ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(六十里越街道)

2017年10月10日 | 旅行

湯殿山を参拝してかつて出羽三山詣でで栄えた街道を朝日村から鶴岡市方面に走りました。

のどかな田園地帯、田圃に稲が実っています。

芭蕉一行も時期はもう少し早かったけれどこんな景色を見ながら歩いたのでしょうか。

この間曽良の旅日記のも何も記載がりません。

大日坊の仁王門の前に出ました。

平成12年仁王門修理のため屋根裏を検索したところ1279年仁王像運慶作と記された検札を発見して仁王門は鎌倉時代に創建されたことが証明されました。

湯殿山大日坊本殿

湯殿山は往時女人禁制の秘境であったため、弘法大師は女人の心を哀れみ、この地を撰び清め湯殿山大権現を招し、湯殿山のお沢八万八千仏をまつり、女の湯殿山として建てたのが大日坊の起こりとなっているそうです。

本堂に上がってお参りすると隣の部屋には沢山の観光客、信者が集まって住職が熱心に秘話を解説していました。

暗い部屋から外を眺めると秋の日差しが明るく輝いています。

冬になるとすごい雪が降って景色が一変するのでしょうか。

全国には24体の即身仏があるそうです。

そして庄内地方では三体が公開されています。

この大日坊では真如海上人の即身仏が拝観できます。

即身仏

衆生救済を願い厳しい修行の末みずからの肉体をミイラにして残したお坊さんです。

即身仏になるための修行

木食修行(もくじきしゅぎょう)

木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ経を読んだり呪をする。

まず腐敗の原因となる脂肪が燃焼され次に筋肉が糖として消費され皮下脂肪が少なくなり水分もなくなる。

土中入定(どちゅうにゅうじょう)

地下に穴を掘り石室を築きそこに入ります。

竹筒で空気穴を設け完全に埋められた行者は断食しながら鈴を鳴らし経を読みあげながら息が絶えます。

3年3か月

その鐘がの音が地上の人に聞こえなくなることで息が絶えます。

3年3か月後に掘り上げられると何もしなくてもミイラ(即身仏)になっているそうです。

恐ろしい話を聞いて境内に出ました。

今まで見ていた景色が厳しいものに感じられました。

 

さて大日坊から六十里越街道に入り注連寺に向かいます。

小説「月山」にも出てきた「春が来て大網までバスが来たという大網」「冬の間は越すことができない十王峠」それに七五三掛(しめかけ)などの地名が出てきます。

湯殿山注連寺 即身仏 恵眼院鉄門海上人が参拝できます。

天井の絵画が素晴らしい。撮影禁止なのでお見せできないのが残念です。

小説「月山」より

それにしても、道しるべは思い出したように建っていて、この新道には間違いないらしいが、だんだん小さな棒グイみたいなものになってきて、ついにそんなものも見えなくなってきました。

山あいの向こうからは、送電線の鉄柱の小さく見える山並みが迫って来て新道も尽きてしまいそうな気がするのです。

じじつ、注連寺は新道の尽きたところにあったので、足も疲れ不安にかられていると、ようやく山あいから漏れる夕日に、銅葺の屋根を輝かしている大きなお寺が見えてきました。

しかも、山は暮れるのがはやく、そして寺がもうそこにあるところに来ながらも、たどり着いたときは境内もすでに暗く、花がつくられているらしいのに、かすかな香りばかりが闇に漂っていたのです。

かつては森敦文庫もあったそうですが朽ちて今はありません。

日本最大級の大鰐口 

直径5.5尺 重さ百貫目

七五三掛桜(しめかけさくら)

咲き始めは白色、次第に桃色に変化するという神秘的な魅力があるそうです。

お寺から晴れている日は月山が見えます。

雪囲いのための桟木が残されていました。

森敦は昭和26年晩夏からひと冬をこの寺で過ごした体験を基に描かれた「月山」です。

大作家はここから遠く月山を望んでどんなことを考えていたのでしょうか。

単なる観光客・凡人のご隠居にはとうてい分かりません。

 

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奥の細道旅行譚(湯殿山)

2017年10月06日 | 旅行

月山から神秘の霊域、湯殿山にやって来ました。

便利なことに有料道路がありました。

昔から湯殿山で経験したことは「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められています。

駐車場を出ると大きな案内図がありました。

先日いつも行っている床屋さんのばあやに湯殿山は神秘的でご利益がありそうだと話しました。

「あたしも30年ぐらい前に行ったことあるけどご神体からお湯が流れていてさ、すごいよね」

「湯殿山の事べらべらしゃべるとご利益が無くなるというか罰が当たるかもしれないよ」

「だって30年もお客さんに喋っているけど罰が当たるどころかますます繁昌しているよ」

「そうか、少しぐらいブログに書いても神様からクレームはこないかね」

「どっちみち野崎さんのブログなんかたいして見ている人もいないだろうけど、少しは宣伝になって参拝する人も増えたりして感謝状でもくるかもしれないよ」

「ずいぶんだねぇ」

まずは度肝を抜くような大きな鳥居が現れました。

このへんはどのガイドブックを見ても載っています。肝心のご神体の岩などの写真がないのが不思議でしたがそういうことなのです。

こちらも大きい。

宿泊もできるみたいです。

近在の温泉なんかに泊まって美味しいものをたらふく食べて、二日酔い気分で参拝に来るよりこういうところで夜は静かに湯殿山の霊気にあたった方がいいかもしれません。

駐車場から先は一般御車は入れませんのでシャトルバスに乗ります。

もっともゆっくり歩いても30分ぐらいで高齢の人も登っていました。

ご隠居はもちろんバスに乗りました。

いよいよ本宮です。

ここから登ってご神体に向かいます。

よく撮影禁止でもスマホで隠し撮りしている人がいますがここではさすがにいないような気がしました。

 

神社では参拝所でお祓いを受け、500円払って、お守りと人形の形代(かたしろ)をいただきました。

紙の形代は水に濡らして流します。こうすることで身の汚れを俗界に置いて行くことになります。

そして履き物を脱いで裸足になり石敷きの道を歩くと湯の花に覆われた巨大な茶褐色の岩があり温泉が噴き出ていました。

噴出した温泉が足元も暖かく流れ、ぬらぬらとしてこの世のものとは思えない液体と言った感じ。いやぁすごい。

なんていったらいいのでしょうか。古代からこんな感じだったのでしょうか。猿の惑星という映画のワンシーンみたい。

そしてご神体の後を登り(上から見下ろすようになるのですがばあやの話では昔はなかったそうです)谷全体を見渡せる場所でもう一度拝みます。

駐車場の鳥居が見えます。この山々全体に神様が飛び回っているのですね。

ここは撮影禁止の場所ではありません。念のため。

駐車場まで下りてきたら急に冷たい風が吹いてきました。

パーカ(馬鹿ぁではない)を持って行って良かった。ユニクロで買ったんだぞぅ。

ご隠居はいずれ隣の聖のようになりたいと思っています。

南無・・・・・・・・・・・・。

 湯殿山では夢うつつとなりました。

 

出羽三山(湯殿山)

谷のかたはらに鍛冶小屋というあり。

この国の鍛冶、霊水を撰びて、ここに潔斎して、剣を打ち、ついに月山と銘を切って世に賞せられる。

かの龍泉に剣を淬(にら)ぐとかや、干将・獏耶(ばくや)の昔を慕う。

(中国には呉山に尋ねて龍泉の水に剣をきたえたという話があるが、この刀工の業績は干将・獏耶(刀の制作者の夫婦の名前)のいにしえの苦心の跡がしのばれる)

道に堪能の執浅からぬこと知れたり。

(まことに一芸に優れたものの執着心が浅くないのが分かる)

岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺なる桜つぼみ半ばに開けあり。

降り積む雪ノ下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花のこころわたりなし。

(降り積もる雪の下に埋もれながら、こうして春を忘れない花ごころには感銘を受ける)

炎天の梅花ここにかをるがごとし。

(禅家における炎天の梅花がまのあたりに香っているようだ)

行尊僧正の歌ここに思い出でて、なほあはれもまさりておぼゆ。

(「もろともにあわれと思へ山桜」と詠んだ行尊僧正を思い出される)

総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめてしるさず。

坊に帰れば阿闍梨の求めによりて三山巡礼の句、短冊に書く。

涼しさや ほの三日月の 羽黒山

(日が落ちて黒々とシルエットを浮きだたせている羽黒山の上に三日月がほのかに見える。神秘的で心も涼しくなる)

雲の峰 いくつ崩れて 月の山

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな

(他言を許さない湯殿山の尊厳さに対する感涙にぬらす私の袂。何も語らずともお山のありがたさはわかるでしょう)

湯殿山 銭踏む道の 涙かな(曾良)

(湯殿山は地に落ちたものを拾ってはならぬおきてで、地上におびただしく落ちている賽銭を踏んで参拝してもこの霊山の尊さに思わず涙がこぼれた)

 

 

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奥の細道旅行譚(月山)

2017年09月29日 | 旅行

羽黒山(現世界)から月山(死の世界)に向かいましょう。

出羽三山といっても三つの独立した山があるわけではなく頂上が月山とすれば(1984m)峰の北側のふもとが羽黒山、そして南西の中腹が湯殿山です。

途中でなだらかな尾根の月山が見えてきました。

月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山にに対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連瓦させて、臥した牛の背のように悠々として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと落している。

すなわち、月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。

月山が、古来、死者の行くあの世の山とされたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるかもしれません。

・・・森敦「月山」から

難しい文章ですね。

上古より<死者の行く山>と畏れられる出羽の霊山・月山。

その山ふところの破れ寺に、ある夏、何者とも知れぬ男が辿りつく。男は雪に埋もれた長い冬に耐えて春の終りと共に再びいずこに去って行くが・・・

読者はこの男と共に、閉ざされた山間の村人の土俗の暮しにひたりながら、いつしかこの世ならぬ幽冥の世界に誘い出され、生と死の淵源をさまよい歩く。

難しい本ですがご隠居は結構好きな小説です。読んだ本はどんどん捨てていますがこの本は大事にとってあります。

月山高原ラインを上って八合目までは自動車で行くことができます。

駐車場から庄内平野を望みます。雄大な景色です。

月山ラインは道が狭いうえに急こう配、右へ左へとめまぐるしくカーブします。そこに大型観光バスが道一杯にもやって来ます。

観光バスは絶対に道を譲らないので交差するのにバックしたり大変でした。ご隠居は車を運転していてこういうのが一番嫌いです。

もう一回ぐらい訪れる機会があったらその時までに金を沢山儲けて鶴岡駅から優雅にタクシーで来たいなと思いました。

路線バスは運転手さんの他に誘導員が乗車していて対向車に会うたびに交差の調整をするみたいです。

日原の鍾乳洞に行く西東京バスにも補助員が乗っていますが、日本にはこんな場所がまだ多いようです。

しかしここは一級の観光地ですから道ぐらいもっとよくしろよと言いたくなります。

駐車場の脇の道を登って弥陀ヶ原湿原遊歩道に行きました。

すぐに高度があがります。

木道が続いています。

尾瀬ヶ原ほど広大ではありませんが夏の初めに来れば高山植物が素晴らしいのではないでしょうか。

標高約1400m、「いろは48沼」といわれ湿原の中にさまざまな沼が散らばっています。

少し花が残っていました。

もちろん水芭蕉は終わっていました。でも風が気持ちいい。

月山山頂に続く鳥居です。

ここから老人の足だと2時間30分ぐらいかかるのでしょうか。

若いうちに来ればよかったなと思いました。

日頃から訓練しておけば登れないこともないでしょうがご隠居は大きな願い事がないので八合目で撤収です。

曾良の「旅日記」ではこの弥陀ヶ原で昼食をとり、頂上へと向かいます。日記には「難所成」とあります。

芭蕉は曾良と強力<ごうりき>(現在でいう山岳ガイドまたはシェルパといったところか)の3人で頂上の月山神社を目指しました。

鍛冶小屋で一泊しました。笹を敷いてわらを枕にして寝ました。食事も「やわら」というおかゆのみだったそうです。

寒くてひもじくて大変だったでしょうね。そこまでしても芭蕉一行のこの参拝への意気込みはすごかったのでしょうか。

月山は「細道」前半の日光への対応であり、日光では「日の光」をたたえ、月山では「月の光」をたたえたのも芭蕉の精妙な構成であると嵐山光三郎さんは書いています。

日光も東照宮の修繕も終わり綺麗になったとか。近いうちに再度訪れたいと思っています。

月山中の宮、御田ヶ原参籠所でお願い事をして御朱印もいただきました。ここで聞いてくれた願い事を山頂の月山神社までラインかなんかで報告してくれるといいなと思いました。

やれやれやっと羽黒山、月山と二つ参拝しました。

 

羽黒(月山)

八日、月山にのぼる。

木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包、強力と云う者に道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、

(木綿しめを身にひきかけて・・・こよりでできた修験袈裟)

更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて頂上にいたれば、日没し月顕る。

(高山にのぼるさまを、雲をしのぐに喩える)

笹を鋪、(しき)篠を枕として、臥して明るを待。陽出でて雲消れば、湯殿に下る。

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奥の細道旅行譚(羽黒山三神合祭殿)

2017年09月24日 | 旅行

さらに登ります。

杉木立です。

芭蕉塚

江戸時代鶴岡の俳人衆が「涼しさや ほの三日月の 羽黒山」に因み永く面影を慕おうと三日月塚と称して建立しました。

御本坊跡(別当寺宝前院の跡)

途中、奥の細道本文にも出てくる南谷別院跡に下る分岐点がありましたがもう汗まみれで省略しました。

三の坂を登り終えてやっと2446段最後の鳥居が見えてきました。

厳島神社・蜂子神社

三社合祭殿(重文・日本最大の萱葺き建物)

三神合祭殿は月山、湯殿山、羽黒山を祀っています。

月山、湯殿山は冬期間積雪で登拝できないので三神を羽黒山に祀るとされています。

萱葺き屋根の壮大さにただただ目をみはるばかりです。

日本の各地の山にそれもかなり高い場所に荘厳な神社仏閣が建立されていますが本当に驚いてしまいます。

御朱印もいただきました。

8月31日 蜂子神社祭(八朔祭)

9月1日 田面際    お祭りの時で山伏姿の人にたくさん出会いました。

鶴岡市観光協会のパンフレットから

重文 鐘楼と大鐘 屋根も切妻造りの萱葺きで質素な感じですが歴史を感じます。

鐘は日本第三の大きさとか。

霊祭殿

出羽三山は先祖の霊魂を祀る山としても信仰を集めています。

末社 稲荷神社や白山神社など九社が祀られています。とにかく山中、神、神、神です。

ちょっと面白いなと思い撮りました。

手水舎 こちらの鳥居を抜けると有料道路を登ってくる車のための大きな駐車場とお土産屋さんなどが並んでいます。

階段を登ってこなくても気軽に霊山の空気に触れることができますので安心してくださいね。

何よりも天気が良くてラッキー!雨でも降ってガスっていたら目も当てられないです。

 

「さて2446段の階段とは大変なものだね」

「気合だ、気合だ、気合だぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・」

「うるさいねぇ、こんな静寂で荘厳な場所でなんで大声出しているのかねぇ」

「気が狂いそうです。頭の中じゃ茶店までもたどり着かない感じです」

「山寺でも800段以上、標高差は同じぐらいのなのになんとかなったから大丈夫」

「根拠のない自信は無敵です」

「染物師の呂丸さんの紹介で本坊、別当代・会覚さんの好意で南谷紫苑寺に泊まることが出来ました」

「翁はどこにも沢山ののファンがいて助かります」

「アイドルグループのファンみたいな軽い人たちではありませんよ。俳句の修行をしている人達です」

「お言葉ですがおニャン子クラブやモーニング娘でもその後、会社経営に成功したりネットなどで活躍している人も多いようです。侮れません」

「曾良さんは芸能通だね」

「ところでリュチェルとペコちゃんが結婚して式に1000万円もかかったって知っていますか?」

「知らん!宇宙人の話ですか

「馬鹿っぱなししているうちに五重塔に着きました」

「なんとみずみずしい五重塔でしょうか。人間が作ったのに地から生えてきたような生命力があり、塔が地から水分を吸って呼吸しているようです」

「簡素ですが太古の力があり、見る者は全身を浄化されるようです」

(注、この二行は嵐山光三郎さんの文を参照しています。)

「さてやっと別院に着きました。暗くなってきて心細かったですね」

「私はね、出羽三山に一度死にに来ました。いままで積み上げてきた俳諧の道をすべて捨て去り、その後に新しい命が吹きこまれるとの覚悟です」

「まぁ難しい話は別にして別院で飲んだり食ったりしたお礼に句会でもじゃんじゃんやりましょう」

「困った人だねぇ」

 

嵐山光三郎「芭蕉紀行」から

三神合祭殿は巨大な萱葺き屋根をのせ、現在の建物は1818年の再建である。

一棟の中に拝殿と本殿が造られ、冬は雪で参拝できない月山と湯殿山も祀っている。

ここでも祭壇のなかで、講中人達が祈祷をしていた。

耳をすますと、祝詞と声明と般若心経が入りまじって煮え立つような不思議な音調であった。

カーンとしずまりかえった石段を登りきったあとに聴くと、祈りのだみ声の渦に吸い込まれて宇宙の迷子になりそうで足がもつれた。

陶酔しきった祈祷の声にはエロチックな誘惑が満ち、講中の婦人は身を悶えて白衣を汗で濡らしている。

羽黒山、月山、湯殿山が古代において「恋の山」であり、湯殿山ご神体である自然岩が女体の象徴であったことも無関係ではない。

歩きながら首筋に汗が流れる。

汗はつーっと首から背骨へおちていき、自分の肉体も生身であることを実感した。

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奥の細道旅行譚(羽黒山五重塔)

2017年09月17日 | 旅行

やっと羽黒山にやって来ました。

鶴岡市内から行くと大きな鳥居が見えてきました。

反対側を見ると鳥海山に雲がたなびいています。

社務所のある手向(とうげ)に着きました。

まずは「いでは文化記念館」に入ってみましょう。

出羽三山の山麓に広がる村々の神事、祭事などが紹介されています。

羽黒山伏の実寸大の人形や芭蕉一行が月山で一夜を過ごしたといわれる小屋のレプリカなどに興味がわきました。

なお館内は撮影禁止です。

出羽三山を訪れた後、大日坊などに寄りますがそこではこの地方に即身仏のミイラが何体も作られたことの説明を受けました。

羽黒山伏が吹くほら貝の音色には衆生の迷夢を覚し諸悪を祓う力があると言われています。

とりあえず記念館を後にして出羽山神社を目指しましょうかね。

隋神門

ここから山頂まで約2kmの参道です。樹齢300年から400年の杉が生い茂り、石段は2446段です。

前置きはいいかげんいしてミシュラン・グリーンガイド・ジャポン三ツ星に認定されているこの参道を登ります。

継子坂

さぁ登るぞ!と気合を入れて鼻の穴おっぴろげていくとまずは下り坂でした。

 

登る途中に日本全国の神様が祀られています。

祓川神橋を渡ります。

撮影ポイントのひとつ須賀の滝が見えました。

お堂の後ろに流れ落ちる滝はなんだか神々しい。

やがて一の坂の入り口に五重塔がそびえ建っています。

素木造り、柿葺、三間五層の作りは森閑とした緑の中に均整がとれていて優美な姿に感嘆です。

こんな山の中にだれに参拝してもらおうと思って建造したのでしょうか。

場所を変えて撮ってみました。

東北では最古の塔だそうです。国宝。平将門の創建ですとのこと。

昔JR東日本のCMでライトアップされたものが放送されていました。

こんな東北の山中で妖しく輝く五重塔の夏の夜を体験してみたいですね。

更に登ります。

木々の間から庄内平野が見えます。汗を拭いていると爽やかな風が吹いてきます。

やっと二の坂茶屋(名物力餅)の看板が見えてきました。

ここまで来ると半分です。

眺めが良さそうだし息も切れているので客引きなんかいなくても倒れこむように入りました。

早速賞味しましょう。

抹茶を飲んで、餅を食べてお茶を飲んで、いやまだのどが渇くとペットボトルの水を買いました。

牛飲馬食と言いますが馬のように水を飲んでいるようだと思いました。

もっとも馬も「あたしだってそんなには飲みませんよ」と言われそう。

せっかくだから素晴らしい景色も堪能しましょう。

景色を見ていたら(アンケートみたいなものに名前を書いておいたので)・・・。

認定書をいただきました。

よく読むと道半ばなのにもう踏破したことになっています。

途中まで行って戻って来たらこの認定書は返すのか聞いてみたくなりましたがそんな軽口をきく雰囲気でもないので止めました。

さらに階段は続きます。

 

羽黒(羽黒山)

6月3日、羽黒山に登る。

図司佐吉と云う者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。

南谷に宿して、憐愍(れんみん)の情かまやかにあるじせられる。

           (何くれと憐みの情をふかくしてもてなされた)

4日、本坊において誹諧興行。

有難や 雪をかほらす 南谷

(この南谷は下界の暑さを忘れるような真夏の風だが残雪の香りをもって吹いているので涼しい。ありがたいことです)

5日、権現に詣。当山開闢(かいびゃく)能除大師は、いづれの代の人と云事しらず。

        (この羽黒神社を開山した大師はいつの時代かわからない)

延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。

      (書写の際に、黒の字を誤って里山に下のでしょうか)

羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。

出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。

(出羽としたのは「鳥の羽毛をこの国の貢物として献上したからだ」と風土記に書いてある)

月山、湯殿を合わせて三山とす。

当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通(えんどんゆずう)法の灯かかげそいて、僧坊棟をならべ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効(げんこう)、人貴且つ怒る。

(武蔵の国江戸の東叡山に所属して、天台宗の止観の観法は月の曇りなきがごとく明らかに輝き、円頓融通(えんどんゆずう)を教義とする法を盛んにしている)

繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。

(繁栄は永久に続くべく、まことに素晴らしい山です)

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奥の細道旅行譚(尾花沢)

2017年09月12日 | 旅行

山刀峠を越えた芭蕉一行は尾花沢の大金持ち鈴木清風宅(本名鈴木道祐)へと向かいます。

尾花沢市は鉄道の駅がないのでどの辺か迷いますが奥羽本線大石田駅からバスで尾花沢ターミナル行きで行くのが便利なようです。

昔鉄道の敷設に反対したのでしょうか陸の孤島のようです。

現在は芭蕉清風歴史資料館となっています。

館内には芭蕉と清風がやり取りした書状などが展示されているそうですが・・・・・・

改修工事のため臨時休館中でした。残念。

もちろん芭蕉翁の像は青空をバックにして輝いています。

念通寺 鈴木清風の菩提寺です。

少し寂れていましたが庭の手入れなどは整っています。

この本堂は元禄10年、清風の独力寄進による建立といわれています。

清風の墓を探しましたが見当たりませんでした。

後で解説書を読んだら「境内にある骨堂は念通寺檀家すべての共同墓地で、ために清風のための墓というものはない」とのことです。

養泉寺。 

芭蕉が訪れた時はベニバナの開花で忙しい時期で清風の自宅ではなく新築になったばかりの養泉寺に案内しました。

仁王門の中を覗いてみました。

本堂です。秩父札所を思い出しました。最上三十三か所のひとつです。

お寺の向こうは一段下がって田圃が続きます。段丘のの端に位置して涼しい風が吹き抜けていたことでしょう。

また北西には鳥海山、西には月山が眺められる絶景の場所です。

札所ということで御朱印をいただいてきました。

 

さて尾花沢で10日ものんびりした後一行は山寺、更には道を引き返して大石田、新庄そして最上川下りに向かいます。

当ブログでは最上川下りは2015年9月に掲載してありますのでさかのぼってごらんください。

新庄市内も芭蕉の足跡はあるのですが石碑とか標柱だけとかが多くなっています。

これは市民プラザ前にある「風の香も南に近し最上川」の句碑です。

 

そして6月3日には(陽暦7月20日)には本合海から快晴の中、舟下りに出かけます。

現代ではご隠居は電車で行ったので陸羽西線の古口駅より最上峡芭蕉ライン乗船場(戸沢藩舟番所)から乗りました。

芭蕉一行は本合海(もとあいかい)から乗船したそうなので寄ってみました。

立派な案内がありました。

古い案内でしょうか。

もちろん芭蕉、曾良さんもいましたよ。

最上川の流れです。

なんだか東北、みちのくだなあと思いました。

 

尾花沢

尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。

かれは富める者なれども

志卑しからず。

都にもおりおり通いて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたわり、さまざまにもてなしはべる。

 (都にもたびたび往来しているだけあって、旅の心もよくくわきまえているので幾日も自分たちを引留めて、長旅の労をねぎらい、あれこれともてなしてくれた)

涼しさを わが宿にして ねまるなり

(清閑の涼を楽しんでいるあるじ清風の心根が偲ばれるこの座敷の涼しさを我物顔にのうのうとくつろいでいます)

這い出でよ 飼屋(かいや)がしたの 蟾(ひき)の声

(蚕を飼っている床下で(万葉の歌)そのままにヒキガエルが鳴いている。そんな暗い所で鳴いていないで這い出しておいで)

眉掃きを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花

(女性の唇を彩る原料となる紅粉花。花の形は女性が化粧に使う小さな刷毛を思い出させます。なまめかしくも優しい感じをただよわせています)

蚕飼(こが)ひする 人は古代の 姿かな   曾良

(蚕を飼うことは古代に始まる習慣だがこの土地の人が袴にも似たフグミをつけて蚕を飼っているのは神代の姿さながらのようだ)

 

「ようやく翁が楽しみにしていた清風さん宅につきましたね」

「ちょうどベニバナの開花期で忙しいのに悪かったかな」

「しかし毎回トリバコであっちこっち旅籠を探すんじゃ疲れちゃいますよ。宿泊先が決まっていると楽ですね」

「トリバコってなんだい?」

「旅籠の宿泊代金の安い所を探す閻魔帳です」

「しかしさすがに清風さん。多忙と言ってもこんな新築のお寺を世話してくれるなんてにくいじゃないの。

極楽、極楽。  涼しさを わが宿にして ねまる也 てっか」

「翁も清風さんのこと、さらりと褒めて嫌味が感じられないですね」

「人を褒めるのにああだこうだとネチネチ書くと感じが悪くなります」

「清風さんはベニバナの不買同盟にあいましたが品川海岸で焼き捨てて相場が高値になり3万両もの利益をあげたそうです」

「この国の未来に平成などと言う時代がくるがその時生れていたらジョージ・ソロス氏やウオーレン・バフェット氏と肩を並べる投資家になっていたかもしれません」

「儲けた金をバフェットさんならボランテァ活動に寄付でもしますが、清風さんは儲けた金で3日3晩吉原の大門を閉じて遊女たちに休養を与えました。日本的でいいですね」

「しかし養泉寺には甘えて7日も逗留してしまった。その間僧侶や庄屋さんなども会いに来てくれるし俳句の会もやったしよかったね。実際に世話してくれた素英さんにも感謝です。」

「サービスして本文にも涼しげな俳句を4本も載せましたね。それにあたしの句も載せていただいたおかげで帰ってから講演会でもやった時にはギャラがあがります。」

「同じサービスでもサービス残業じゃないから誰にも迷惑かけていないよ。それにしても江戸を立つときは決死の覚悟だったけれどなんだかこの辺まで来るとホッとして先が楽しみになって来ました」

 「この先清風さんの勧めてくれた立石寺に行ってみましょう。歌枕にはなかった場所ですが二人で新しい名所を創りましょう」

 「二人とは大きく出たね。この旅と紀行文は私が主催しているのです」

「分かっていますよ。翁との一線は超えません。ワイドショーにでてくるような男女の仲でもありませんから」

「なに言ってるんだかね」

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奥の細道旅行譚(山刀伐峠)

2017年09月07日 | 旅行

また奥の細道の話です。

当ブログでは2015年9月20日に「封人の家」を訪れています。その後尾花沢までの行程を抜かして最上川下りに行ってしまいました。

その補足です。

芭蕉一行はここから山刀伐峠(なたぎりとおげ)を通って尾花沢の鈴木清風宅に向かいます。

この峠の最上側は「二十七曲がり」と呼ばれるほど曲がりくねった道で車道はありますが対向車が来たらどうしようかといった感じの情報です。

ご隠居は車の運転に自信がないのでこの標高470mの小さな山は避けて尾花沢側に行ってみました。

県道わきに立派な案内板がありました。

「雪とスイカと花笠」雪が深いのでしょうね。

それと尾花沢は日本一のスイカの産地だそうです。

スイカは千葉が一番かと思っていました。馬鹿ですね。

芭蕉一行はあの橋の上を峠の方から疲れ切って降りてきたのでしょうか。

サルビアの花が綺麗に咲いていました。

観光客は誰もいません。9月のからっとした風が心地よく吹いていました。

誰の句だかよくわかりませんでした。

 

尿前の関 後半

あるじの云う、是より出羽の国に、大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越べきよしを申。

 (途中に大きな山があって道もはっきりしないから道案内を頼んだ方がいいと言われた)

さらばと云て、人を頼侍れば、究きょうの若者、反脇差をよこたえ、樫の杖を携えて我々が先に立ちて行。

けふこそ必あやうくめにもあふべき日なれと、辛き思いをなして後について行。

(今日という今日はきっと危ない目にあうかもしれないと後をついて行く)

あるじの云にたがわず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂りあひて夜る行くがごとし。

(高山は森が生茂り鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。木の下は真っ暗で夜道を行くようだ)

雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水をわたり岩につまずいて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。

(深山を陰風の吹き抜けるさまに、雲の果てから土を吹き下ろすと詠んだ杜甫の詩句そのままの感じだ)

かの案内せしおのこの云やう、「此みち必ず不用の事有。つつがなうをくりまいらせ仕合したり」と、よろこびてわかれぬ。

(この道ではいつもきっと乱暴なことが起こるのですが、今日は無事に送ることが出来て良かったと喜んで別れた。

跡に聞きてさへ胸とどろくのみ也。

(後になって聞いても胸がドキドキするばかりだ)

 

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僕の細道旅行譚(斎理屋敷)

2017年08月19日 | 旅行

阿武隈ライン乗船場から町の中心部へは歩いて15分ぐらいかかりました。

したがって丸森駅はかなり町のはずれになります。

蔵の郷土館「齋理屋敷」です。この辺が中心地でしょうか。

仙台銀行、七十七銀行、郵便局、役場などがありました。

豪商「齋藤屋」は江戸時代から明治・大正・昭和とこの辺りの大地主、幾代にもわたる資産家です。

小さな大名になんか負けない宝物が土蔵に眠っています。

地方に行くと都会の小金持ちなんかが比較にならないほどの資産家がよくあります。

昭和61年七代目の当主より土地家屋がそっくり町に寄贈されたそうです。

館内12の建造物が国の登録有形文化財に認定されました。

それでは中に入ってみましょう。

館内入り口から本屋敷に向かいます。建物の偉容とその数に圧倒されます。

現在でいうとピロティというのでしょうか。部屋の前が日差しをよけてくれてこの時期涼しそうです。

ご隠居の好きな顔出し看板がありました。

重要文化財が立ち並ぶ中にちょっとほっとする風景です。

本屋敷の中は豪華な花嫁衣装や沢山の嫁入り道具、その他工芸品が飾られています。

齋理に迎えられたお嫁さんは周辺の娘さんたちのあこがれの的だったそうです。

屋敷は吹き抜けになっていて2階に上がると1階全体が見渡せます。

齋理の旦那はダンポとよばれて新しい物好きで、昭和の初めに丸森町に初めて飛行機を呼んだり仙台で放送が始まる前にラジオを買ったりしたそうです。

どの代のダンポも趣味悠々、道楽三昧。

請われるままに書画骨董を買い取っていたそうです。

この蔵にもお宝が沢山ありそうです。

こちらは時の蔵です。

骨董品などが治められていたそうです。

一時銀行として使われていたこともあったとか。

裏門を出て新屋敷に行ってみましょう。

齋理屋敷開館十周年を記念して平成10年7月に新築したそうです。

観光客もまばらでしたが気持ちよく冷房がきいていて維持費が大変だろうなと思いました。

「齋理幻夜」に使われる手作り灯篭が沢山おいてありました。

「齋理幻夜」は夏の夜、3時間ばかり行われる一夜限りのお祭りです。

大正時代にタイムスリップしたような幻想的気分が味わえるそうです。

一度行かれたらどうでしょうか。

さて列島はお盆も終わって秋に突入します。

関東地方は7月は滅茶苦茶暑くて、8月は記録的長雨と変な夏でした。

皆様は夏のいい思い出をたくさん作ったでしょうか。年後半に向けて気持ちも新たに頑張りましょう。

ご隠居は先日久しぶりに行政書士会の研修会に参加して

「法定相続情報証明制度」というのを勉強して来ました。

来週にもまとめてアップして当ブログは9月初旬まで遅い夏休みとさせていただきます。

ひとまずお元気で。

 

 

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僕の細道旅行譚(阿武隈川舟下り)

2017年08月14日 | 旅行

さて東北線の槻木駅(つきのき)にやって来ました。

ここから阿武隈急行に乗って丸森町に寄り道してご隠居の好きな舟下りを楽しもうかなと思っています。

ホームに8100系電車が入線してきました。

「ホリデー宮城おとぎ街道号」のヘッドマークを掲げています。

阿武隈急行(あぶ急)は国鉄時代の丸森線を引き継いだ第三セクターの会社です。

槻木駅~福島駅間の54.9kmの運転区間です。

ご隠居もまだ乗ったことがない区間なので楽しみでした。

車内は綺麗でしたが見事なくらい乗客がいませんでした。気の毒です。

そして丸森駅に到着です。

外に出てみましょう。

駅前です。

タクシーが一台止まっていましたが列車から降りた若い女性が乗って行きました。

迎えの車2台と自販機に飲み物を入れていた青いトラックが行ってしまうと何もいません。

でも期待していなかった町で運営している「るんるん号」というミニバスが止まっていて、運転手さんに聞いたら乗船場に行くとのことでラッキーという感じです。

だいたいコミュニティバスはあっちこっちに最近ありますが地元の人達が行く病院とか役場が中心のようです。観光客にはあまり役に立ちません。

乗船場バス停で下車しました。

すでに阿武隈川からの心地よい風が吹いています。

嬉しいじゃありませんか。「野崎様」の看板です。

せっかく行っても水量が少ないと欠航になるということであらかじめ電話で尋ねた時に予約もしておきました。

堤防を降りると阿武隈川が見えてきました。

更に風が気持ちよくなっています。

船頭さんというか船長さんです。歌がとても上手でした。

後ろは丸森橋です。

今年は水量が少なくて川底を浚渫した土砂が左側に積まれていました。

でも昭和61年8月の台風では水色のラインの所まで水量が上がった大災害だったそうです。

海でも川でも穏やかな表情をしていても何かあると大災害になりますね。

いつもこんなに静かだといいんですけどね。

阿武隈急行の鉄橋が見えてきてここで船はUターンします。

白衣観音です。

舟下りの運行を見守る観音様。

北上川、最上川、阿武隈川、それぞれ東北の香りのする川面だぁと何となく感じますが緑の川岸に観音様をみているとますますみちのくです。

弘法の噴水。

その昔、水飢饉に苦しんでいたこの地方に弘法大師がやって来てのどが渇いていました。

村人が少ない水なのに弘法大師に差し出したそうです。大師はえらく喜んでその後この地に水が噴き出したそうです。

誰にも親切にしておくものですね。

1時間ほど遊覧して乗船場に戻って来ました。

長瀞ライン下りみたいに急流にさしかかって水しぶきを浴びるようなスリルはありませんでした。

でも風情がありましたよ。秋の紅葉時などは舟下りばかりでなく町全体が素晴らしい里山になるんじゃないでしょうか。

 

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僕の細道旅行譚(仙台空港)

2017年08月12日 | 旅行

岩沼駅から名取駅に戻りました。

旅の帰りは別のルートでと思い阿武隈ラインに沿って福島に出ることにしました。

芭蕉一行も通らなかった道をご隠居が勝手にいく(僕の細道)です。

まず仙台空港にちょっと寄り道しました。

あの東日本大震災で、仙台空港のニュースで小型飛行機が船のように波に流されていたのがいたのが衝撃的でした。

もっとも今回の目的は仙台空港線に乗車したことがなかったので乗ることです。

列車は仙台駅を出ると名取駅までJR東北線を走り、名取駅から仙台空港鉄道・仙台空港線(名取駅~仙台空港、7.1km)となります。

全路線を総称して仙台空港アクセス線と言うそうですよ。

名取駅を出ると殆どの部分が高架になっていてニュータウンやイオンモールなどのあ、る区画がよく整理されている間を走行します。

空港駅に到着しました。空港鉄道の車輌ではなくJRの車輌です。E721系ですかね。

羽田でも成田でもアクセス線はみんな地下駅ですがここは地上で明るくて気持ちがいいです。

もっとも今日は天気が悪いようです。

ラウンジに入ってみましょう。

ターミナルビルは東北の玄関口ともあって大きくて立派です。

仙台と言えばやっぱり七夕です。

大震災の時はこの階あたりに避難したんですよね。

今はその傷跡もわからなくて新幹線の仙台駅のお土産屋さんのコーナーと同じくらいこちらも混雑しています。

展望台に出てみました。

遠くあの海のあたりから津波が押し寄せてきたんですね。

全日空の飛行機が離陸の準備をしています。

飛行機に詳しくないのでわかりませんがIBEXという機体(IBEXエアライン、LCC?)が先のようです。

東北の旅も奥の細道の足跡を訪ねるのが目的なので大震災の跡地などには行っていません。

仙台空港のように公共性が高い場所は復興も早いのでしょうが一般住民の暮している土地の復興はまだまだなのかなと思います。

一日も早い復興をお祈りいたします。

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奥の細道旅行譚(武隈の松)

2017年08月08日 | 旅行

東北線岩沼駅で下車しました。常磐線との分岐する駅です。

駅前はきれいに整備されていて客待ちのタクシーが何台も止まっていてホッとしました。

最近ちょっとした駅でもポツンと一台しかいないような場所もあります。

陸羽街道に出ました。

「第一町びと発見!おじいちゃん何やっているの?」と声をかけたくなりますが誰もいません。

10分ぐらいあ歩くと竹駒神社の大鳥居の前に出ました。大きなお稲荷さんです。

奥の細道のいろいろ解説文を読むまではこの神社が日本三大稲荷のひとつで格式高い、というより神社そのものの存在も知りませんでした。

もっとも三大稲荷の候補地は沢山あるようです。伏見稲荷。祐徳稲荷。笠間稲荷。豊川稲荷。最上稲荷。など

奥の細道には竹駒神社の事は書いてありませんが当然寄っているでしょう。

社前の前に車が並び神官のお祓いを受けています。交通安全の神様なのでしょうか?

ご隠居もステッカー好きなので一枚いただきました。

1000円でした。今までの何処よりも高価です。

中央下のシルバーのものです。

ご隠居の車には山寺、瑞巌寺、那須神社など神社仏閣のステッカーガたくさん貼ってあるので追突されたことはありません。

下取りで売る時、はがすのが大変だと販売店の人が言ってました。

能因法師が陸奥の国を歴遊中、竹駒神社の神が竹馬に乗った童になって表れたと言われています。

社殿は平成2年に焼失しましたが平成6年位再建されたそうです。

さて裏手から4,5分も歩くと「武隈の松」が見えました。

生え際から二股に分かれていて独特の形をしていて平安時代から多くの歌に詠まれていました。

電線が邪魔ですね。

芭蕉にとっては歌枕を訪ねる旅ではがっかりする場所も多かったようですがここでは素直に感激しているようです。

芭蕉の時は5代目、現在は7代目、東日本大震災の影響もなくて良かったですね。

後ろに小さな公園がありました。ここで8代目の松を育てているそうです。

二木の松史跡公園です。二木(ふたき)は武隈の松の別名です。

芭蕉の句碑がありました。

奥の細道、本文中の

「桜より 松は二木(ふたき)を 三月(みつき)越し」

深川から旅立つ際に奥州出身の弟子、挙白から「師が武隈の松」を見られますようにという句をもらっています。

それに対してこの句は

桜が咲く季節から三か月も過ぎてしまったが君の言っていた武隈の松に会えたよ。

二つに分かれた昔ながらの姿にただただ見事だ。

 

武隈の松

岩沼宿す

武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失わずと知らる。

まづ能因法師思い出づ。その昔、陸奥の守にて下りし人、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや、「松このたび跡もなし」とはよみたり。

能因法師が「武隈の 松はこのたび 跡もなし 千歳を経てや 我は来つらん」と歌っています。

昔、陸奥の守に任命されて陸奥に下った人がこの木を伐って名取川の橋杭にしてしまい、能因法師が再度のみちのくの旅で「松はこのたび跡もなし」と詠んでいる。

代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形ととのいて、めでたき松の気色になんはべりし。

長年伐ったりあるいは植え継してここに何百年も経った松の木が端麗な形でみごとな景色です。

武隈の松見せ申せおそ桜

と、挙白といふ者の餞別したりければ

  桜より 松は二木を 三月越

 

今日はいろいろ愕然とすることがあって気持ちが動揺しています。

そこで芭蕉一行のしゃれた会話も思いつきません。あしからず。

また次回。

 

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奥の細道旅行譚(笠島)

2017年08月04日 | 旅行

さて4月には桜の白石城、大河原町の一目千本桜など花を堪能しました。

今回はさらに東北線を下って岩沼駅(武隈の松)、名取駅(笠島)そして仙台へと行く計画でした。

ただし芭蕉一行は先に笠島に立ち寄りその後武隈の松に行っています。

そこで仙台まで新幹線で行き、在来線に乗り換えてまず名取駅で下車しました。

名取駅で西口を見ると駅前にサッポロビール仙台工場があるだけであとは何もない感じです。

反対側に出ましたが写真のように人もいません。(わざと誰もいないところを撮ったわけでもありません)

どこの地方都市にも似た広くてきれいな舗道が整備されているのに食事する場所もありません。

10分ぐらい歩いて仙台バイパスの交差点にでると左側の遠くにかっぱ寿司の看板が見えました。

お腹が空いていたので入ってみました。友人が最近かっぱ寿司も美味しくなったと言ってましたが確かにそのようでした。

しかし仙台まで来てかっぱ寿司が美味しくなったのを感じてもどんなものでしょうか。

まずは籐中将実方の墓に行ってみました。

この奥に墓があります。

朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおき 枯れ野の薄 形見とぞ見る

(すっかり荒れ果てて実方の名前だけが残っている。このススキは実方の形見のようだ)

西行法師

それにしてもちょっとなんだかなという光景です。これだけ見るのに新幹線に乗ってきたのだったら金返せ!と叫びたくなります。

芭蕉の俳句の碑がありました。

芭蕉は歌人藤原実方に思慕の情を抱いて、また西行法師が詠んだススキを見たかったのでしょう。

暗い森の中を歩いて行きます。蚊が沢山寄ってきて落ち着いて写真も撮っていられません。露出不足。

結局芭蕉はここには寄りませんでした。「雨で道が悪く疲れていた」と無念さが書かれています。

曾良の旅日記には「三ノ輪(蓑)、笠島と村並びて有由(あるよし)、行き過ぎて不見(みず)」とそっけない。

立派な解説板がありました。

やっとたどり着きました。藤原実方の墓です。

当たりは竹林で森閑としていました。僅かばかりの土を盛り、四方を木の作で囲ってありました。

平安時代の実力者、プレイボーイの墓です。

更には道祖神社に行ってみました。

藤原実方がこの神社の前を通った時に村人が下馬しろと言ったのにそのまま通り神の怒りをかって落馬して亡くなったそうです。

傲慢な人にありがちな行為ですね。

道祖神というから小さいのかと思っていましたがなかなか広大な敷地です。

もっともご隠居のような物好きな旅行者はこの日は誰もいなくて静かでした。

静かなたたずまいの本殿です。

でも怒らせたら怖い神様なんだなと思い奮発してお賽銭を100円入れました。

馬に乗って旅行しているわけではありませんが交通事故なんかに遭わないようにお願いしました。

 

笠島

鐙摺、白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば、籐中将実方の墓は行づくのほどならんと、人にとへば

「これより遥か右に見ゆる山際の里を、みのわ、・笠島と云ひ、道祖神の社、かたみの薄、今にあり」と教ゆ。

この頃の五月雨に道いとあやしく、見疲れ侍れば、よそながら眺めやりて過るに、箕輪・笠島も五月雨の折りにふれたりと

(日頃の五月雨で道が極度に悪く、体も疲れていたので、遠くから眺めてとおりすぎた。箕輪、笠島のちめいは蓑、笠と今日の雨に良く合っている。)

笠島は いづこ五月の ぬかり道

籐中将の墓や道祖神はどのあたりだろうか。五月雨でぬかるみを行くのも大変で悔しい。

 

「曾良さんよ。雨は降っていて道は悪いし体調も良くない。まいったねぇ」

「翁、省略して先に進みますか」

「君の旅日記にくだらない真相を書かないでおくれ」

「竹林を抜けて籐中将の墓の前で涙したとか、ねつ造記事を書かないでくださいよ」

「馬鹿だねぇ。実物を見なくても読者が自由に実方に思いを馳せられるように書くのが大作家というものですよ」

「そうですか。たんなる疲れて山奥まで行くの面倒くさくなったんじゃないんですか」

「うるさい!」

「藤原実方は名門の出で出世コースを歩み美男子、歌がうまい。宮中では女性がほおっておかなかったでしょうね」

「たしかに清少納言や源満仲女など20人以上の女性と関係を持ったとフォーカスされていますね」

「曾良さん羨ましいでしょう。世の脚光も浴びないままそんな汚い爺さんになってしまって」

「なんの、あたしぁ俳句一途の人生です。色恋など俗世界の事です」

「そのわりには俳句もうまくならないねぇ」

「チガウダローーーー。このハゲ。とか師匠さまにいってはいけないですよね。お言葉ですがあたしなりに勉強しているんですけど」

「しかし最近江戸表の方でも記者会見中に激高した若年寄がいると聞いたよ」

「最近我慢できない人が多いのでしょうか」

「ピッカピカの出世街道を歩いていた藤中将が陸奥の守になって東北になんかに何故左遷させられたか知っていますか」

「やっぱりねたみなんかじゃないですか」

「激高です。ある時、殿上人が東山でお花見をしていたら突然雨が降って来ました。

みんな雨宿りをしたのに実方だけが桜の下で雨に濡れたまま風流に歌を詠んでいました」

「かっこつけますねぇ」

「でしょう。そこで能書家の藤原行成という人が(歌は面白いけど馬鹿じゃないの)と言ったのを実方が聞き激怒して行成の冠をつかんで落し庭に投げ捨てました」

「ほいほい」

「合いの手がいいねぇ。行政は侮辱を受けたにもかかわらず宮中の役人を呼んで冠を拾わせ頭にかぶった。

そした(これはこれは、ご乱暴な。どうしてこのようなひどいことをするのかご意見を聞かせてください)と穏やかに言いました。

実方は瞬間湯沸かし器的行動を恥じたか?逃げてしまいました」

「はぁ。どうした。どうした」

「陰で見ていた一条天皇は行政の冷静沈着な行動をたたえ、いっぽう実方の軽率さを不快に思い左遷させたという説があります」

「そしてみんなの忠告を聞けばいいのに道祖神の前を下馬しないで通って神様の怒りをかって死んだんですね」

「最後まで鼻っぱしの強い男だったんですね」

 

道祖神なんか関係ないなどと強がり言わないで世間の人の言うことに素直に耳を傾けた方が長生きできそうですね。

 

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鎌倉界隈(鎌倉文学館)

2017年07月22日 | 旅行

御霊神社を出て長谷駅の踏切を渡ります。

前回はここから長谷寺、大仏方面に歩きましたがこの日も外国人観光客、日本人とすごい人でまずのんびり食事などできた感じではありません。

今回は長谷通りから右折して由比ヶ浜大通りへと足を進めます。

鎌倉文学館にはこのトンネルを抜けていきます。

入場券を買いましょう。

加賀藩主前田侯爵家の別荘だった所です。

かつては佐藤栄作首相が週末別荘に使用したり、、現在は鎌倉ゆかりの文学者の資料を展示してありました。

庭園では春と秋はバラが綺麗だとガイドに書いてありますがまだ結構咲いていました。

玄関です。

ここから先、室内は撮影禁止となっています。

ベランダから芝生越しに見える相模湾は素晴らしく一見の価値はあります。

中では「漱石からの手紙展」が開催されていました。

やっぱり作家は書くことには惜しみないという感じです。

もらったほうも何年か経って有名な作家にでもなっていたら嬉しいでしょうね。

ご隠居も若い頃は惜しみなくラブレターなどを書いていましたが単なるくそ爺さんで終わってしまいそうなので何の価値のない手紙となってしまいました。

もっともご隠居のしょうもない手紙など、もらったらすぐに破って捨てられていたかもしれません。

 

さて長谷駅からやっとの思いで江ノ電に乗って鎌倉駅に着きました。

3時も過ぎているというのに藤沢行きの江ノ電に乗車する人たちは入場制限をしていてホームに辿り着くには40分もかかるそうです。

時間がまだ早いのでもう少し歩いてみました。

若宮大路を横切り鎌倉郵便局を左折すると本覚寺です。

シダレザクラ、サルスベリ、などが美しいお寺だそうです。この時はちょっと淋しいかんじでした。

更に行くと妙本寺です。

総門

日蓮宗、本山 比企谷(ひきがやつ) 妙本寺

鎌倉駅から10分も歩くとこんなに緑が鮮やかになります。

比企谷というだけあって谷間の間に沿って建立されたのでしょう。

二天門

緑が本当に美しい。

祖師堂

大きな瓦屋根が印象的ですね。

カイドウやノウゼンカズラが咲く季節が素晴らしいと言われています。

鎌倉駅から近いので混雑している小町通りでソフトクリームなめている時間があったらちょっと寄り道してみては如何でしょうか?

今回の「鎌倉界隈」はこのへんで・・・次回は秋に由比ヶ浜方面を歩いてみたいと思います。

そうそう江の島もまだ紹介していませんね。水族館が素晴らしくなったそうで行ってみたいですね。

 

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鎌倉界隈(御霊神社)

2017年07月18日 | 旅行

星の井通りをさらに行くと石柱がありました。ここを左折します。

「五霊社鎌倉権五郎景政」(ごりょうしゃかまくらげんごろうかげまさ)と刻まれています。

五霊は御霊のことで死霊をさすとか。

角に力餅家さんがあります。

元禄年間には社前の茶屋だった老舗和菓子店。鎌倉権五郎の怪力にあやかった臼でついた餅と甘さ控えめのこし餡の力餅です。

司馬遼太郎さんは

「石柱のそばに角店(かどみせ)があり、古風なガラス障子が鎌倉の気分と適(あ)っている。看板を見ると、夫婦饅頭の本舗とある」と書いています。

細い道を森を目指して歩いて行くと江ノ電の踏切があります。有名な撮影スポットです。

極楽寺1号踏切または権五郎踏切で寺の境内を横切るように電車が走っています。

踏切を渡ると鳥居と本殿が見えてきます。紫陽花が綺麗なお寺です。

景政は源頼朝の祖である八幡太郎義家の活動した時代の(頼朝より50年ぐらい前)人で父景成が鎌倉権守(ごんのかみ)という呼称だったので権五郎景政といわれた。

八幡太郎義家が奥州の清原氏を討つための遠征に16歳で出陣。いとこの三浦為継と一緒だった。

清原方の矢が権五郎の右目を打ち抜いた。しかしそれを抜こうともせず、相手を打ち返して倒し、更に戦って本陣に引き返した。

為継が矢を引き抜いてやるべく、景政の顔の片方に土足をのせ、矢柄をつかみ、踏んばろうとすると、下の影政がにわかに刀を抜き、下から為継を突こうとした。

景政は怒って「面(つら)を踏むな」と怒鳴った。

「矢にあたって死ぬるは武士の本懐だが、面を土足にかけられるのは、あってよいことか。今こそは汝がこそが敵だ」

為継はあやまり影政のそばに膝をつき、片膝をもって権五郎の片頬をおさえて、やっと矢を引き抜いた。

その間、影政は声も上げなかった。

乱暴な話ですがこの時代の武士の心意気みたいなものを感じます。

宇治川の先陣がだれだったとか、屋島のくだりで扇の的を射ぬいたのが那須与一とか、その一つにすべてをかけて神社になったのです。

景政の子孫がみんなが嫌いな梶原景時です。義経の事を諫言して偉くなりましたが最後は滅亡します。

頼朝と共に政権の表舞台に立った比企一族も三浦一族もみんな滅ぼされて内輪の戦略にすぐれていた北条一族が残ったのです。

いつの時代も権力を取るには大変です。もっとも安倍総理が権力の座から滑り落ちても昭恵夫人の焼き鳥屋でも手伝えばいいので昔より楽ですね。

景政公 弓立の松

景政が領地を見回る時に弓をたてかけたという松の古木。

さてまた踏切に戻りました。

沿線は紫陽花が綺麗です。

反対側が人気スポットです。

極楽寺のトンネルから飛び出してくる江ノ電と紫陽花を一緒にカメラに収められる場所です。

一斉にシャッターの音が聞こえます。上の写真の大きさにすると右側が切れてしまいますので一回り小さくしました。

 

美しい森の中に小ぶりの建物の神社ですがとても清らかに見えます。

背後も森、参道の木々、タブの木の枝がかしこに延びています。

そして江ノ電の轟音。鎌倉って楽しいですね。

 

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鎌倉界隈(成就院)

2017年07月13日 | 旅行

毎日滅茶苦茶暑いのですがどうなっているのでしょう。

皆様は体調など崩さず生活していることと思います。頑張りましょう。

さて続きです。

極楽寺から極楽寺トンネルの上に出て極楽寺坂切り通し、そして星の井通りへと歩いてみました。

すぐに成就院(じょうじゅいん)の西結界の山門が見えます。

門の入り口にトイレはないから駅で済ませてこいと書いてあります。

入場無料だからしょうがないかな。

108段の階段の向こう側に由比ヶ浜の弓なりになった海岸線が見える絶景です。

昔はこの階段の両側に沿って紫陽花が植えられていた名所でした。般若心経の文字数と同じ262株だったそうです。

が階段を修理した時に植え替えたみたいでまだ小さな紫陽花が植えてありました。(27年から29年まで改修工事)

ちょっと残念です。

ハスの花も朝来れば綺麗でしょうね。

成就院は鎌倉幕府、三代執権北条泰時が創設しました。

本尊は「縁結び不動明王」です。男女の縁ばかりでなく仕事の縁などにもご利益があるそうです。

さて成就院を出て星の井通りを長谷寺の方に向かいます。

パン屋さんに行列が出来ています。

TVでもよく紹介されている Bredo Code (ブレッドコード)です。

星の井食パン一斤680円は飛ぶように売れているみたいですね。

通販はないので直接店に来てみないと食べられません。

左手に虚空薩堂がありました。

日本中どこにでも話に出てくる行基がこの地の井戸に三つの明星が輝いているのを発見しました。

井戸の水をくみ出すと黒く輝く石があり、虚空菩薩が石になって降りてきたと思い像を彫って祀ったそうです。

突然ですが・・・

さて鎌倉と言えば(北鎌倉ですが)ビブリア古書堂の栞子さんを思い出します。漫画というか小説の話ですが。

2011年の発売から600万部の累計発行部数です。この2月に第七巻が発売されて完結しました。

実在する古書、またはその可能性のある本の解説も面白かった。

七巻では古書店主の栞子さんと大輔君の恋も実りました。

最終回はシェークスピアの希少本の話で少し難しかったがハッピエンドでまずまずかな。

 

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