ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(平泉・高舘義経堂)

2018年05月12日 | 旅行

久しぶりに奥の細道です。

当ブログはやっぱり旅行の話がすわりがいいようです。

東北新幹線を一関駅で降りました。

一関市はピカチュウが沢山出るそうです。

大船渡線はPOKEMON with  YOUトレイン が出ていて列車全部がピカチュウで列車の中でもピカチュウが大発生するそうです。

更に在来線を乗り継いで北を目指します。

芭蕉一行は5月12日(陽暦6月28日)の夕方一関に着きましたが「合羽モトオル」ほどの大雨に見舞われてよく3日に平泉藤原三代の跡を訪ねたようです。

一関駅からは15分ほどで平泉駅に到着です。

右側の駅名は今東光さんの筆跡だそうです。

 

駅前を見渡して見ましょう。電柱もなく整然とした街並みになっています。

世界遺産に登録されるにあたっては町並みをを整備しなくてはいけないので相当の予算を使ったそうです。

収入を増やすには出費も増えます。

ご隠居でも2,3か月仕事もあって売上増えたなぁと思っていると車ぶつけたり自宅の雨どいが壊れたり予期せぬ(売上原価と関係ない)出費に迫られることがあります。

沢山稼いで出費も多いか、こじんまり仕事して消費を少なくするかどっちがいいのでしょうか。

ご隠居的にはこじんまり仕事して質素に暮らす方がストレスもたまらなくていいのですがみんなはどっちかな?

現地に来る前に地図を見ていたら駅前に「芭蕉館」と書いてあるので資料館かと思っていましたが単なるレストランでした。

いつも食事に関しては下調べをしてこないので昼も過ぎていたのでぶらりと入りました。

岩手に来てすぐですが早速わんこそばを注文してしまいました。岩手です。

おばちゃんがホイホイといれてくれるのではなくもうお椀に小分けしてありました。

味は・・・・・・・・・ふだんわんこそばを食することもないので何とも言えません。

 

さて店を出て広場を右折して中尊寺通りから踏切を渡ると「伽羅御所入り口」の標柱がありますが何もないとのことで先を急ぎます。

 

次に柳御所遺跡という標柱がありました。広大な広場です。

その先は北上川が流れています。

初代清衡が平泉に進出して最初に居館をかまえたところで「吾妻鏡」にも記されています。

更に行くと高館義経堂(たかだちぎけいどう)です。

早速入山しましょう。

階段を上ると北上川の雄大な流れが見えます。

新幹線であっという間にここまでやって来て芭蕉が訪れた当時とあまり変わらない風景が見えます。

芭蕉は日光、松島、平泉、出羽三山など特に思入れが強く書かれているようです。

芭蕉ファンも多いのでこのへんでうっかりへらへら軽い文章を書くと怒られそうですので嵐山光三郎さんの文章でも。

川向こうに見えるのは束稲山(たばしねやま)か?芭蕉もここから衣川を見てこの山も目に入ったと思いますが本文には触れていません。

単なる旅行記ではないので義経滅亡(世の儚さ)のことに集中させるためでしょうか。

上流方面です。

藤原秀衡は兄頼朝に追われて逃げてきた義経を衣川の館とも言われたここに住まわせあつくもてなしました。

しかし頼朝の威圧に畏れた四代泰衡は父秀衡の命に背いて義経を襲いました。

最後までお供をした弁慶(の立往生)をはじめ鈴木重家など10騎は獅子奮迅の戦いでした。

1189年4月30日31歳にて妻子とともに果てるのでした。

義経は稀代な英雄だったがために頼朝の取り巻きなどにはけむたがれましたがいい部下を持っていましたよね。

嵐山光三郎さんです。

奥の細道本文そのままの風景が眼前にあるのだ。これ以上の説明はいらぬ。

私は、この部分を序章ともども暗記していて、傘にパラパラとかかる雨音を聞きながら反芻した。

雨にけぶる夏草の原には、かつて15万人の藤原氏の都人が住んでいた。

頭の中でこの一節を繰り返しつつも寂として声は出ない。

義経主従や藤原三代の栄華は、生い茂る草の中に夢のように消えてしまい、芭蕉の目には山川草木の中に宿り、ただ無常の風が吹くばかりなのだ。

義経堂がありました。

木像の義経像が祀られていました。さらに近づいて堂内の写真を撮るのも失礼かと思い止めました。撮影禁止とは書いてありませんでした。

義経堂の向かい側に「平泉芭蕉祭記念句碑」がりました。

「夏草や 兵共か 夢の跡」

 

平泉(前半部分)

三代の栄光一睡の中(うち)にして大門の跡は一里こなたにあり。

秀衡の跡は田野になりて金鶏山のみを残す。

まづ高館に上れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて高館の下にて大河に落ちいる。

泰衡が旧跡は衣が関を隔てて南部口をさし固め夷をふせぐと見えたり。

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落しはべりぬ。

 

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

その昔義経主従が奮戦したが儚くも一場の夢と消えた廃墟。

その廃墟の上には夏草が茫々と生い茂り人生の刹那の興亡と夢を象徴しているようです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彩の国ロマン(熊谷市内散策)

2018年04月06日 | 旅行

桜の花を堪能して一度熊谷駅に戻り市内を少しぶらぶらしました。

まだ暑さとは関係ない季節です。

熊谷はうどんの町としても売出し中です。

「熊谷B級グルメ大会」なども毎年開催されていてうまいもん、こだわりの味を追求しています。

星川シンボルロードです。

渓流には鯉が放流されていて遊歩道が続き夏は涼しさをもたらせてくれそうです。

この突き当りには石上寺がありました。

こちらも桜が綺麗です。

境内にある熊谷桜は早咲きの彼岸桜よりも早く開花するので、一ノ谷の戦いで熊谷次郎直実がさきがけを争った故事にちなんでいます。

エドワード・シルヴェスター・モース博士の像

モース博士は東京大森貝塚を発見したことで有名です。

この地に近代論の講演に来たというだけで銅像が立つのだからすごい!

星渓園

竹井家の別邸として、星川の水源になっていた「玉の池」を中心に作られた回遊式庭園です。

のんびりとみなもを眺めて時の流れを感じましょう。

片倉シルク記念館にやって来ました。

館内は撮影禁止です。パンフレットで我慢です。

富岡製糸場の姉妹工場であった片倉工業熊谷工場の繭倉庫を利用した記念館です。

120年に及ぶ日本の製糸の歴史です。富岡に行くにはちょっと遠いと思う人でもここで結構堪能できます。

中国から伝来した糸づくりの技術は日本各地に広まり絹は産業として日本の近代化を担いました。

習近平は気に入らなくても日本人は昔から中国からいろいろ学んできたのです。

なお大正から昭和にかけて我国の総輸出額の50%を占めていました。

まさに絹と静岡のお茶が日本の現在の豊かさの基礎を作ってくれたのです。感謝です。

先人たちの残してくれた足跡とロマンを感じたいものです。

八木橋百貨店前の旧中山道跡の碑です。

熊谷宿は中山道六九次のうち江戸から数えて8番目です。

戦時中に空襲などにもあって破壊されましたが都市計画のもと一新され昔の面影はないそうです。

五家宝なんていうお菓子がおみやげでは有名ですね。

高城神社です。

1590年の兵火で焼失したのを忍城主・阿部正能が再建しました。

忍城といえば「のぼうの城」という映画で有名ですね。豊臣方の水攻めに耐えた話だったかな。秀吉は水攻めの好きな男ですよね。血を見るのが嫌いだったのかな。

熊谷から秩父鉄道に乗って行田市駅まで行けばすぐです。

秩父鉄道といえば熊谷駅から行田市とは反対方向、三峰口の方に向かえば長瀞や羊山など花の名所に行けます。

パレオエクスプレスにでも乗って行ってみてはいかがでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彩の国ロマン(熊谷さくら祭)

2018年04月05日 | 旅行

熊谷さくら祭に出かけてきました。

熊谷市は関東平野のほぼまん中、夏になると館林市と共に暑さ(夏日の多さ)で有名です。

でもこの時期は荒川からの心地よい風が吹いて来ます

熊谷駅前です。立派な桜の木がありました。

まずは荒川土手、熊谷桜堤に向かいます。歩いて5分ほどです。

土手には沢山の人出です。

江戸時代から桜の名所です。 「日本さくら名所100選」のひとつ。

土手沿いに約2kmソメイヨシノ約500本が植えられています。

どこでもこの時期桜の花と菜の花がセットになっていますね。

荒川運動公園です。

ラグビーワールドカップ2019では熊谷ラグビー場でも開催されます。

9月24日ルーマニア対ヨーロッパ、オセアニアプレーオフ勝者との試合が予定されています。

オリンピックやラグビーワールドカップ大会がひたひたと迫ってきている感じがします。

昨年は幸手市の権現堂の桜を見学に行きましたがどちらも素晴らしい。(当ブログにも掲載しています)

いつも言っていることですが花を見るだけじゃ・・・・・。桜の下を散策しながら美味しい匂いに誘われます。

何処のイベント会場でもこんなぬいぐるみというかユルキャラがいます。

子供たちが喜ぶからいいでしょう。

とにかく天気はいいしみんあ花見を楽しんでいます。

ご隠居もみんなの幸福感をおすそ分けしてもらいながらぶらつきました。

やっぱり健康で足腰丈夫、美味しいものが食べられるのが最高です。というのを再確認しました。

金は当面暮らせるだけあれば充分です。若い人たちはそうもいかないと思いますが。

この後熊谷市内を散策しました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉さんぽ(こうざき酒蔵まつり)

2018年03月29日 | 旅行

千葉県神崎町の酒蔵まつりに行ってみました。

一年に一度?午前8時発の一本きり、新宿駅発臨時特急「こうざき酒まつり」号が下総神崎駅に到着しました。

うめぇ酒飲むぞと目を輝かせてみんな降りてきました。

普段は乗降客も少ないんでしょうが今日は臨時の職員もでて頑張っています。

歓迎の酒樽です。

駅から会場の酒蔵まで歩くと20分ぐらいです。一汗かいてから美味しい酒を・・・・歩く人たちです。

駅の横を見ると送迎バスがありました。無料です。

歩くのもかったるいのでバスにしました。でも偉いですよね。

小さな町が予算を工面して送迎バスまで仕立てくれて。神様みたい。

財務省の官僚も上のほうばかり見て忖度なんか考えていないでいつも市民の方を見ている役場の人達を見習いなさい。

無料バスということでがぜん意気軒昂になりました。単純。

仁勇蔵まつりの会場に着きました。酒粕の詰め放題の列です。

まずは蔵見学をしてからただ酒でもいただきましょう。

仕込みタンクが並んでいます。

人間が一生かかってもこのタンクの中の酒をどのくらい飲めるのでしょうか。

タンク飲み干す前に糖尿病になっているかも。

原料米選ぶのにも慎重なんでしょうね。

飲んでいる方はこりゃうまい!もう一杯という感じですが・・・

酵母室。

蔵元のおねえさんです。いける口なんでしょうね。

蔵元に勤務していて「アタシ飲めないの」じゃ絵にならない。

タンクの中が覗けます。井戸のように深い。

美味しくなったら軒先に杉玉掲げて教えるからもう少し待っててね。

ゴボゴボゴボ。

何処にも酵母の香りがして気持ちいい。

みんな酒が詰まっていると思うと酒飲みにはたまらない。だいたい酒の嫌いな人は来ていないでしょうから。

日本銀行にでも見学に行って1万円札の入った段ボールがゴロゴロしていたらみんな生唾を飲み込むでしょうか?

酒は嫌いな人がいても1万円札の嫌いな人はあまりいないんじゃないかな。

見学を終えて敷地内に出ました。

3月の下旬と云うのに5月のような心地よい青空が広がっていました。

どこのイベントに行ってもフラダンスってありますね。

酒蔵だから盆踊りか田植え歌のが似合いそうな気もします。

次にもう一軒の蔵元寺田本家に向かいます。

蔵元の裏手にある神崎神社に寄ってみました。

約1360年前の白鳳時代にこの地に鎮座したそうです。

航空、交通、産業守護の神「天鳥船命」(あめのとりふねのみこと)です。

なんじゃもんじゃの木

国の天然記念物指定されている神崎神社境内にあるクスノキ。

お酒好きの人達です。

酒蔵の煉瓦でできた煙突。白い雲。芽を吹きだした森の木々。日本の春です。

町の人総出で会場を盛り上げてくれています。こんな休日の時間を大事にしたいですよね。

神崎町の皆様ありがとうございました。

 

関東灘 神崎町

この町はかつては関東灘と呼ばれた

酒造りの盛んな町でした。

それはこの地が良質な早場米の産地であり

そして、清らかな地下水に

恵まれていたからでありますが、

更にもう一つ、近くを流れる利根川の

水運を利用して、高瀬舟で江戸の街まで

多くの酒樽を運びやすかったからでもあります。

(仁勇酒まつりを1.5倍!?楽しむ本  より抜粋)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いきいき茨城(大洗町)

2018年03月24日 | 旅行

水戸市から更に足を伸ばして大洗町まで行ってみました。

太平洋に沿ってに砂浜が続き広大な海の風景が楽しめます。

北海道に行くフェリーも大洗港から乗船する人や自動車も多いのではないでしょうか。

大洗美術館に寄ってみました。

「風景窓画」で有名で各種の観光コースに組こまれています。

300号サイズのガラス窓を額縁で囲って窓の外に広がる大洗の海岸風景をそのまま絵画に見立てました。

館内には渋沢栄一の四男が幼少の頃描いた作品の他多彩な作品のコレクションが見られます。

コーヒーのサービス付きですのでゆっくりと時間を楽しみましょう。

島根県の方に足立美術館がありますがこんな感じで庭の風景が楽しめるのでしょうか?

せっかくですので美術館の外に出て海岸を散策してみました。

初日の出の時は鳥居をバックにして多くのカメラに自信のある人たちが集まるそうです。

プロが撮るとこんな感じでしょうか。ある旅行雑誌からです。

大洗サンビーチ、大洗海水浴場などのビーチが並び老舗の旅館も軒をつらねて夏は賑わいそうです。

 

関東一とも言われる(高さ約16m)大洗磯崎神社の鳥居。

旅も終わる時間にこの階段を上るのもなんだかなぁと思っていたらこの先に車で上れる道があると前で写真撮っていたオッサンが教えてくれました。

なにごともすぐにあきらめてはいけません。

確かに立派な神社がありました。

太平洋を望みます。写真は反対側から見ると感じが全く違うことがありますがここはどちら側から見ても階段がきつそうです。

大洗磯崎神社は家内安全、海上安全の守り神として信仰を集めてきました。

有数のパワースポットだそうです。

階段がきつそうなので寄らないで帰ろうかと思っていましたが辿りついてよかった。

まぁ不信心ものですが少し生きる力をかしてください。

というわけで茨城の旅はおしまい。時間があればリニューアルした水族館や大洗マリンタワーなどにも寄ってみるといいかもです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いきいき茨城(弘道館)

2018年03月21日 | 旅行

列島はお彼岸となりました。今年も時間が過ぎていきます。3月もすぐに終わります。

千葉市内では朝から冷たい雨が降っているあいにくの、お彼岸の中日となりました。

皆様はお墓参りは済ませたでしょうか?

 

さて水戸です。偕楽園から市内中心部水戸駅近く三の丸にやって来ました。

水戸東武館。

剣道、居合道、なぎなたなどを修練する道場だそうです。

全国選抜少年剣道錬成大会が行われる場所です。

城下町という雰囲気が町全体に醸し出されていていいですね。

1932年建造されたかつての水戸市上水道供給施設です。

彫刻が美しい。

茨城県三の丸庁舎。

正庁は後の楽しみにしてまずは周りからです。

鹿島神社。

神儒一致の建学の精神のもと、鹿島神宮から分祀した、たけみかづちの神が祀られています。

こじんまりとした可愛い感じがします。

八卦堂。

建学精神の象徴である弘道館碑が納められています。

それでは正門の方に回ってみましょう。

ここでも梅の花が綺麗です。

背伸びして何を見ているのかな?

正庁・至善堂(国指定重要文化財)

正庁は藩主の臨席のもとで大試験や諸儀式おこなわれた場、至善堂は藩主の休息所や徳川慶喜をはじめとする諸公子の勉学の場所です。

正庁諸役会所。

正庁正席の間。

どの部屋も稟としています。

外に目を向けるとロウバイや梅の花が飛び込んできてなんだかほっとします。

やっぱり堅苦しい組織の中に入るより自由気ままに生きるのがいいかなと思いました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いきいき茨城(偕楽園梅まつり)

2018年03月16日 | 旅行

水戸偕楽園の梅まつりに行ってみました。

金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつです。梅の名所ですね。

常磐線をまたいで南門の方から入りました。

少し坂を上って好文亭の方に向かいます。

なにはともあれまずは好文亭です。

好文亭は木造二層三階建てで好文亭本体と奥御殿からなり、二つの建物は太鼓橋廊下で結ばれています。

昭和20年の水戸空襲で焼失、また東日本大震災で被災しましたが何とかこの賑わいに戻りました。

歴史的建物にもそれなりの歴史があるのですね。

庭園も奇麗です。

3階に上ると千波湖が良く見えました。

徳川斉昭公はここからの景色を愛でて文人墨客、家臣、などを集めて歌会や慰安会などを催したのでしょうか。

長閑ですね。

護国神社も見えます。

水戸家といえば二代藩主徳川光圀公を思い出します。

大日本史を編纂した人と云うよりは「水戸黄門」様で有名ですよね。

もっとも光圀公は関東地方よりは外に出たことはほとんど出たことはないと言われているので面白いですよね。

助さん、格さん、風車の弥七、うっかり八兵衛、引き連れて、かげろうお銀もいましたねぇ。楽しそうな旅でいいですよね。

必ず最後は悪人が懲らしめられるのがわかっているので安心してみていられる。

現在だったらあの麻生財務大臣、善悪は別にしてもみんな気に入らないと思っているから黄門様でも出てきてどうにかしてくれませんかねぇ。

さて外に出て園内をぶらつきましょう。

若い人に囲まれて楽しそうです。

ご隠居も含めて人生最後まで楽しく生きていきたいですね。

こちらは将来の日本の借金や年金を支えてくれる諸君。

元気で大きくなってね!

徳川斉昭公は第九代藩主です。

幕末に藩政改革を推進して海防参与として幕政にも関与。

NHK大河ドラマ、西郷さんにも出てきますね。

1833年に梅林計画を立てました。七面山と呼ばれる大地の一画を切り開いて飢饉と軍用の非常食として梅の木を植えさせたといわれています。

そのおかげで今こうして美しい梅林を見ることができます。

徳川斉昭公の七男として水戸藩邸に生まれた徳川慶喜はご存知のように第15代将軍となりましたが翌年には大政を奉還して辞職。

最後の将軍いなってしまいましたが静岡に戻ってのんびりと人生を楽しんだようです。

フランス革命みたいに過激ではなくて日本人らしいですよね。

正岡子規も偕楽園を明治29年に訪れています。

  崖急に 梅ことごとく 斜めなり

すぐに桜に季節になりますが梅はせっかちにすぐに花が散らないところがいいですね。

園内ではお弁当を広げている人は沢山いましたが酒を飲んでいる人はあまり見かけませんでした。

売店でも酒はないようでしたが気のせいかな。

ご隠居も年のせいか、花なんか関係なく酔っぱらっている人を見るのは嫌だなと思いようになりました。

お酒はレストランにでも入っても飲もうよ。

ご隠居の好きな歌

「想い出の木の下で」 のようです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東海道(岳南電車)

2018年02月22日 | 旅行

東海道線を興津駅から吉原駅まで戻って来ました。

吉原駅ではホーム後ろ側(静岡より)のレトロの感じの跨線橋を渡るとJRの改札口はなく、すぐに岳南電車の出札口となりました。

いかにものんびりと地方都市を走る電車の終着駅と言った感じを醸し出しています。

早速電車に乗ってみましょう。

一日フリー乗車券700円です。今どきうれしい硬券です。

終点の江尾駅まで片道360円ですから往復するだけでもとはとれます。

東海道線に一部並行している路線を岳電7000系電車が一両でやって来ました。

岳南電車は吉原駅と岳南江尾駅間9.2km、10駅があります。2月23日は「富士山の日」だそうですよ。

どの駅からも富士山が見えることを売り物にしています。

平成26年10月鉄道でははじめて「日本夜景遺産」に認定されました。

夜景をたのしむ特別の車輌も運行されているようです。

電車に乗ってみました。日曜日ということもあって地元の人らしきお客が三人ばかりです。

あとはもの好きのカメラを持ったご隠居だけです。

CM通り停車中の車窓からも富士山が見事の見えました。

電車は吉原駅を出ると東海道線を左に見ながら右にカーブして突然雄大な富士山が目に飛び込んできます。

給料が多少安くても東京の地下鉄をモグラみたいに運転しているより幸せな感じがしますがどんなもんでしょうか。

彼女に振られたりして多少落ち込んでいても昼にかつ丼なんかを食べて少し元気出して、午後から美しい富士山見ながら運転して楽しいじゃないですか。

電車は製紙工場の間を縫うように走って行きます。

パンフレットにあるように夜景がきれいな場所なんでしょう。

岳南富士岡駅です。車両基地もあるので一応下車してみました。

逆光ではないのですが少し露出不足でしょうか。なかなかいい写真が撮れません。

昔は貨物輸送も経営していたみたいです。ED291かな。

きちんと富士山も見えます。

そして終点の岳南江尾駅(えのおえき)に着きました。

左は「がくちゃん かぐや富士」の二両編成の青がえる。

駅舎の先に新幹線が走っています。擁壁が高いのでよく見えませんがちょうど上りの新幹線が通過しました。

さて帰りはジャトコ前駅まで戻り少し吉原駅方面に歩き写真の綺麗に撮れると言われている場所に陣取りました。

ちなみにジャトコは自動車部品などを制作している工場名だそうです。

富士山から冷たい風が吹いていましたが一時間ばかり粘って何枚か撮りました。

昔だったら根性のないご隠居ですので暑かったり寒かったりしていると電車なんか入っていない写真を一枚撮ってさっさと撤収しました。

ブログを始めたおかげでいい写真を撮りたい、生きがいというかなにごとにも少し粘ることができるようになりました。感謝。

今回は日帰り旅行、これで終わりです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東海道(興津寒ざくらまつり)

2018年02月16日 | 旅行

平成30年「第21回興津宿寒ざくらまつり」に行ってみました。

冷たい風が吹いていましたが新幹線の車窓からも富士山が良く見えました。

東海道線興津駅前です。

早速町を歩いてみましょう。

魚屋さんの店頭の干物。すぐ前には太平洋が輝いているのが分かります。

そして温暖な気候。住宅の前に蜜柑の販売。東海道は冬歩くとその良さがことのほか感じられます。

興津宿公園。

駅前からすぐに東海道に突き当り右折すると小さな公園があります。

トイレなども奇麗に整備されていて一休みにはもってこいです。

興津は東海道五十三次十七番目の宿場町です。現在の住居表示は静岡市清水区となっています。

「あんこのふるさと興津」というのがキャッチフレーズのひとつつとか。

興津出身の北川勇作という人が餡を造る機械を自ら発明して機械による製餡技術を確立したそうです。

まあ製餡業の基礎がここで築かれました。

ちなみに餡子は約1400年前中国から伝わりその頃は甘くなかったそうです。

会場である静岡市興津生涯学習交流館に着いたとたんになにやら朝鮮通信使の衣装をまとった人達がパレードに出ていきました。

わけわからないけどとりあえず一枚撮っておきました。

寒桜はまだ早いようで会場内でもチラホラといった感じでしょうか。

やっぱり静岡県です。どこからも富士山が良く見えます。

山頂付近は風が強そうで雪が舞っているのが分かります。

少し咲いているのをやっと見つけました。

静岡市消防団の演奏会。

我々も地域でやるイベントでは消防署や警察署から演奏に来てくれます。日本中こんな感じなんですね。

さて無料の甘酒を一杯いただいて金は使わず駅の方に戻りましょう。

町の中の寒ざくらもまだつぼみが多いようです。

東海道線の踏切を渡って耀海寺の夏心堂に寄り道しました。

夏心堂。

元禄7年お茶壺道中警護の役人だった多羅尾小左エ門が武士の心気地で(彼は顔に瘡があったのをいつもからかわれていたのですが)同輩の武士をいつものように笑われて討ち果たしてしまいました。

一時的な感情でしたことに悔い耀海寺の住職に勧められて切腹しました。

臨終に際し「もし我を祈らばかならず瘡毒に験あるべし」といいのこしたので後に瘡毒、疱瘡に苦しむし人達が参拝しました。

多羅尾氏の戒名が夏心了道信士といったので耀海寺は夏心さんのお寺ということになっています。

さて東海道に戻って駅に入る交差点を過ぎて少し由比町の方、興津川の畔まで歩きました。

東海道といってもこの辺は昔の面影は何もありません。

海側に静清バイパスがあるので車の往来も少なくてまた舗道もゆったり作られているので散策しやすいようです。

江戸より41番目の一里塚址です。

昔の旅人はこれを見るたびに江戸に一里近づいたなと思ったのでしょうか。

東海道と身延山にむかう(甲府)道の分岐点です。

奥の巨大な道標として題目碑が立っています。

昔四ツ乳の作右ェ門という力持ちが一人で背負ってきたという伝承があるそうです。

宗像神社の鳥居。

宗像神社は海上交通の守護神である筑紫の宗像神社を歓請したもので平安中期の建立とか。

本殿は奥まった場所みたいですが先を急ぐので省略。興津川も平凡。

風も強くなりそうなのでこの辺でいつもの撤収です。

興津駅に戻り東海道線に乗り吉原駅に向かいました。

東海道中膝栗毛

興津ヨリ江尻へ一里二丁

みすぼらしい茶店に、雨宿りついでに駆け込むようにして立ち寄ると、

北八「おいばあさん。その黄粉をつけた団子を二、三本くんなせぇ」

弥次「久しぶりだなぁ。いつもご老体ますますお達者でめでたいなあ。やっぱりこの子も、ちいさいとき見おぼえたより大きくなった。例の姉様は元気かい」

ばば「わしは子供もないわいな」

弥次「それなら孫か」

ばば「いんにゃ、子がなけりゃ孫は生まれねえ」

弥次「さようか。おめえのの孫でなけりぁあ。たしか、どこかの孫であった」

ばば「いんね。馬子じゃおざらない。となりの駕屋の子でおざるわい」

弥次「はははあ、そうかあ。坊主、団子が二つ余った。さあおたべ。おいしいよ」

かごやの子「おらあ、いやだ」

弥次「なぜ、いやだ」

かごやの子「糠あつけた団子はいやだ」

弥次「なに、糠つけたあ。糠なもんか。ちゃんとほらきな粉だ」

ばば「いんねい、わしらが店では米ぬかつけて売りやすのが名物で通ってますだ」

弥次「ええっ。どうりぜざらざらすると思った。ぺっぺっ。犬にやろう。それ、・・・・」

犬「わんわん」

弥次「それ、やろう、あんといえ」

犬「ああん」

弥次「ああん、おいしいもんだ」

残らず犬にやってしまい、あと味悪く生唾をはく。粉ぬか茶屋をあとにして辿って行くが、雨はしきりに降りつづいて洒落気もなく、無言の行進は足も重たくただとぼとぼとで。

江尻の宿を過ぎたころからようやく雨は晴れてきた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉さんぽ(江月水仙ロード)

2018年02月09日 | 旅行

道の駅から、一度保田駅に戻り今度は内房線の踏切を渡って見返り峠を目指します。(水仙ロード)

こちらは木立の間に水仙が咲き誇っています。

長閑な上り道が続きます。

良くみんながが写真を撮っているポイントです。

房総半島は蜜柑も結構採れます。

でもやっぱり静岡の方が甘いかななどと言うと怒られたしまうかも。個人の感想です。

逆光で撮ってみました。

菜の花も咲いています。

更に道は続きます。

水仙から始まって、梅、桜、菖蒲、紫陽花、向日葵、菊と花の季節は進んで行きます。

もうすぐ峠です。

農家の萱葺き屋根の家でもあると写真も出来栄えが良くなりそうですが住んでいる人にとっては大きなお世話。

おまえ等に良い写真取らせるために住んでいるんじゃないよと言われそうです。

それにしても早く春が来て暖かくならないかなぁ!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉さんぽ(きょなん町水仙まつり)

2018年02月06日 | 旅行

日中の日差しは明るくなってきましたが寒い日が続いています。しかし

大相撲のスキャンダル、間もなく始まるピョンチャンオリンピック、ニュヨーク株式の暴落に始まって東京市場の混乱。マスコミの話題には事欠きません。

さて以前に当ブログでも紹介した鋸南町の水仙まつりです。

前回は江月水仙ロードだけでしたので今回は「をくずれ水仙郷」の方も廻ってみました。

まずは「をくずれ水仙郷」へ行ってみました。

こちらは暖かい陽射しを浴びて道路わきの土手には水仙が満開です。

長閑な道がどこまでも続いています。日本の早春。

道端に腰を下ろしてのんびりあくびでもして・・・・・・。

都心では金儲けでみんなあたふたと動き回っているのでしょうか?

お客さんが少ないので値下げしたのでしょうか?

小さな神社がありました。八雲神社。

昭和13年に焼失したそうですが26年に再建しました。

平成の昔話。

「昔々千葉の行政書士が春の日差しを感じながら、をくずれ水仙郷を歩いていたそうな。八雲神社で参拝していると急に眠くなってきて芝生でうとうとしていたそうな。

突然水仙の中から美しい女神が現れて、いままで真面目に仕事もしてきたし自治会長もやって地域の世話もしてきたので何か褒美をやるので一つだけ言ってみてごらんと涼しげな声で言いました。

ご隠居は「億り人」になりたいですと答えてまた眠ってしまいました。目が覚めると一億円が当たる宝くじが置いてありました」

と言うようなことにはなりませんかねぇ。せこくて昔話にもならないか!

それにしても平成も、まもなく終わりますね。子供の頃明治時代と云うとかなり昔と感じましたが現代の子供たちには次の新しい年号が出来て、「昭和生れ」などとというと縄文時代と変わらないと思われたりして。

年はとりたくないですね。

水仙の花言葉のように「私はきれいでしょう、よく見ていってね」と言っているみたいです。

水仙は中国からどんぶらこと海を渡って漂着して居心地が良かったのかどこの海岸線でも咲いています。

ご隠居の好きな三大なんとかです。

日本三大水仙群生地といえば

淡路島、越前海岸、鋸南町だそうです。(異説あり)

 

佐久間ダムの方に行ってみましょう。

佐久間川上流をせき止めた農業用のダム湖です。

春は桜も奇麗だそうです。

湖畔にはレストランもありゆっくり出来そうです。

しかし最近たびたびニュースでも取り上げられている(千葉のローカルニュースですが)

道の駅「保田小学校」に行ってみました。

昔の小学校の校舎を改造した道の駅です。

温泉が入れる宿泊設備も整っています。

「里山小学校」というレストランで中華を食べましたが美味しかったですよ。

喫茶店やお土産屋さんなどもあって広々として明るく清潔感が漂っています。

お昼を食べて午後は江月水仙ロードを再訪しましょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥の細道旅行譚(仙台城跡など)

2018年01月28日 | 旅行

るーぷるー仙台を「青葉城跡」バス停で降りました。

護国神社の鳥居を通り、大手門跡に出ます。

仙台市博物館とか仙台城見聞館とかありますがここに来たらやっぱりこの伊達政宗公騎馬像ですね。

仙台市内を見渡すように政宗公の騎馬像が悠然と佇んでいました。

その仙台市内です。

仙台城は伊達政宗公によって1602年には完成されたと言われているそうです。

東と南が広瀬川と竜の口渓谷の断崖、西が険しい山々に囲まれた天然の要害で、石垣は主に本丸の周りに築かれました。

確かにバスに乗っているとこれが市内の一画かと思うほど険しい道を走って行きます。

バスの運転手さんがガイドもしてくれますが「先日イノシシが入場料も払わず東北大学植物園の入場門を駆けて入って行った」などと面白く話していました。

この植物園も原生林が生い茂っていて時間があったら散策してみたい場所です。

城址の一画に宮城県護国神社がありました。

護国神社と云うのは各県にあるのでしょうか。千葉にもあります。

せっかく仙台に来たので公園内のレストランでずんだ餅を食べました。

千葉そごうで宮城の物産展を開催されている時にたまに買いますが変わらぬ味でした。

宮城伊達藩といえばお家騒動で有名です。

前回三代藩主「綱宗公」の墓所が立派なのを見てきました。

その綱宗公が江戸の吉原にて放蕩を繰り返し叔父伊達宗勝(一関殿)が諫言したのにもかかわらず聞き入れず謹慎の身となりました。

これには世継ぎ問題が絡み幕府の老中酒井雅楽頭と伊達宗勝の六十二万石の密約があったのではないか。

藩内の守旧派、進歩派を交えての大騒動になります。そこに天下の知恵者かはたして大悪党か宿老・原田甲斐の出番となります。

仙台に行く前に山本周五郎の「樅の木は残った」をもう一度読んでみようと探しましたが処分したみたいで見つかりませんでした。

そこでブックオフに行って中古本を買ってきて読み返しましたがたいして感動もありませんでした。

山本周五郎の本では若い頃「さぶ」「ながい坂」「赤ひげ診療譚」など、もちろん「青べか物語」もですがたくさん読みましたがもう一度読む気にはなりません。

どんどん若い作家が出てきて最新の社会現象を取り入れた小説の方がやっぱり面白い。

さてご隠居の好きな三大なんとかですが、

三大お家騒動といえば「黒田騒動」「加賀騒動」そして「伊達騒動」です。

 

さて次は青葉山駅バス停で下車しました。

バスは東北大学の広大なキャンパスを横切るように走っています。

少し構内を散策しました。

ここは東北大学の理学部や工学部のあるキャンパスですがそれにしても広い。

国立大学は各県にありますが旧帝国大学といわれる全国6大学は規模が違うようです。

それに学生数がに少ないのでゆっくり勉強が出来そうです。しかしこれだけ広いと教室を移動したり食事など不便じゃないかと思いました。

そういえば東北大学の理・工学部と言えば長岡半太郎や本多光太郎など偉大な物理学者を出していますね。

東北大学の学生の皆さんもじっくり勉強してノーベル賞でも取ってください。

 

さて次は大崎八幡宮です。

バスを降りるとこちらも階段が続きます。

本殿は修理中でした。

大崎八幡宮は伊達政宗公によって1607年に創建されました。

本殿、石の間、、拝殿が一体となった権現造の典型だそうです。

司馬遼太郎もここを訪れています。

「参道は街中にありながら古い木立に囲まれていて、杜にちかい厚みがある。

八幡宮だから、社殿も八幡造りだとおもっていた。八幡造りはは、そのルーツである宇佐神宮(大分県)の建物でもわかるように、屋根にそりがあり、本殿と拝殿が相接している。

ぜんたいとしては、白拍子の舞う姿のようにすがすがしいものである。

が、大崎八幡宮は、頭からそういう形式を無視して、ずっしりとした桃山風に統一されていた」

 

次は定禅寺通り市役所前のバス停で下車、仙台の町を少し歩いてみました。

三越がありました。

千葉の三越は最近撤退して駅前はそごう千葉店しかありません。百貨店も周りの店舗ばかりでなくアマゾンなどのネット販売とも競争しなくてはいけないので大変でしょう。

仙台の商店街は立派なアーケードがありますね。雪が降るからでしょうか。単に屋根がついているというだけではなくてお洒落にどの通りもなっています。

七夕祭りの頃は賑やかなんでしょうね。

 

さてこれで仙台の旅は終わりです。年が明けてから寒い日が続いていて出かける気がしません。

ブログのネタもなくなったしどうしましょう?聞かれてもこまるってか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥の細道旅行譚(瑞鳳殿)

2018年01月26日 | 旅行

毎日寒い日が続いていますね。皆様元気でお過ごしでしょうか。

千葉でも朝は連日氷点下です。

ご隠居みたいに第二の人生を送っている人達はいいのですが仕事をしている若い人たちは大変だろうなと思います。

ご苦労様です。

先日千葉でも雪が降り、ご隠居の事務所の前も少し積もりました。

幸いこの日は気温が高かったので夕方までには溶けました。

 

さて仙台の市内散策です。

「るーぷる仙台」という観光スポットを回るシャトルバスが便利なので乗ってみました。

仙台市内をぐるっと回ります。一日乗車券を買うと乗り降り自由で便利です。

そのうえ一時間に4,5本出ています。

日曜日で混んでいました。12月でも結構外国人観光客もいます。

最初の「晩翠草堂前」で降りようと思いましたが身動きできないぐらいで下車する人もいないので省略しました。

バスは瑞鳳凰(ずいほうでん)のバス停に着きました。

会津若松でも日光でもシャトルバスはこんな形のバスでした。観光地の流行でしょうか。

瑞鳳寺。

伊達藩二代藩主伊達忠宗公によって造営されました。本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像です。

坂道を登って瑞鳳殿に向かいます。

この坂道は戦災からも免れて藩政時代からのものです。杉木立も300年以上たています。

日本の神社仏閣の境内は杉を始めとして針葉樹が多いですね。

明治神宮も最初は針葉樹の森にするように政府の要望がありましたが造園家だった本田静六先生が土壌が針葉樹にはあっていないということで広葉樹を植樹しました。

現在はみごとな神宮の森になっています。総理の忖度など気にしないで仕事の主張を通すと後世に立派なものが出来るみたいです。

一方本多先生は株式投資も上手で分散投資で富を築いたとか。元祖日本のウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイ代表)です。

この人の言葉で

「世の中は

濡れ手で粟をつかむようなうまいことが

そうザラにあるわけではない

てっとり早く成功せんとする人は

てっとり早く失敗する人である」

最近仮想通貨なんかに目の色変えている人に読ませてあげたい。

話がだいぶずれました。坂を進みましょう。

ここでも秋が残っていました。

右側で入場券を買います。

涅槃門(ねはんもん)

「涅槃」とは「煩悩(ぼんのう)を取り払った悟りの境地となる状態」を意味するそうです。

ご隠居もこの年になってもまだ煩悩というか欲があるのでこの門をくぐって反省しましょう。

瑞鳳殿。

伊達政宗公は1636年、70歳で生涯を閉じましたがその遺命により経が峯に造営された墓所です。

昭和20年の戦災で焼失しましたが昭和54年に再建されました。

資料館に立ち寄った後、善応殿の方に向かいます。一度階段を降ります。

戊辰戦争弔魂碑。

東北地方に来ると(新潟もそうですが)戊辰戦争の記憶がいまだに残っているような気がします。

感仙殿。

二代藩主伊達忠宗公の墓所です。

忠宗公は法治体制の確立、新田開発、治水、港湾整備に振興をはかりました。

二代目はまだお父様の影響を強く受けているのでまともに頑張るようです。

三代目の孫になると・・・・

三大藩主、伊達綱宗公の墓所です。

さて三代目は幼い頃から芸術的才能にたけていたそうです。

その生涯は書画、蒔絵などに天分を発揮して優雅な余生を送ったと言われています。

そうですか・・・・・・。

北朝鮮の三代目もリトルロケットマンなどと言われないで絵画にでも精を出せばいいのにと思いました。

それにしても瑞鳳殿見学するだけでも時間がだいぶかかりました。又るーぷるバスに乗りましょう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥の細道旅行譚(十符の菅)

2018年01月22日 | 旅行

薬師堂から一度仙台駅に戻り東北線で岩切駅に向かいました。

芭蕉は5月8日(陽暦6月24日)加右衛門に別れを告げ松島方面に向かいますが途中「おくの細道の山際に十符の菅(とふのすげ)」を見ました。

奥の細道は芭蕉が考えたのだと思っていましたが中世の文献にその固有名詞あるそうです。

この年になって初めて知りました。人生いくつになっても勉強かとも思いましたが知らなくても毎日の生活には困らないなとも考えました。

駅を降りるて七北田川に沿って35号線を歩きます。どこにでもある風景です。

その昔芭蕉と曾良さんはてくてく歩いて行ったのでしょうね。

今市橋が見えてきました。この先の信号を左に折れた場所のようです。

東光寺です。奥の細道の碑がありました。

本堂は改築中でした。かなり有名な古刹のようです。

路地を入ると「十符の菅」「十符の池跡」看板がありました。

十符の菅は網目が十筋あり、きれいな網目が浮き出てこれを材料にした菅菰(こも)は珍重されたそうで仙台藩でも大事に栽培したそうです。

なお「符」は網目のことです。

路地を歩いていくとつきあたりなってしまいました。この辺に池があったのかなと写真を撮っていました。

上のほうで農作業をしていた人が降りてきて「芭蕉の写真かい?」と話しかけてきました。

「うん。千葉の山ん中からはるばる来た物好き一行です」

「最近は小型のバスでもガイドさん付きでやって来るから物好きでもないけど12月にはあまり来ないねぇ」

「わしらは戦後満州から引き揚げてきてここで農業をやっているけど少し有名になって嬉しいよ」

そのあと苦労話を聞いてから帰ろうとしたら「十符の池はもう少し下ったところだけど案内するよ」

早く言ってくれればいいのに思いましたが親切なおじいちゃんでした。

この右側あたりだそうです。

いろいろネットで見てもきちんとした場所はあまりはっきりしませんね。

「奥の細道」のほうは今市橋を北に渡ったところから「六、七丁西に行所ノ谷間」にあった十符の菅の辺の「田の畦」の道をいうそうです。

岩切駅に戻って来ました。工事中か?プレハブの駅舎でした。

現在東北本線は東京駅から盛岡駅まででその先は第三セクターになってしまいました。

なお東北本線は利府支線(岩切・利府間4.2km)というのががあります。利府には別段用事もなかったのですがここまで来たので乗車してみました。

朝夕は仙台駅から直通があるみたいですが日中は岩切駅が始発です。

空いているなと思っていたら上りの東北本線、仙台行き列車が到着して乗り換え客がどやどやと乗って来ました。

進行左側は新幹線の車両基地になっていますが日中なのでみんな稼ぎに出ているらしく車両はあまり止まっていません。

列車は4kあまり走って利府駅のホームに滑り込みました。一応外に出てみましょう。

がらんとしていますが若い人には思い出の場所ではないんでしょうか。

昔、姪に「おじさん今度仙台の宮城スタジアムにコンサートに行くんだけど始まるのは夜だからそれまで時間つぶせるような観光地ある?」

と電話がありました。

「おめぇ、東京だって音楽なんかいくらでも聞けるのになんで電車賃かけて仙台くんだりまで行くんだぁ」

「年寄りはもの知らないねぇ。」と笑われました。

宮城スタジァムでしょうか(利府駅からバスで約10分)。EXILE、GLAYとか嵐の大きなコンサートが開催される場所です。

15年5月連休に開催された嵐の20万人コンサートの時には市内の何処のホテルも満員で電車もまた大きなホテルでは観光バスをチャーターしてすごい騒ぎでした。

ご隠居はそんなのがるとは知らずに松島に出かけたのですが新幹線も東京から満員でほとんどの人が仙台で降りたので不審に思っていたらコンコースがすごいことになっていました。

やっと予約したホテルも石巻でした。

コンサートが終わったあとには駅脇の横丁で一杯。青春の余韻に浸るのかな。

もっとも帰りの新幹線の時間が気になってそれどころではないかも。

それにしても不便な所にサッカー場を造ったものですね。

さて仙台駅に戻り仙山線に乗り換えて一つ目東照宮駅です。

芭蕉も5月7日に参拝しています。日光東照宮を参拝してからこちらはどんな気持ちだったのでしょうか。

石鳥居。伊達忠宗公の奉納。

 

家康公が1591年奥羽仕置の視察を終えて岩出山から江戸に戻る途中、当時天神様の境内であったこの地で休息されたという故事によって鎮座地に選ばれたそうです。

すごいですねぇ。休息したというだけで東照宮が造営されてしまうんですから。

現在では安倍総理に一極集中なんて言われていても歯医者の学校一つ作るのに便宜図ったと非難されたりして可愛いものです。

随身門。国・重要文化財。

扉も素晴らしいが中に入れないので残念でした。

12月というのに仙台では秋が残っていました。

さて仙台で芭蕉が訪れた場所はあと亀ヶ岡八幡宮(省略しました)だけになりました。

せっかく仙台に来たので次回は市内の名所旧跡を回ります。

 

宮城野(後半)

なほ、松島・塩竃の所々、画に書きて贈る。かつ、紺の染緒付けたる草鞋二足餞す。

(松島、塩竃などを絵に書いて贈ってくれた。紺の染緒をつけたわらじ二足も餞別にいただいた)

さればこそ、風流のしれ者、ここに至れりてその実を顕わす。

(このこころにくい贈り物に至ってまさに風流の本領を発揮した)

あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒

(端午の節句にあやめ草を足に結んで、邪気を払い勇んで旅に出かけましょうか)

かの画図にまかせてたどり行けば、奥の細道の山際に十符の菅あり。

(絵図をたどって行くといわゆる奥の細道の山際に有名な十符の菅がある)

今も年々十符の菅菰を調えて国守に献ずといえり。

(今でも毎年菅菰を調達して藩主に献上するということである)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥の細道旅行譚(陸奥国分寺薬師堂)

2018年01月19日 | 旅行

楽天の球場(Koboパーク宮城)からさらに南下します。

JR貨物仙台貨物ターミナルがありました。夕方になると東北本線を通って東京の方に貨物が運ばれるのでしょうか。

観音堂

「木下地区」に入ります。芭蕉が訪れた頃にも日の光も通さないこんもりとした松の木に覆われた場所となっています。

今わすっかり市街地になっていて、一画にあった高校が移転して大きな公園となって整備されています。

木陰に薬師堂が見えてきました。

曾良の日記には5月7日(旧暦)快晴、加衛門と権現宮(東照宮)を拝、玉田・横野を見、つつじが岡ノ天満宮から木の下に行。

薬師堂、古へ国分尼寺跡あり。…省略・・・わらじ二足加衛門持参。

仁王門。写真が傾いてしまいました。これ一枚なのでご容赦を!へたくそ。

鐘堂

加衛門にもらった草鞋の染緒に菖蒲を結んで晴れた日を気分も良く旅を続ける楽しみみたいなものが感じられます。

紫色のあやめ草は魔除けであり、健脚を祈念して芭蕉を勇気づけたのでしょうか。

紺色の染緒とアヤメは実際にはマムシよけであり、ブルージーンズのインディゴブルーは毒蛇除けだそうです。

本堂

約1200年前聖武天皇の詣により建立された最北の国分寺です。当時は奈良の東大寺と同規模の大きさで南大門や講堂など七堂の伽藍が天平の甍をいただいて荘厳だったのでしょうか?

11899年に火災で焼けましたがその後伊達政宗公により再建されました。

大塔

隣の敷地には近代的に建てられた護国山陸奥国分寺本堂がありました。

 

宮城野(前半)

名取川を渡って仙台に入る。あやめ葺(ふ)く日なり。

(おりしも家々に端午の節句のあやめをかざる日だった)

旅宿を求めて、四、五日逗留す。ここに画工加右衛門といふ者あり。

いささか心ある者と聞きて、知る人になる。

(多少風流を解する者と聞いて知り合いになった)

この者、「年ごろ定からぬ名所を考え置きはべれば」とて、一日案内す。

(年来、名のみしられて所在のはっきりしない歌枕(歌に詠まれた名所)を調べておきましたと案内してくれた)

宮城野の萩茂り合いて、秋の気色思ひやらる。玉田・横野、躑躅が岡はあせび咲く頃なり。

(宮城野の萩はみごとに繁って(総合公園のあたりか?)古歌によまれた秋の景色のすばらしさが思いやられる)

日影も漏らぬ松の林に入りて、ここを木の下といふとぞ。

(日も差し込まぬ鬱蒼とした松の林にはいってここが木の下という)

昔もかく露深ければこそ「みさぶらひかさ」とよみたれ。

(古今集に「みさぶらひ御笠と申せ」(お供の人よ、ご主人にお笠をお召くださいませ」と申しあげよ)というほど昔も梅雨が深かったのか)

薬師堂・天神の御社など拝みて、その日は暮れぬ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする