さて左義長のお祭りは夜だったので昼間大磯の町を散策しました。
江戸時代の東海道では大磯宿は日本橋から8番目の宿場町となっています。
1号線の一部には松並木が残っていて江戸時代の旅人を想像させられます。
先を急ぐ車は海岸沿いの西湘バイパスを行くのでのんびりした感じがします。
三つの本陣があったそうですが今は記念碑だけになっています。一里塚、見付け、火除土手、高札場など旧街道の雰囲気が感じられます。
大磯駅の隣にある観光案内所に行くと街歩きのパンフレットがもらえます。
最近日本のちょっとした観光地では観光案内所がありパンフレットもいろいろ揃えてあります。
ネットであらかじめ調べておいても現地のこういった場所に立ち寄って案内所の人と話をするのもいいと思います。みんな親切です。
それでは町を歩いてみましょう。
まずは島崎藤村旧宅。藤村といえば木曽とか小諸とかではおなじみですが何故かこの地にもありました。
藤村は左義長に心を動かされ、日ごろ敬慕する西行法師の面影を伝える場所もあり数々の好条件に引きつけられて大磯に移り住みました。
71歳で永眠するまでの2年余りを温暖な地大磯で過ごしました。
藤村の墓は近くの地福寺にあります。
女性関係では好き勝手、自分の姪にまで手を出してやりたい放題でしたが最後はこじんまりとした場所で過ごしたのですね。
鴫立庵(しぎたつあん)にやって来ました。
西行法師の歌で名高い鴫立庵に寛文4年、小田原の崇雪が草庵を結んだのが始まりです。
京都の落柿舎、滋賀の無名庵ととも日本三大俳諧道場といわれています。
それにしても三大なんとかというのは多いですね。
西行の歌
こころなき身にもあわれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ
西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して名歌を残したといわれています。
さらに奥に進むと円位堂があります。
堂内には等身大の西行法師の坐像が安置され、毎年3月末の日曜日には西行祭がこの堂の前で盛大に行われます。
小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)
湘南発祥の地の碑
小田原の崇雪が西行法師の歌にちなんで「鴫立庵」の墓標を立て裏に
「著盡湘南 清絶地」と刻みました。
清らかですがすがしくこの上もない所 湘南とはなんと素晴らしいところでしょう
井上蒲鉾店
明治時代から文人や政治家に愛されたはんぺん、かまぼこ、さつまあげは大磯のお土産の定番です。
新島襄、終焉の地
NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放送されていた頃は誰もが知っていた新島襄です。
しばらくたってみるとみんな忘れていて大磯で亡くなったなんてドラマでやったかなという感じです。
ここでも出ました三大・・・
大隈重信、福沢諭吉とともに明治の三大教育家、新島襄です。
旅の途中、大磯の旅館百足屋の一室で47歳の生涯を閉じたそうです。この碑は徳富蘇峰の筆によりかつての百足屋の玄関の一部だった場所にたっています。
ご隠居は新島襄なんかよりずぅ~と長く生きているのになんの業績もありません。ぐすん。
東光院
東光院の薬師如来様に御祈祷してもらった左義長の木札をいただきました。
照ヶ崎海岸(日本の渚百選)
アオバトが丹沢山系からこの海岸に5月初旬から10月頃まで飛来します。
アオバトの食物(果実)にはナトリウムが含まれていないので果実から栄養分や水分をを体内に吸収するために海水吸飲を行っているのではないかと言われています。
アオバト
全長33cmの中型ハトで全体が緑色の美しい羽根色です。頭から胸にかけては黄味色が強く、胸部は白っぽい色です。
「大磯照ヶ崎のアオバト集団飛来地」として神奈川県の天然記念物になっています。堤防上に「展望スペース」があります。
大磯漁港にやって来ました。
この先が大磯海水浴場で左義長の行われる場所です。だいぶ陽も落ちてきてお祭りが近づきました。
漁港というのは朝早く漁から帰ってきた船で賑わっているころじゃないと面白くも可笑しくもありませんね。
忘れましたが明治18年に我国初めての海水浴場として大磯照ケ崎海岸に開設されました。
初代軍医総監松本順の尽力によるものです。
また大磯は吉田茂邸、伊藤博文邸など政界財界等各界の名士の邸宅が150戸にも及んだこともある由緒正しい町です。
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