湯殿山を参拝してかつて出羽三山詣でで栄えた街道を朝日村から鶴岡市方面に走りました。
のどかな田園地帯、田圃に稲が実っています。
芭蕉一行も時期はもう少し早かったけれどこんな景色を見ながら歩いたのでしょうか。
この間曽良の旅日記のも何も記載がりません。
大日坊の仁王門の前に出ました。
平成12年仁王門修理のため屋根裏を検索したところ1279年仁王像運慶作と記された検札を発見して仁王門は鎌倉時代に創建されたことが証明されました。
湯殿山大日坊本殿
湯殿山は往時女人禁制の秘境であったため、弘法大師は女人の心を哀れみ、この地を撰び清め湯殿山大権現を招し、湯殿山のお沢八万八千仏をまつり、女の湯殿山として建てたのが大日坊の起こりとなっているそうです。
本堂に上がってお参りすると隣の部屋には沢山の観光客、信者が集まって住職が熱心に秘話を解説していました。
暗い部屋から外を眺めると秋の日差しが明るく輝いています。
冬になるとすごい雪が降って景色が一変するのでしょうか。
全国には24体の即身仏があるそうです。
そして庄内地方では三体が公開されています。
この大日坊では真如海上人の即身仏が拝観できます。
即身仏
衆生救済を願い厳しい修行の末みずからの肉体をミイラにして残したお坊さんです。
即身仏になるための修行
木食修行(もくじきしゅぎょう)
木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ経を読んだり呪をする。
まず腐敗の原因となる脂肪が燃焼され次に筋肉が糖として消費され皮下脂肪が少なくなり水分もなくなる。
土中入定(どちゅうにゅうじょう)
地下に穴を掘り石室を築きそこに入ります。
竹筒で空気穴を設け完全に埋められた行者は断食しながら鈴を鳴らし経を読みあげながら息が絶えます。
3年3か月
その鐘がの音が地上の人に聞こえなくなることで息が絶えます。
3年3か月後に掘り上げられると何もしなくてもミイラ(即身仏)になっているそうです。
恐ろしい話を聞いて境内に出ました。
今まで見ていた景色が厳しいものに感じられました。
さて大日坊から六十里越街道に入り注連寺に向かいます。
小説「月山」にも出てきた「春が来て大網までバスが来たという大網」「冬の間は越すことができない十王峠」それに七五三掛(しめかけ)などの地名が出てきます。
湯殿山注連寺 即身仏 恵眼院鉄門海上人が参拝できます。
天井の絵画が素晴らしい。撮影禁止なのでお見せできないのが残念です。
小説「月山」より
それにしても、道しるべは思い出したように建っていて、この新道には間違いないらしいが、だんだん小さな棒グイみたいなものになってきて、ついにそんなものも見えなくなってきました。
山あいの向こうからは、送電線の鉄柱の小さく見える山並みが迫って来て新道も尽きてしまいそうな気がするのです。
じじつ、注連寺は新道の尽きたところにあったので、足も疲れ不安にかられていると、ようやく山あいから漏れる夕日に、銅葺の屋根を輝かしている大きなお寺が見えてきました。
しかも、山は暮れるのがはやく、そして寺がもうそこにあるところに来ながらも、たどり着いたときは境内もすでに暗く、花がつくられているらしいのに、かすかな香りばかりが闇に漂っていたのです。
かつては森敦文庫もあったそうですが朽ちて今はありません。
日本最大級の大鰐口
直径5.5尺 重さ百貫目
七五三掛桜(しめかけさくら)
咲き始めは白色、次第に桃色に変化するという神秘的な魅力があるそうです。
お寺から晴れている日は月山が見えます。
雪囲いのための桟木が残されていました。
森敦は昭和26年晩夏からひと冬をこの寺で過ごした体験を基に描かれた「月山」です。
大作家はここから遠く月山を望んでどんなことを考えていたのでしょうか。
単なる観光客・凡人のご隠居にはとうてい分かりません。