑地として楽寿館に滞在し、小浜池に船を浮かべて櫓を押す姿が当時の静岡新報、静岡民友新聞等に紹介されました。

 

 

 李垠が三島に避暑で滞在したのは14歳から29歳の青年期。三島の市民にとって、皇室は雲の上の存在だったと思いますが、若きプリンスの評判は高かったそうで、田方郡長がヤマメや狩野川のアユを献上した記録や、三島高女の優等生に“李王賞”と呼ばれる硯箱を下賜したという新聞記事が残っています。女学生への表彰は、小松宮の時代から続いていたそうで、李垠もその善き伝統を継承したわけです。

 

 1919年(大正8)に高宗(李垠の父)が亡くなり、朝鮮で国葬が執り行われた日は、三島市内の学校や銀行が休業して哀悼の意を表しました。喪が明けた1920年(大正9)に梨本宮方子妃と結婚したのですが、そのお祝いで三島~沼津の沿道は大変な人出だったそうです。

 

 

 2人の間に生まれた長男は生後7カ月で亡くなり、1931年に生まれた次男李玖氏は、日本の植民地支配から解放後の1947年、皇籍離脱に伴って李王家が消滅したため、1392年から続いた李王朝最後の末裔となったのでした。

 李玖氏は強い反日政策をとっていた李承晩大統領の反対で韓国に戻れず、アメリカにわたってマサチューセッツ工科大学に進み、建築家の道へ。1963年に朴正煕大統領の配慮で韓国への帰国を果たし、晩年は日本と韓国を行き来しながら、2005年7月に東京で亡くなりました。ついこないだまでご存命だったんですね、桜井先生も直接お会いしたことがあるそうで、生前、両親が避暑地として親しんだ楽寿館の建築に強い関心を寄せていた、とのことです。

 

 父の李垠は1970年に亡くなり、母の李方子(梨本宮方子)は1989年に亡くなりました。方子さんは晩年、韓国で福祉教育に尽力し、葬儀は準国葬扱いでした。

 「日本の植民地政策の時代はいろいろな悲劇もあったが、明治末から大正期にかけ、李垠が楽寿館に滞在していた頃は、三島の市民にとって朝鮮通信使並みの人気があり、親しまれた存在だったと思う」と桜井先生。楽寿園は昭和40年代まで水が満々と湧き出ていたんですよね。そこで朝鮮国のプリンスが舟遊びをしていたなんて今までまったく知らず、不勉強でした(恥)。日本と朝鮮半島の暗い時代に、地元でこんな「誠信の交わり」があったことを知ることができ、朝鮮通信使の勉強を続けてよかったなぁとしみじみ思いました。

 

 

 

 実は、三島は朝鮮王朝とのゆかりが他にもあって、ご存知の方も多いと思いますが、三島の佐野美術館の庭園に、朝鮮半島から運ばれたとみられる石造が10体ほど置かれているんです。その中に、高さ4メートルもある『神道碑』があります。神道碑というのは国王の墓の道に置かれる碑のこと。ただしこの碑のことは、佐野美術館の蔵品リストには載っておらず、館長の渡邊妙子氏は「美術館創設者の佐野氏が高島屋美術部から購入したもので、高島屋は多摩川の土手に放置してあったのを運んだという」と静岡県博物館研究紀要(平成19年)に解説しています。

 

 

 兵庫県在住の郭昌坤さん(60)が、学生時代に1年間過ごした三島を今年になって久しぶりに訪ね、佐野美術館によってこの碑をじっくり眺め、文字を解読しようと写真にとって調査したところ、朝鮮国王子楽善君の神道碑で、撰したのは五衛府都総管の朴弼成であることが判明しました。

 楽善君とは、李王朝16代国王仁祖(在位1623-49)の子で、仁祖は、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵攻)で活躍した第15代王光海君(韓流ドラマ『王の女』の主人公でもおなじみ)がクーデターで廃位された後、即位した王。正妃の次男が第17代孝宗となった。楽善君はその異母弟にあたる人物です。

 

 

 この神道碑に書かれた内容が判明すれば、楽善君の死の真相も解明されるはず、と、郭さんは専門家に検証を依頼することに。相談を受けた県朝鮮通Imgp1743 信使研究会が拓本を取り、今月、民団の関係者に届けた、という次第です。その4メートルもの拓本のコピーを、この日の総会で見せていただきました。

 

 

 検証はこれからなので、どうなるかわかりませんが、もしホンモノの神道碑ならば、被葬者が特定できる石造物は非常に貴重なので、本国へお返しすることになるやもしれません。金両基先生によると「楽善君の墓はソウル壽進宮にあったとされるが現況は不明。彼は聡明な王子だったが後継者争いに負け、日蔭の人生を歩み、死後その人柄が再評価されて神道碑が建てられたと考えられる」そうですから、なんとか真相を解明したいですよね。

 

 採択はじめ調査にかかる費用は研究会の自腹になるので、もし興味のある方は、ぜひ研究会にご参加いただき、活動への賛助をお願いいたします! このブログにご連絡いただければ事務局へお繋ぎいたします。


紅ほっぺイン シーズン

2009-12-10 18:13:52 | 農業

 年の瀬というのにあんまり寒くありませんね。酒造りや農産物の取材が多いと、「あんまり暑くない夏」「寒くない冬」というのが無性に気になります。

 

 

 今月に入ってから、JA静岡経済連の情報誌『スマイル』の取材が始まりました。今回の特集はいちご。前回はガーベラ、前々回はお茶だったから、久々のくいもん系にワクワクしてます!

 

 静岡のいちごといえば、ついこないだまでは『あきひめ』で、最近では『紅ほっぺ』。いつのまに“政権交代”しちゃったの~?と不思議に思う人も多いでしょう。3年前のスマイルいちご特集で、紅ほっぺの生みの親・竹内隆先生(静岡県農業試験場生物工学部主任研究員=当時)を取材し、まとめた拙文の一部を再掲しますね。

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◎いちごのブランド競争

 いちごというのは野菜や果物の中でも、とりわけ品種の知名度がモノを言う世界。ブランド化に成功した品種は全国津々浦々に浸透しますが、新しい品種を作るというのは大変な労力と時間がかかります。一般の企業ではなかなか手が出せず、大半が公的研究機関で行っています。静岡県農業試験場の竹内氏も新品種の育成に18年間携わり、100を超える品種を試作。「紅ほっぺ」を生み出すまでには7~8年の歳月を費やしました。「あきひめ」の萩原章弘さんのように個人農家が育成に成功したのは全国でも非常に珍しい例です。

 

 静岡県は石垣いちごの伝統を持つ日本でも有数のいちご産地で、萩原さんのような優秀な生産者を多く輩出しています。しかしながら現在のいちご生産量は全国5位。東京や大阪などの大消費地では、栃木の「ときおとめ」、福岡の「あまおう」といった品種が主流となっています。

 

 福岡県は、静岡県の2倍の生産規模を持ち、数の上では太刀打ちできません。その上「あきひめ」は果肉が軟らかく、つぶれやすいため、県内消費が中心でした。京浜市場の関係者からは、甘みが強く酸味が少ないあきひめの味について、「酸味を嫌う子どもにはいいが、いちごらしい甘酸っぱさに欠ける」という声も聞かれました。

 

 そこで、あきひめの弱点である果肉質と酸味をカバーし、なおかつ、あきひめの強みである“作りやすさ・形のよさ・色の美しさ”を活かした新品種を目指し、1994年2月、さちのか(果肉が硬く、味も濃厚)を花粉親に、あきひめを種子親にして交配することからスタート。数年間の試行錯誤を経て、99年3月、「紅ほっぺ」という名称で品種登録申請を行いました。

 

 紅ほっぺを静岡いちごとしてブランド化させるのに最も大切なのは、栽培技術を合わせて考えることです。せっかくいい品種ができても、限られた条件下でしか作れないものなら普及・ブランド化は望めません。あきひめが県内で一気に普及した要因の一つは、生産者が作りやすい品種だったからでした。そしてあまりにも、あきひめ一辺倒になってしまったため、他の品種に取り組む生産者がなかなか現れませんでした。

 竹内氏が新しい品種を作る時、意識したのは、「自分がいちご農家だったら作りたくなるか?」「これを作って生計が成り立つか?」「自分が店頭で買うか?」でした。いちごは好き嫌いの少ない万人に愛される果物です。豊富なビタミンCを手軽に摂取できるなど、栄養食としても優れています。「消費者に喜ばれるいちごが、作る人にとっても喜びを与える農産物になってほしいし、そうあるべきだと思う」と竹内氏は言います。

 

 紅ほっぺは、あきひめの作りやすさ、さちのかの食味・肉質を受け継いだ“優等生”ですが、炭そ病、うどんこ病など、両親(あきひめ・さちのか)が苦手な病気にやはり弱く、硬さは両親の中間で、実の重量にバラツキが出やすいという欠点も残りました。

 

 しかし、竹内氏が手掛けた100以上の品種の中で、最も栽培管理がしやすい品種であることは間違いないそうです。欠点を十分に補えるだけの多収性や良食味性があることを、県内のいちご生産者や指導者に理解してもらい、技術の改良改善に努めてもらいました。そして、紅ほっぺの苗を県とJA経済連の契約によって各JA組合員に配布し、2007年度は全体の5割、翌年以降はさらにシェア拡大を目指して生産されています。(文・鈴木真弓  JA静岡経済連情報誌『スマイル』2007年1月発行号より)

 

 

 

 ・・・といった経緯のとおり、紅ほっぺは、生産者の都合(作りやすい、多収性など)ではなく、市場の声を重視して作られた品種。実際、あきひめから紅ほっぺに切り替えたばかりの頃の農家は「あきひめより量が採れない」「体形がふぞろいでパックに詰めにくい」という不満もあったそうですが、東京市場では「こんなに味のいいいちごは他にはない」「甘み・酸味・コクの3拍子そろい、色も形も申し分ない」と絶賛され、評価もうなぎのぼり。今では静岡県内で作られるいちごの約8割が紅ほっぺになりました。

 

 

Imgp1740  7日(月)に取材にうかがった人気スイーツショップ『ナチュレナチュール』のシェフパティシエ吉田守秀さんも、「甘味だけじゃなく、キレも酸味もあって、ケーキの中に入れても飾りでも使いやすい」「ヨーロッパのフルーツは原種的で昔風のインパクトのある味が多く、向こうで修業した菓子職人は、フルーツに主張ある味を求める。その意味でも、紅ほっぺは菓子に向く。あきひめはケーキで使うには、ちょっImgp1742 と味がぼけてる感じかなぁ」と評価していました。(吉田さんには、ナチュレナチュール特製「紅ほっぺのタルト」の作り方を手とり足とり教えてもらいましたので、スマイル(10年1月発行号)をお楽しみに!)

 

 

 

 東京への出荷量は、静岡県が束になっても、栃木県の一農協分ぐらいしかなかったそうですが、東京での知名度も少しずつ上がり、今では、市場価格は「あまおう」に次いで2番目の高評価だそうです。

 

 

 今日(10日)、取材にうかがったJA遠州夢咲いちご委員会の松下一夫委員長は「市場が求める品質と量に、きちんと応えることが最も重要」と力を込めまImgp1751 す。価格で評価されるというのは、生産者にとって最大のご褒美でしょう。この地区の紅ほっぺの流通先は、県外7割、県内3割だそうで、静岡のトップクラスの酒と同じだな~と感心してしまいました。

 「夏場は涼しかったので、一番気を使う苗づくりの時期、病気が少なく助かったが、冬場こうも暖かいと、いちごの体力には負担になる。1月中~下旬の一番寒い時期に最盛期を迎える晩品種だからね」と松下さん。

 

 

 酒米の山田錦も、8月下旬に出穂、10月中旬に収穫の晩品種で、夏場の気温や台風被害に左右される米。日照不足だった今年は、収量が心配されましたが、まぁまぁなんとか例年並みに収まったようです。

 加工用米と生食いちごを同列にしちゃいけませんが、紅ほっぺも静岡吟醸も、ふるさと自慢の農産加工品であり、自然の営みをコントロールする難しさと、市場でブランド化する難しさには相通じるものもありそうです。

 

 

 そういえば、以前、東京の食のコーディネーターの先生が、「あきひめは静岡酵母の酒に合う」と言っていたのを聞き、去年、SBS学苑沼津に呼ばれたとき、あきひめを吟醸酒で、紅ほっぺを純米酒で味わう実験をしましたっけ!いちごと新酒はおんなじ時期に市場を騒がせますので、ぜひお試しあれ。