ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(杜の都の天神様)

2018年01月12日 | 旅行

さて今年のブログも奥の細道の続きからぼちぼち始めましょうか。

もう昨年になってしまいましたが12月の晴れて気持ちのよい日に仙台を散策しました。

奥の細道の足跡を訪ねてからは何回も仙台駅に降り立ちました。

しかし今回初めてはやぶさに乗車しました。

「はやぶさ9号」新青森行きです。東京駅を9時8分に出発すると上野、大宮に停車しただけで仙台駅には10時40分に到着しました。

速いですね。ちなみに芭蕉は旧暦3月27日に千住を出発して5月4日(太陽暦6月20日)に仙台を訪問しています。

12月ということもあって駅のコンコースはクリスマスモードでした。

青葉通りのケヤキ並木も冬景色です。

司馬遼太郎さんが昔の本ですが「街道をゆく」にこう書いています。

「仙台駅の駅前の空間は世界のどの都市にもない造形的な美しさがある。歩行者廻廊がセピア色の駅舎をもうひとつ淡くして、橋の側面材は自然石のような材をつかっている。

橋の路面もゆったりしている。タイルの色は数色もちいて、ほどこされている縞模様は淡い紫色で、印象派の陽かげをおもわせ、まことにむねがひらけてくるようなあかるい表現になっている」

まずは仙台駅から見て東側を歩いてみました。

仙石線の地下になっている榴ケ岡駅から地上に出ると榴岡天満宮(つつじがおかてんまんぐう)の案内板がありました。

仙台から松島.石巻方面に向かうときには普通は仙石線で行きますが一部は東北線経由でもいけます。

仙台駅で間違えて東北線でも途中まで一緒かと思って乗ってから車掌さんに天満宮に行くのには地下ホームからだよと言われました。気をつけましょう。

道真公は本当に日本人に愛されていたんですね。日本の各地に天満宮が鎮座されています。

みんながみんな頭がよくなりたいと思っているわけでもないでしょうから「学問の神様」だけではわりきれないようです。

天神様と言えば梅の花ですが秋はイチョウも清々しいです。

1667年に伊達藩13代伊達綱宗公が現在の仙台東照宮のある地からつつじが岡に移して造営し「杜の都の天神様」として慕われています。

芭蕉は5月7日(陰暦)に参拝しています。本文を参照してください。

天神様の隣にある榴岡公園です。何処にでもあるような公園ですが寒々とした影が面白いので撮りました。

公園の隅にある仙台市歴史民俗資料館です。

早速入館しました。

館内は農村の暮らしとか戦時中の様子が展示されています。

ガイドさんにこれは「十符の菅(とふのすげ)」で作られたんですかと尋ねたらいやいやと笑っていました。

 

資料館は現存する宮城県内最古の洋風木造建築です。かつては旧陸軍歩兵第四連隊宿舎で明治37年当時の外観構造に復元保存しています。

そういえば仙台は帝国陸軍の第二師団があった町です。

浅田次郎さんの名作「終わらざる夏」という小説を思い出しました。

満州の戦線で戦っていた主人公の一人大屋戦車中隊長と仲間は突然千島列島の最果ての島「占守島(シュムシュ)」への転戦を命じられます。

朝鮮半島から日本海を渡り、山陽本線、東海道線、東京では主人公の一人片岡編集者も今まで戦争には縁のなかったような年齢だったのですが召集されこの列車に乗車します。

そして常磐線を通って仙台駅に到着します。蒸気機関車に牽引されて木の遠くなるような旅です。

車窓は全部ブラインドが下ろされ懐かしい太平洋の景色さえちょっとしか見られません。

仙台駅では第二師団に召集された人たちが下車、また青森の師団に向かう人たちの乗車など混乱を極めます。

蒸気機関車だって運転手だって交代はしていますが疲労困ぱいです。蒸気機関車だって口がきけたら「あたしゃ疲れましたよ」というでしょう。

混乱も収まり夜半に疲れ切った人々を乗せて出発しますがすぐに空襲警報で郊外の山中に停車します。

町の方を見ると空襲で赤々と燃えていて後から大勢の人が亡くなったことを知ります。

空襲にあわなくて良かったのですが・・・。主人公たちは何とか根室まで着いてそこから舟で占守島に赴任します。

しかし終戦になったにもかかわらずロシア軍が攻めてきてみんな戦死してしまいます。本当にかわいそうな話です。(一部実話)

本当に戦争はいけません。国と国とでどんな悔しいことがあってもまずは戦争はしないという前提で交渉してほしいものです。

ある意味北朝鮮は戦略が上手だなと思います。日本人はすぐに頭にきて」真珠湾なんか攻撃したけれど。

さて次は芭蕉も立寄った陸奥国分寺野「薬師堂」に向かいます。ここから少し南に下った場所です。

途中宮城野原公園総合運動場の中にあるKoboパーク宮城の前に出ました。

仙台と言えば楽天イーグルスですね。シーズン中は賑わっているのでしょう。

イーグルスの諸君も千葉マリンスタジアムに遠征してきた時にはそんなに頑張らなくてもいいからね。

野球場のある街は親しみを感じます。ここはパリーグだからなおさらです。

さて「薬師堂」の紹介は次にします。これから歯医者を予約してありますので帰ってくると不愉快な気持ちでしょうからうまく書けないと思います。

 

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僕の細道旅行譚(日光湯元温泉)

2017年12月21日 | 旅行

中禅寺湖から時間の関係で竜頭の滝を省略して戦場ヶ原です。

面積400ha、標高約1300mから1400mにある大きな湿原です。

この時期花は咲いていませんが夏、そして紅葉の真っただ中に来ると素晴らしいですよ。

戦場ヶ原からも男体山が見えます。

山の麓の方がハイキング道になっています。

昔、上野国の二荒山神社(大蛇)と下野国の赤城山神社(大ムカデ)がここで中禅寺湖を巡る領地争いで戦場になったとか。

どっちが勝ったのかな?それにしても領地争いなんて神様というより人間臭い話ですよね。

更に奥へ行きます。湯滝です。

落差50m、もちろんお湯ではなく水が流れ落ちていますが水量が半端じゃないです。

華厳の滝、竜頭の滝とこの湯滝は日光の三大滝といわれていますがそれぞれが違った流れ方をしているので面白い。

右側に階段があって滝の頂上まで行くことができます。

側面から見た湯滝。水の流れが速い。

上部からの写真。ドローンで撮ったらすごい迫力でしょう。

反対側をみると水量の源はこの湯の湖です。なるほど。

国道120号線からは駐車場があって上から滝つぼに下れます。

 

そしてご隠居の大好きな日光湯元温泉です。

木立の間にお洒落なホテルが並び日本の温泉街にありがちな騒々しさはありません。

温泉は硫黄泉ですがそんなに強い刺激臭もなく気持ちがいい。

単純泉だと井戸水に入っているみたいでいやですよね。

この灯篭の先に温泉寺があります。

温泉とお寺、こんなところはは日本的でいいですね。恋のひとつも生まれそう。湯元温泉はガイドには北欧的な感じと書いてありますがどうでしょう。

(ご隠居は北欧は行ったことがありませんが・・・)

木立の間にある温泉寺。

日光山温泉寺。日光輪王寺の別院とのことです。

お寺なのに立ち寄り湯が可能です。

源泉かけ流し。お寺では珍しいですよね。

江戸時代は日光奉行の許可がなければ入れなかったそうです。湯元温泉のホテルで入浴してもここにも寄ってありがたく温泉の感触をつかむといいですね。

ご本尊の薬師如来です。日光の素晴らしい大自然を造ってくださりありがとうございます。

若い頃、夏に来たことを思い出しました。

ホテルで朝食をとり、お弁当を作ってもらいました。

湯の湖の東側の散策路を歩きシャクナゲ群落、湯滝、小田代橋から戦場ヶ原の木道を歩き展望台で男体山の素晴らしさに感激。そして竜頭の滝へ。

帰りはバスで120号線(日光ロマンチック街道)でもどり夕食にビールを飲み温泉に浸かりました。

今は晩秋ですがこの日と同じくいい天気でした。その後も一泊では何回か来ていますが湯元温泉は夏、それも連泊して避暑を楽しむのが最高だとおもいます。

ご隠居は単なる山ん中の温泉で静かに過ごすのは退屈で嫌いですがここだけは格別です。(別に湯元温泉の関係者から利益は受けていませんよ。念のため)

冬はスキー客に譲ります。

湯の湖。静かです。白根山のほうの山は冠雪しています。

さてこれでご隠居の2017年旅の記録は終わりです。

大晦日まであと10日余りになりましたね。

千葉では寒いですが湿度も低くて気持ちよく晴れ渡っています。

何の憂いもなく年末年始を迎えられるように気になることはかたずけておきましょうね。

 

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僕の細道旅行譚(二荒山神社中宮祠)

2017年12月19日 | 旅行

中禅寺湖の遊覧船を下船して昼を済ませて、湖畔を歩きながら二荒山神社中宮祠に行きました。

名前からしても市内の本宮、男体山の頂上にある奥宮の中間地点ということが分かります。

男体山を後ろに控えて強力なパワースポットだそうです。

登拝門。

毎年五月の連休頃になると男体山の開山式がここで行われます。

神主が祝詞をささげ門がおもむろに開いて登山客が男体山を目指します。

男体山は二荒山神社の境内ですから勝手に登ってはいけないのです。

TVのニュースを見ていると列島も初夏から夏に向かって季節が移って行くなと思います。

中宮祠稲荷神社。

お稲荷さんなので商売繁盛の神様かな。

境内からも中禅寺湖が良く見えます。箱根神社の鳥居と芦ノ湖と同じように日本の景色です。

さて次は中禅寺です。

やっぱり男体山が見えます。

中禅寺湖畔歌ケ浜にあり784年勝道上人の創建です。

歌ケ浜は伝説によると天女歌舞を奏した場所だそうです。

ご本尊の十一面観世音菩薩はかつらの木に彫ってあります。

そのかつらの木は現在でも根を張っているそうです。

そこでここを立木観音(坂東札所一八番)とも言われています。

本堂の裏手の長い階段を登って行くと五大堂に出ます。

五大堂は不動明王など五大明王が安置されている御祈祷の道場です。

美しい湖を見ていると本当に天女でも舞い降りそうです。

ちょっと台湾の日月潭に似ているなと思いました。

(東洋の)世界的な観光地は同じ感じがするのでしょうか。

 

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僕の細道旅行譚(中禅寺湖)

2017年12月16日 | 旅行

滝(華厳の滝)を見たら次は湖です。

山岳地帯の国立公園の定番でしょうか。

中禅寺湖です。周囲約25km、一周するには9時間近くかかります。

湖に来たらやっぱり遊覧船に乗りたくなります。

中禅寺温泉の遊覧船乗り場から湖を一周しました。

中禅寺湖には男体山。芦ノ湖には富士山。猪苗代湖には磐梯山。霞ヶ浦には筑波山。

どうして湖の近くには名峰と言われている山々があるのでしょうか。

男体山。あなたが2万年前に噴火してくれたのでこんなに美しい湖が出来たのですね。

雪をかぶった白根山が見えます。

菖蒲ヶ浜の船着き場です。昔男体山と何処かの山が争いになってここが勝負の場所となったが今では菖蒲と名前を変えたそうです。

と船のスピーカーから案内が流れていました。

そんなことより初冬の風の心地よさが素晴らしい。

湖でただ一つの島、上野島(こうずけ)です。

日光を開いた勝道上人が中禅寺湖を発見しましたがこの島に骨の一部が埋葬されているそうです。

八丁出島のあたり。

紅葉のシーズンが始まるとニュースでこの上空からの映像が流れますが綺麗ですよね。

細長い小さな半島のようになっています。

中禅寺(立木観音)が見えてきました。

この後参拝に向かいます。

湖を一周して来てお腹もすいたので湖畔の喫茶店に入りました。

日光と言えば湯葉料理です。昨日ふらふらと入った店で湯葉ラーメンを食べたらおいしくなかった。

良く調べて観光地のレストランには入りたいものですね。

ここでは単なるナポリタンを食べました。普通の味です。馬鹿みたい。

 

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僕の細道旅行譚(華厳の滝)

2017年12月12日 | 旅行

日光国立公園最大のビューポイント、華厳の滝にやって来ました。

中禅寺湖湖畔から華厳の滝に向かうプロムナード。

お土産屋さんに泥棒猿が入って困るというニュースはこの辺でしょうか。

寒いのでそのサルも見当たりません。

ここで入場券を買ってエレベーターで一気に滝まで下ります。

長い地下道を通って滝の正面に出ます。

そういえば茨城県の袋田の滝も長いトンネルを抜けると見事な滝が見えますね。

97mの落差を一気に岸壁に沿って落下します。

日光は四十八滝と言われるぐらい滝が多いそうです。

日光全山の地下に巨大な水がめがあるような感じです。

これが原油だったらすごいだろうと思いますが、こんな素晴らしい景色にはならないので原油なんか外国から買えばいいですよね。

5月の新緑の頃から6月のイワツバメが飛び回るころも素晴らしいとのことです。

ナイアガラの滝なんかに比べると規模からみればおもちゃみたいでしょうがこじんまりとして日本の風景にあっている景色だなと思います。

だからこそ本家のアメリカ人の観光客も多いのではないのでしょうか。

外に出ると男体山です。

夕方になっても外国人が多くて自分も海外旅行に来ているようです。

ご隠居の数少ない海外旅行の体験のひとつカナダに行ったことを思い出しました。

昔々の話です(笑)

ナイアガラの滝へは「霧の乙女」号で遊覧しました。

とにかくスケールは大きい。水に濡れないようにビニールのカッパをくれます。

バンフの町です。正面はサルファマウンテンだったかな。

もちろん現地で買った絵葉書です。当時の旅行のアルバムをひっくり返しても人に見せられるような写真はありませんでした。

最近は写真教室などでお金も使っているので少しは上手になったかな自画自賛です。

これももちろん絵葉書です。ボウ滝。

マリリンモンローの「帰らざる河」の舞台になった川です。宿泊したホテルのすぐ近くだったので見に行って感激しました。

マリリンモンローの甘い声が聞こえるようでした。

レイク・ルィーズ。もちろん絵葉書。

先住民から「小さな魚の湖」と言われています。すごく水が綺麗だったことを思い出しました。

日光より山が岸壁で猛々しいけど緑滴る山もいいですよね。

宿泊したジャスパーパークロッジの庭に鹿の親玉みたいなエルクがふらふらしていました。

ご隠居の写真です。

ジャスパーからバンクーバーまでカナディアン号に乗りました。エドモントン方面から入線です。

鉄道ファンなので車体を見ただけでもわくわくしました。

写真を見ると94年だからもう23年も昔のことです。最近行った人がいたら話でも聞きたいですね。

バンクーバーの町。イートンデパートからロブソンストリート。

トロリーバスに2本のポールがあるのはプラスとマイナスが別々のケーブルになっているからだそうです。

現在はトロリーバスなんて走っているのでしょうか。

それにしてもバンクーバーは素晴らしい町で一年間ぐらい住んでみたいなと思いました。

みんな昔の話です。

横を振り返ると茶店があったりして…やはりここは日本の観光地です。

いろいろ事情があって海外旅行で自宅にいないことはできないのでやっぱり日本がいちばんいいやと負け惜しみを言って終わりです。

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僕の細道旅行譚(明智平)

2017年12月09日 | 旅行

東照宮も見て、今回はいろは坂を登って奥日光に向かいました。

と言っても、実際の旅は日光湯元温泉を朝出て戦場ヶ原、中禅寺湖、と下ってきたので明智平には夕方になってしまいました。

前回リバティで帰ったのにまた夕方から始まるのはおかしいと思われるかもしれないのであえて書きました。

その明智平です。

小さなロープウェイ(16人乗り、乗車時間3分)が明智平駅から展望駅まで運転しています。

昭和8年11月日本では11番目のロープウェイです。そして日本最古のロープウェィと言えば尾鷲にあったそうです。(確かな記憶ではない。興味のある人は調べてみてください)

早速乗ってみましょう

「明智平」と名付けたのは天海大僧正と言われています。

実はこの天海大僧正は明智光秀という説があるそうです。

光秀は織田信長に謀反をおこし山崎の戦のあと比叡山に逃れて名前を天海に変えてその後徳川家康に会いました。

家康は光秀を気に入り相談役として重用しました。

そのが光秀は日光山貫主として日光を訪れた際、自分の名を残したいと考えて眺めの良いこの地を「明智平」と命名したとか。

源義経がジンギスカンになったとか日本人は戦いに負けた武将が結構好きですね。

ロープウェィはすれ違う瞬間がいいんですよね。

音もなく高速でスーっと行ってしまいます。

男体山とロープウェイ。日光の風景です。

展望台からは華厳の滝、男体山、日光市街の素晴らしい景色が見られます。

男体山

昔は日光駅から日光軌道線という路面電車が東照宮の前など通って馬返しという場所まで運行していたそうです。

馬返しからはケーブルカーが明智平まであったそうです。

箱根と日光は大観光地ですが日光には登山電車がないのが淋しいと思います。

華厳の滝まで登山鉄道でも作って欲しい。

そして、そして、遠くから見た華厳の滝です。

滝は近くで見ていると豪快な水しぶき、轟音に圧倒されます。

しかし遠くから見ていると音も聞こえないので淡々と水が流れ景色に溶け込んでいるという感じです。

夕闇が迫っています。

 

おまけ

前回の旅で書くのをを忘れましたが改装された東武下今市駅です。

ホームの向こう側にSLが見えます。

下今市駅は以前は単なる鬼怒川線と日光線の分岐駅でした。

しかしSL大樹が運行されるようになり駅が一新されました。

SL大樹は下今市駅、鬼怒川温泉駅間12.4kmを走ります。

C11形207号機、日立製作所笠戸工場製でかつては北海道を疾走していました。

最近SLの運行は珍しくありませんがその土地、土地の景色と併せて思い出すと記念になるかもしれませんね。

 

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奥の細道旅行譚(仏五左衛門)

2017年12月05日 | 旅行

陽明門を出てすぐ左に鳴龍の薬師堂(本地堂)があります。

こちらも日光では眠り猫同様に大変人気があります。

堂内は撮影禁止です。

境内で購入した冊子の写真を借りました。右下が鳴龍です。

ガイドのお坊さんが鳴龍の下で拍子木をたたいて(顔の部分の下しか響かない)日本語で説明し、次にきれいな英語でガイドしていました。さすが大観光地です。

こちらは寺院です。昔は観光客が勝手に手をたたいたりしていたそうですが誰かが仏様の前で手をたたくやつがあるかこの罰当たり、とクレームがつき拍子木になったそうです。

縦6m、横15mの34枚のヒノキ板がはめ込まれた巨大なヒノキ天井で狩野派の狩野永真安信によって描かれた8mの龍の水墨画です。

 

さて一度外に出て二荒山神社まで戻りました。

二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)は男体山(2486m)をご神体山と仰ぎ山全体が境内と云うからすごい!

日光国立公園の中枢をなし3400haが御神域だそうです。男体山にも勝手に入るな(登山も)ということになっています。

男体山山頂→奥宮

中禅寺湖畔→中宮祠

市内(山内)→御本社   に分かれています。

日光良い縁まつりと云うのが行われていましたが、当面必要ないような子供たちが下りてきました。

日光の巫女「八乙女」さん。歴史ある神社としては前向きですよね。

近年神社女子(神女)にパワースポット、縁結びとして絶大な人気があるそうです。

ご隠居には縁結びは関係ないので興味のある方はご自分で調べてみてください。

願いを込めて結んでいくのかな?カラフルでいいですね。

一日の終わりが近づきホッとしている感じですね。

帰りは私服になって何処かで一杯飲んで行こうかななどと思っているのでしょうか?

さあ夕闇が迫って来てどの神社も拝観時間が終わっています。

さて輪王寺です。はずせないポイントですが・・・・。

ただいま大修理中です。

工事中のカバーにどでかい写真張ってあります。本物写しているみたいです。

神橋まで戻りました。

昼間は有料で渡ることができます。

二荒山神社の建造物です。日本三大奇矯です。

あと二つはどこかな?

山梨県大月市の「猿橋」と山口県の「錦帯橋」です。

上鉢石町付近。(神橋から少し日光駅方面に下った場所)金谷ホテルの売店がある付近。

芭蕉は上鉢石町の宿に泊まった。宿の主人は自ら「わが名は仏五左衛門」と名乗った。

「万事、正直を旨としておりますゆえご安心しておやすみください」と言った。

嵐山光三郎さんの本によると

「むろんこれも芭蕉の作り話である。

前段が神祇(室の八島)でまたつづいて神祇(日光)となるためその間に釈教(仏)を入れる必要があった。

これは連句の歌仙方式である。同じ題が重複されることを避けるため、宿の主人を「仏の五左衛門」と呼んで釈教をはさみ、しかもそれが旅行寸話のような形式になっているところに芭蕉の工夫がある」

曾良の旅日記では単に「日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方に宿」と有りほとけのほの字もでてきません。

日光に夜のとばりが下りてきました。街路灯が優しく感じられます。

くらやみの中に東武日光駅のやわらかい光が見えてきました。

長い長い一日が終わってほっとした気分になります。

帰りは東武鉄道の新型特急「リバティ」に乗りました。

外は真っ暗で車窓は楽しめませんでした。

これで芭蕉が訪ねた日光は終わります。

引き続き後日、いろは坂を登って奥日光に向かいました。

ご隠居が勝手に行く「僕の細道」です。

 

仏五左衛門

三十日、日光の麓に泊まる。あるじのいひけるやう、

「わが名を仏五左衛門といふ。よろづ正直を旨とするゆゑに、ひとはかくは申しはべるまま、一夜の草の枕もうち解けて休みたまえ」という。

いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど)に示現して、かかる桑門の乞食巡礼ごとき人を助けたまふにやと、

(どんな仏様がこの濁り汚れた現世に仮の姿を現して、私どものようなこんな僧形の乞食巡礼同然の者を助けてくださるのかと)

あるじなすことに頃をとどめて見るに、ただ無知無分別にして、正直偏固の者なり。

(主人のすることをよく気をつけてみると何のことはない、無知無分別で、正直一方なだけの男である)

剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質もつとも尊ぶべし。

(「論語」にある剛毅木訥に近い感じでその生きざまの清らかな資質を尊ぶだけです)

 

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奥の細道旅行譚(日光東照宮)

2017年11月28日 | 旅行

ようやく東照宮、表参道にやって来ました。

東照宮の石碑の前に知らないご婦人が映ってしまいました。表参道の写真ではこれが一番良かったので我慢してください。

前の写真は反対側から写したものです。

夕方にもかかわらずすごい観光客です。平日です。

世界遺産めぐりのシャトルバスは7割がた外国人でこちらが海外旅行している気分でした。

 

芭蕉は4月1日(陽暦5月19日)に日光に到着後東照宮を参拝しました。

江戸から関東平野をとぼとぼ歩きこの見事な表参道の杉並木を見た時にはどんなに感激したでしょうか。

現代みたいに旅番組のTVなんかないので本当に初めて見る大感激の日光だったのでしょう。

うっかり芭蕉の気持ちのコメントなんか書けません。

それでは能書きはいい加減にして中に入りましょう。

三猿から御水舎、陽明門、眠り猫、坂下門、奥宮、さらに下って本社そして鳴龍の本地堂とまわります。

五重塔はまだ仁王門の外のほうでした。この後拝観受付所です。

五重塔は1650年福井の小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されました。

さてまずは左側に三猿のある神厩舎です。

リニュウアルした猿たちの彫刻です。

色彩豊かになりましたが少しマンガチックになった感じもします。

蹄鉄などいいお土産になりそうです。

最初1万円のを見て高いからやめたと思ったのですが今見ると3300円のもあったんですね。

三猿の反対側の上神庫の彫刻。

御水舎(おみずや)

1618年佐賀藩鍋島勝重公の奉納です。

以前はよく外国人が柄杓から直接水を飲んで口をすすいでいましたが今はちゃんと手に移してから口に含んでいます。

よく勉強しています。

鐘楼

いよいよ陽明門ですが。しかし・・・・・・・・・・。うまく撮れませんでした。

暗いのでISO800、F/5.6他、露出をプラス補正するのを忘れて何枚か撮りましたがみんな暗くなりました。

帰り際に反対からなんとなくオートで撮ったらこれのが良かった。

これからもっと写真の勉強して上手に撮りたいと思います。皆さんも呆れないでもうすこし付き合ってくださいね。

江戸時代、武士は陽明門の中の石畳、庶民は陽明門の前に土下座して東照宮を拝んだそうです。

今はご隠居みたいな平民でも入場券さえはらえば偉そうに写真なんかを撮ったりしていい時代になりました。

社務所で買った東照宮のパンフレットの表紙はやはり綺麗です。プロです。

御本社の前の唐門。

全体が胡粉(ごふん)で白く塗られていて金箔とよく似あいます。

まずは眠り猫のいる坂下門に向かいます。

祈祷殿の奥にニャンニャンがいます。

眠り猫。左甚五郎作と伝えられています。牡丹の花に囲まれてうたた寝しているそうです。

こらっ!眠っているふりしていないで昼でも起きてごらん。

 

ここから長い坂を登って奥宮に向かいます。

眼下に御本社を始めとする国宝群の屋根が見えます。

奥宮拝殿。

御宝塔。

御宝塔の下では家康公が祀られ、つまりは家康公の遺骨があることになっていますが創建以来誰も掘ったことがないので実在するかは不明だそうです。

日光の中でも最大のパワースポットです。

ご隠居もしばらくは目を閉じて佇んでいました。ピーチクパーチク中国語が飛び交いながら歩いて行くのが聞こえました。

ご利益も国際的になってきたから薄らいできたかな。

山を一回りして今日はかなり歩いてヘトヘト。

御本社に戻り中を見学(撮影禁止)して唐門の裏側です。

素晴らしい彫刻がありました。

やっぱり東照宮は素晴らしいですね。

芭蕉の時代と同じような建造物を見ているわけですが平凡な感想しか書けないのが残念です。

もっとも芭蕉ですら恐れ多いと書いているわけですから凡人のご隠居などが出る幕ではありません。

日光(前半)

卯月朔日、御山に敬拝す。

(4月1日、日光山を参拝する)

往昔、此御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、空海大師開基の時「日光」と改給う。

千載未来をさとり給ふにや、今此光一天にかかや来て、恩沢八荒(おんたくはっこう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏やかなり。

(千年未来を予言してか、今や東照宮のご威光は一天下に輝きわたって、恵の波はすみずみまで行きわたり、四民が安住の身を寄せる国土はいかにも穏やかである)

猶憚り(はばかり)多くて筆をさしおきぬ。

(あまり恐れ多くてこれ以上書くのは差し控える次第だ)

あらたうと 青葉若葉の 日の光

(青葉や若葉の濃淡が織りなす初夏の緑に降り注ぐ陽の光。神域に荘厳そのものだ)

黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。

(男体山は初夏なのに霞がかかっているし古歌に詠まれているように雪が白く残っている)

剃捨てて 黒髪山に 衣更(ころもがえ) 曾良

(黒髪を剃り捨てて、旅に出た自分が今や黒髪を思い出させられる黒髪山の麓で夏衣に替える季節になったのは皮肉にも興味深い)

曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。

芭蕉の下葉に軒を並べて、予が薪水の労をたすく。

(芭蕉と軒をならべ住んでいて、男所帯の炊事の世話などの手伝いをしてくれた)

このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難いたはらんと、旅立暁髪を剃りて墨染にさまをかえて、惣五を改め宗吾とす。

(道中の難儀を慰めようというわけで、旅立ちをするときに髪を剃って墨染の僧衣に姿を変えて名も改めて惣五郎を宗吾とした)

仍て(よって)黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。

(「衣更」の二字が単なる季語ではなくて俗人から僧衣に替わった境涯の変遷と決意を象徴して効果的だと感じられる)

 

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奥の細道旅行譚(含満の淵)

2017年11月20日 | 旅行

鹿沼より日光例幣使街道を今市方面に向かいます。

鏡石からJR文挟(ふばさみ)駅近くまで続き、さらには今市で宇都宮からの日光街道の杉並木に合流します。

そこに杉並木公園がありました。

まん中に舗道があってゆっくり歩けるところがあります。

杉並木は1625年から東照宮造営奉行松平正綱が20年かけて作りました。

それから400年もたっても12500本の杉が生い茂っています。世界最長の杉並木です。

当時の造園技術はたいしたものですね。我々の代まで楽しませてくれます。

JR日光駅に到着です。東武日光駅の方が観光客は多いのですが最近は豪華列車四季島も到着するようになりました。

さてここまで来たらリニューアルした陽明門に心は逸りますがバスの時間その他の事情でまずは含満の淵に行ってみましょう。

バス停西参道から含満大橋を渡り公園にでます。

入り口に茶店がありました。芭蕉の頃はなかったのでしょうね。

「曾良旅日記」によると

4月2日の午前中(辰の中尅宿ヲ出。ウラ見ノ瀧・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午)見学したようです。

岩間を急流が走りますが、水面が鏡のように止まっている深い淵があります。

岩面に不思議な暗号が刻まれていて、青葉のあいだから一瞬光が射し込みます。

すると薄緑色の水面に梵字が浮かんできた。岩面に彫られていた逆版の梵字が水面に現れるのです。

とある本に書いてありました。

対岸の絶壁に晃海の刻ませた梵字があるみたいですがわかりませんでした。

川の流れに沿って閑静な遊歩道になっていて気持ちがいいウォーキングが出来ます。

石仏が沢山並んでいました。ここが大観光地の日光かと思うぐらい静かです。

しかしどこで調べたのか外国人観光客が結構歩いていました。

さらに歩くと大日橋がありました。石のアーチで清々しい感じです。

橋を渡ると大日堂跡の公園がありました。

大日堂は明治35年9月の洪水で流されましたが素晴らしい景観の庭園だったそうです。

芭蕉の句碑がありました。

「あらたふと 青葉若葉の 日の光り」

大日堂跡から見た大日橋の全容です。

さてここからさらに約2km上流にいくと裏見の滝です。

 

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奥の細道旅行譚(鹿沼秋まつり)

2017年11月17日 | 旅行

秋まつりの会場にやって来ました。

例幣使街道には午前中とはがらりと変わって沢山の人出です。

鹿沼宿の氏神は今宮神社です。34の氏子町があり、27台の彫刻屋台があります。

屋台は単層館型の四輪形式で全国的には囃子屋台に分類されるそうです。

装飾からみると、彫刻屋台に分類され、彩色の有無などによっていくつかに分けられます。

まずは敬意を表して今宮神社に参拝しました。

遠くからお囃子の音色が聞こえてきてお祭りらしい感じになって来ました。

本殿です。今日はお祭りで神社も忙しいそうなのでお願い事はしないでお賽銭だけを入れてきました。

境内では祭りの最後の調整でしょうか。

神楽殿では「上殿の太々神楽」の猿田彦命の舞が演じられていました。

それでは会場に行きましょう。

屋台にどっこいしょ。

屋根に上がるのも大変そうです。怪我をしないようにお願いします。

華やかになってきました。次々と屋台が繰り出されます。

 

 

屋根に乗って皆の注目のを浴びている人もいる陰で裏方さんも大変です。

沢山の人が作業を分担してお祭りが盛り上がるんですね。祭りを成功させるという高揚感はみんな同じです。

おかめが沢山輝いていて面白いと思いパチリ。

祭りは最高潮です。

皆輝いていますね。この日を待っていたのかな。

石橋町の交差点で屋台が回転します。

昔は「テコ廻し」といって二本の長い棒と、ウシと呼ばれる回転台、ウマと呼ばれるテコ台を使う方法です。

「きりん」とい屋台伝統技術です。

現在は殆どが油圧ジャッキが使用されています。

若い人たちが遠くの希望でも見つめているようで、ご隠居的には気に入った写真になりました。

町全体がお祭りを大事にしている様子がひしひしと感じられます。

脚光を浴びている人達、屋台を引っ張る人、それを押している人、交通整理をしている人、みんなが一体になってお祭りを成功させるのです。

 

秋の陽射しを浴びて走り回っていたら帽子をかぶっていたのに、でかいい顔がすっかり黒くなりました。

姪が「おじさんは帽子の似合わない人だねぇ。

どんなかっこいいのを被っても八百屋さん顔だ」と言われます。

ほっといてくれ。だいたい八百屋さんに悪いよね。

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奥の細道旅行譚(鹿沼市)

2017年11月12日 | 旅行

栃木県鹿沼市にやって来ました。

人口約10万人、木材の産地、園芸用の土なんかでも有名です。

東武鉄道新鹿沼駅(JRは鹿沼駅です)に降り立つと芭蕉の像がありました。

奥の細道本文には文章はありませんが鹿沼に一泊して日光に向かったことになっています。

千住を3月27日(陽暦5月16日)に出て3月29日には鹿沼に到着しています。

駅前のロータリーではお囃子の音色が聞こえます。

今日は鹿沼秋まつりの日でした。TVの旅番組なんかではきちんと調べて来たのに「ちょうど秋祭りがやっていて賑やかでよかった」などと白々しく言ったりします。

ご隠居は単に鹿沼市に来るだけではつまらないのでこの日に合わせてやって来ました。

秋の日差しに遠慮気味の看板がいいですね。

さて曽良の旅日記には

室の八島を参拝して壬生、楡木を経て鹿沼に向かいます。

「壬生ヨリ楡木へ二リ。ミブヨリ半日バカリ行キテ、吉次ケ塚、右ノ方廿間バカリ畠中に有。

にれ木ヨリ鹿沼へ一リ半。昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。」

火バサミ・・・嫌今市市文挟町

と簡単に書いてありどこに泊まったかは定かでありません。

町は祭一色という感じです。

まだ動いていない彫刻屋台はちょっと元気がないと言ったところでしょうか。

どの屋台も彫刻が素晴らしい。

色彩の豊かな屋台もあります。

街角ではイベントに参加するチームのリハーサルが行われていました。

この日のために頑張ってきたのでしょうからみんなから喝さいを浴びてね。

 

さて屋台の町内引き回しまで時間があるので光太寺(こうだいじ)にまずは行ってみましょう。

光太寺本堂

前夜から小雨が降り続き江戸から所持した古編み笠の雨漏りを危ぶんだ芭蕉は寺で新しい笠にに替えて日光に向かいました。

一説には鹿沼の宿泊地はこの寺ではなかったかと言われています。

やっと関東地方のはずれまで千住から3日間でやって来た芭蕉です。

雨に打たれてて辛かったでしょうか。

しかしいよいよこれから日光、平泉、出羽三山とこの旅のハイライトが始まるわけです。

旅行が好きな人たち共通のまだ見ぬ世界への胸の高まりを感じたのではないでしょうか。

当ブログでは最上川に行ったり黒羽に戻ったり切れ切れにやっているので感動が少なくなりそうです。

反省。

一年に一度の秋まつりに湧く鹿沼の町並みです。

 

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いきいき茨城(コキア)

2017年10月27日 | 旅行

国営ひたち海浜公園にやって来ました。

何回か来ていますがコキアが紅葉している頃は初めてです。

中央ゲートからはいると園内を一周するシーサイドトレインが待っています。

総面積350ha,現在はその内の200haが開園しているそうでとにかく広い。

観覧車なんかもあったりして子供たちが喜びそうな乗り物が沢山あります。夕方なので乗客も少ないようです。

今回はコキアを見るだけで時間も押しているので見晴らしの丘に急ぎます。

なんという名前か分かりませんがススキの親分みたいな草が生えています。

観覧車も逆光で写すとまた違った感じです。

コキアのシーズンは盛り上がる時でしょうか。道路上まで案内が貼ってありました。

みはらしの丘が見えてきました。

今年はコスモスの花が何処に行ってもあまり綺麗ではありません。

コキアは原産は南ヨーロッパですが中国から渡来したそうです。

和名はホウキグサ

昔はこの茎を乾燥させてほうきを作ったそうです。そう言われると親しみがわきます。

丘の頂上まで沢山の観光客。

日本人も暇な人が多くなったなと思っていると半分ぐらいは中国語や韓国語を話している人達でした。

先ほどのトレインがみはらし広場駅に到着です。

軌道が敷設されているミニトレインだったらご隠居も乗ってみたいのですが・・・・。

丘の頂上に立つと海が見えました。

海の近くなので風が強かった。

反対側を見ると馬鹿が続々と登ってきます。

ご隠居も馬鹿の一人でした。

今回はコキアを見るだけに来たのでこれで終わりです。撤収します。

 

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いきいき茨城(那珂湊)

2017年10月22日 | 旅行

列島は台風の接近で全国的に荒れ模様です。(10月22日)

千葉市内も朝から断続的に雨が降っています。皆様のほうではどうでしょうか。

まぁこういう天気には何処にも出かけられないので、のんびりお茶でも飲みながら雨の休日を楽しみましょかね。

 

先日TVのニュースでひたち海浜公園のコキヤが綺麗だということで出かけてみました。

ご隠居は飽きっぽいので花なんかを一日じっくり見ていられないのでまずは那珂湊で美味しい物でも食べようと思いました。

ひたちなか海浜鉄道勝田駅です。キハ11が入線して来ました。

まずはひたちなか海浜鉄道湊線に乗りましょう。 JR勝田駅ー阿字ヶ浦駅間14.3KMです。

一日フリー切符を求めました。

この鉄道は大正2年に運行を開始した歴史がある会社です。上野から常磐線特急で一時間余りで勝田駅に着き、湊線で広々とした車窓が楽しめます。

すぐに那珂湊駅に到着。案内板が面白いですね。

空が広く感じられます。

駅の外から見た那珂湊駅。

駅舎内は静か。時間が止まっているようです。

ここも駅猫「おさむ」と妹分の「ミニさむ」がいるそうですが駅員にどこにいるか聞いたら「事務所で昼寝中です」とか。

おこすのも悪いから写真は止めておきました。

さて天気も良かったので少し歩いてみました。

山上門。市指定有形文化財。

水戸藩小石川屋敷(東京都文京区)に設けられた勅使奉迎用の門で形式は薬医門。

昭和11年にこちらに移築したそうです。この日は誰もいなくてちょっと淋しそうでした。

幕末に江戸では西郷隆盛もこの門を出入りしたとか。

那珂湊反射炉跡。県指定史跡。

反射炉と言えば伊豆の韮山反射炉が有名ですがこちらは水戸藩9代藩主徳川斉昭公が1857年に国防の観点から造られた大砲鋳造所です。

1864年の騒乱で破壊され昭和12年に実物大の復元模型です。

オランダの技術を学んで20門の大砲を作ったそうです。

日本人は昔から新しい技術を学んですぐ時代に対応するんですね。

今は日本も技術大国、発展途上国にどんどん新しいものを指導してあげたらいいのにと思います。

 

町を歩いていると小さな天満宮がありました。

水戸光圀公も社参、道真公の御神像を造らせました。誰もいませんでした。

さてお腹もすいてきたので那珂湊おさかな市場に行ってみましょう。

平日にもかかわらず観光バスが何台も止まってここだけはすごい賑わいです。

駐車場に入る車がかなり並んで待っていて休日は大変な騒ぎだろうなと思いました。

干物がお日様に当たって輝いています。天日干しの干物は美味しそうです。

目の前は那珂湊漁港の海が広がっています。

この漁船もどのくらいの総トン数かわかりませんがかなり遠洋に乗り出していくのでしょうか。

それでは昼食です。

当ブログは食に関しては疎いので料理の美味しい店とかは紹介できません。

とりあえずは少しは行列ができている店に的を絞って入ってみました。

当店おすすめ「二色丼」を頼んでみました。1300円。

味は・・・・・・。うーん、どこにでもある感じかな。

ひたちなか海浜鉄道の終点、阿字ヶ浦駅に着きました。

ここも案内板がお洒落です。

役目の終わった古い車両が青空の下にぽつんと止まっていました。

駅前は何もありませんが少し歩くと海岸が広がっていて「磯遊び王国」とか海水浴場が広がりホテルや民宿が並んでいます。

冬に来たらあんこう鍋が美味しそうです。

そしてもうすぐ(徒歩約30分、バス便あり)ひたち海浜公園の入り口です。

 

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奥の細道旅行譚(加茂水族館のクラゲ)

2017年10月19日 | 旅行

湯野浜温泉から海岸沿いを走り港町加茂にやって来ました。

港から朝の鳥海山が見えました。

江戸時代、北前船の中継港として酒田に次ぐ海上交通の要衝として栄えていたそうです。

港を囲む小高い丘には神社仏閣が多数存在して、商港時代の名残りの蔵や民家、狭い路地などが残っています。

丘の上に立つ荒崎灯台。

日本各地何処に行っても海があり灯台がそびえています。嬉しい景色です。

この灯台の下に目指す加茂水族館がありました。

早速中に入ってみましょう。

クラゲ展示数では(約50種)は世界一だそうです。

平成9年頃は来場者数約92000人まで落ち込みました。入館者のいない日もあったとか。

しかしサンゴの水槽で偶然クラゲが発生したのを展示に結び付けました。その後有為曲折はありましたがクラゲに特化する水族館として年間来場者数約30万人になりました。

最近この話はTVのドキュメント番組でも何回も紹介されています。

どんな組織でもトップがきちんとした理念を持って行動すれば部下はついて行くのです。そして繁昌して尊敬される企業体になります。

下村脩先生がノーベル化学賞をとった緑色蛍光タンパク質の研究はオンワンクラゲに由来するということでもこの水族館が脚光を浴びましたね。

入り口の脇にスタンプがあったのでまずはもらったパンフレットに押しておきました。

さてクラゲのほうですがご隠居は水族館の写真は苦手なのであまりよく撮れませんでした。

クラゲの解説コーナーです。

宇宙の世界みたいですね。

この水族館の最大の売り物、クラゲドリームシアターです。

直径5mの世界最大級の水槽の中でゆらゆら揺れるミズクラゲが心を癒してくれません。

実物を見るともっと本当に素晴らしい。

この解説のパンフレットのようにいつかは上手に撮りたいものです。

外に出るとほかの水族館と同じようにアシカやアザラシのショーをやっていました。

クラゲが癒されると言っても愛嬌振りまいてくれたりはしないのでやっぱりこういうものも水族館では必要でしょうね。

子供達が大喜びでした。

さてこれをもって庄内、出羽三山の旅は終わります。千葉に帰りました。

旅は帰る自宅があるからいいのですよね。

 

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奥の細道旅行譚(鶴岡市)

2017年10月15日 | 旅行

湯殿山からの長い道のりでしたがようやく鶴岡市内に入って来ました。

まずは松が丘農場です。

明治5年に旧庄内藩士3000人が刀を鍬に持ちかえて開墾した一帯です。

月山山麓のすそ野に広がる225haの広大な開墾地には幾多の困難を乗り越えて現在まで続いているそうです。

夏の終わりにやって来たせいでしょうか。セミの鳴き声も最後というくらいに鳴いてはいましたが夕日が傾き始めなんだかちょっと淋しそうでした。

冬は雪が沢山降って、たいした防寒設備のなかった昔。武士の生活から一変した苦労は大変だったろうなと思いました。

松が丘開墾記念館(一番蚕室)

明治8年に建造。桁行37.8m、梁間9m、2階建ての上に、更に通風換気の越屋根が取り付けられています。

中に入ってみました。

1階の展示室は松が丘開墾資料、2階は全国の土人形、土鈴などが展示してありました。

床などはピカピカに掃除されています。わが家の事を考えると恥ずかしい。

更に記念館を出て歩いて行くと庄内映画村記念館(五番蚕室)がありました。

「おしん」などの室内セット、「おくりびと」の棺での入棺体験などいろいろ楽しめそうでしたが

先を急ぐので入館はあきらめました。

そして鶴岡市の中心部に入り鶴岡公園のお堀が見えてきました。

鶴岡市と言えばやはり藤沢修平の作品でしょうか。

藤沢修平さんは昭和2年に鶴岡市に生まれ山形師範学校を卒業、「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞しました。

どの作品も読みやすくて人間の心が優しく描かれていてご隠居も大好きです。

もっとも作品も多いので題名を見ただけではよくわからなくて2-30ページ進んでから昔読んだことがあるななどと思ったりします。

まぁ少しぼけてきたこともあります。

この「蝉しぐれ」は海坂藩ということになっていますが庄内藩のことだと思います。

 

夏の景色

いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接しているあたりは、まだ夜の名残りの霧が残っていた。

じっと動かない霧も、朝の光を受けてかすかに赤らんで見える。

そしてこの早い時刻に、もう田圃を見回っている人間がいた。

黒い人影は膝の上あたりまで稲に埋もれながら、ゆっくり遠ざかって行く。

頭上の欅の葉かげあたりではにいにい蝉が鳴いている。

快さに文四郎は、束の間放心していたようだ。そして突然の悲鳴にその放心を破られた。

 

この近くに(鶴岡市馬場町4-6)藤沢修平記念館があるそうですが時間がないので割愛しました。

致道博物館にやって来ました。

あと30分で閉館ですがいいですかと言われ「写真撮ってすぐに帰ります」と言いました。

「そんなには急がなくてもいいですよ」と受付の人が笑っていました。

日本各地の城下町に行くと必ずこういう文化が香る博物館があります。

城下町は大好きです。

この博物館は鶴ヶ丘城の三の丸のあたり、庄内藩の御用屋敷になっていたところだそうです。

徳川四天王のひとり酒井忠次を祖として明治時代まで酒井氏が治めていました。

その酒井氏が郷土文化の向上をのため旧藩校致道館資料及び土地建物を寄付したそうです。

「致道」とは中国の古典「論語」の一節「君子学んで以って其の道を致す」にあるそうです。

敷地内には見学場所が沢山あるようです。またゆっくり来てみたいですね。

鳥海山も夕闇が迫ってきました。

今宵は湯野浜温泉に泊まりました。

翌朝、朝の海岸を散策しました。約1kmわたる白浜海岸が特徴です。

昔来た時よりなんだか元気がないような気もしますがそんなこと書いたら怒られるかな。

さあ長かった庄内地方の旅も、くらげの加茂水族館を残すだけになりました。

 

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