さて象潟ではやっぱり行ってみたい蚶満寺(かんまんじ)です。
羽越線の踏切を渡るとすぐです。まずは山門の方から行ってみましょう。
「羽海法窟」の扁額がかかっています。
日本らしい姿です。
伝説の西施の姿でしょうか?お寺の案内書には何も書いていません。
平成2年8月1日象潟町日中友好協会の碑という説名文がありました。
しかし美女と言うのはすごいですね。遠くの中国の話でも話題になります。
旅姿の松尾芭蕉像。あっちこっちで沢山芭蕉の像を見ました。
奥の細道300年松尾芭蕉翁建立趣旨書の銅板がはめ込んでありました。
蚶満寺七不思議のひとつ、寒中雪の中で開花する。
芭蕉の木がありました。立派です。
北条時頼公のツツジ。
蚶満寺には芭蕉の象潟三詠懐紙の忠実な写し一軸が伝存するそうです。
本堂です。
ご本尊は釈迦牟尼仏です。
本堂裏手の小高い場所には芭蕉句碑がありました。
「象潟の雨や」「西施がねぶの花」初案があります。
象潟の合歓の花は7月25日前後に開花するようです。
「象潟島」刻した小さな標柱、船着き場の跡と船つなぎ石、その奥には西行法師歌桜跡などがあります。
ここも島だったのですね。
さて蚶満寺をあとにして駅の方に戻りましょう。
蚶満寺から南500mぐらいの場所です。
能因(平安時代中期の歌人)という人が3年間幽居されていたそうです。頂上には「能因島」の標柱があるそうですが省略です。
西行法師が「象潟の 桜はなみに 埋もれて 花の上こぐ 蜑(あま)のつり船」と詠んでいます。もちろん芭蕉も訪れています。
せっかくここまで来たので日本海をちょっと覗きましょう。
ご隠居の住む検見川浜も夕日の美しい町ですがここは日本海に面していて素晴らしい夕陽でしょうか。
遠くに象潟漁港が見えます。漁港がすぐなので夕飯は海の幸が一杯。特に夏の巨大な岩ガキが名物です。
ご隠居は生ガキは苦手なので遠慮しました。フライは好きです。
日本海の夏もそろそろ終わりでしょうか。
さて芭蕉はこの後北上して秋田、津軽まで行きたかったらしい。江戸の杉風(さんぷう)に出した手紙でもわかります。
ただ曾良は幕府の隠密でこれより北の調査は意味がなかった。それより村上や新潟、直江津の港の方(北前船の航路)の機密事項を探りたかったようです。
そんなわけで芭蕉はふてくされてここから日本海を飛ぶがごとく駆け抜けて岐阜ま帰ってってしまいます。
ここからはいつものようにご隠居がかってに行く「僕の細道旅行譚」です。もう少し北に向かいます。
象潟
江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責。
(これまで山水海陸の美景を見てきたがいまや象潟に対して詩心を悩ます次第となった。)
酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみて其の際十里、
日影ややかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山にかくる。
闇中に模索して「雨もまた奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と蜑の苫屋に膝を入れて、雨の晴れを待つ。
象潟に船をうかぶ。
其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に象潟に船をうかぶ。
(天気はからりと晴れて)
先能因島に船をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」と詠まれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
(真っ先に能因島に舟をこぎ寄せ能因法師が3年間隠棲した遺跡を訪ねた。)
江上に御陵をあり。神功皇宮の御墓と云。
寺を干満珠寺と云。此所に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。
(ここに皇后が行幸されたことはまだ聞いたことはない。どういういわれがあるのだろうか。)
此寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼のなかに尽き、南に鳥海、天をささえ、その陰うつり江あり。
西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて、浪討ち入る所を汐こしと云。
(海を北にひかえて外海の波が潟にうち入る所を汐越えとよんでいる)
江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。
(入江の縦横は各一里ばかり、そのおもざしは松島に似ていてまた違ったところがある)
松島は笑ふが如句、象潟はうらむがごとし。
寂しさに悲しみくわえて地勢魂をなやますに似たり。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
象潟に雨が降りしきるねぶに花が咲いている。それは古代中国の美女、西施の憂いある面影にも似ている