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会話 人付き合い 人生 老後 大工 田舎暮らし 自分を捨てる
健康 運動 趣味 管理 物忘れ防止 水彩画 異文化体験 村上原基
●努力して真剣に生きているが、どうやっても上手く行かない人はお越し下さい
滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会 kazutakajiのtwilog 地図
「やれ」といってもやらない「やめろ」と言ってもやめない、だから変わらない
世の中が便利で豊かで自由で安全安心になっていると思うのは大きな錯覚だ
平和必しも平和ならず、健康必しも健康ならず、豊必しも豊ならず
*****************************
テーマ:東京⇒大阪⇒京都⇒滋賀に移り住み滋賀湖西地方の地味さについて
地味=堅実・安全ということ
派手=不安定・危険
東京⇒大阪⇒京都⇒ 滋賀(田舎)と移り住んできたが、同様な人をあまり知らない
前3つのこれらの大都会で共通することは
・派手好み
・見栄張り
・意外と貧乏人が多い
・恰好つけ
・自慢する
・流行追い
・競いあう
・他人意識
・着飾る
・都会賛美
本質をあまり考えたがらない、大事なのは上べ、楽しきゃいいさみたいな感覚
むしろ本質に触れたがらない、本質なんて考えるのは面倒くさい
このような感覚は戦後の経済成長期には当たり前だったが、成熟した社会では
「大きなことは良い・多い事は良い的」な考え方は、今や不快感があるし、
もうそんな安っぽい、環境に悪い、画一的な時代は終わったと私は思っている
日本は平和・繁栄の真っただ中、確実に都会は危機的な状況に突入している
日本は、贅沢な暮らしや奢りを当然のようにやっている基本的過ちを自覚すべきだ
78歳の私は、都会の単純な贅沢や便利さは全く関心も興味も価値も感じない
今更、東京にも帰りたくもないし、大阪も京都も帰りたくもない
都会とは、艶やかなものだと思うが、すでに私にはどうでもよい事で
見かけの格好良さや豊かさには、最早うんざりしている,吐き戻しそうだ
美味しい贅沢な食事をさんざ食べ続けて、もう沢山という感じと似ている
そんなことは憧れているうちのことで、憧れなんか、いつか簡単に壊れる
せめて老後は、もっと静かで落ち着いた、自分自身の人生をゆったり送りたい
道路が縦横に走り、その脇にびっしり高いビルがへばりつく町は居たたまれない
歴史と言えば恰好良いが、社会のしくみ・風習・伝統・思想・信条・規則・習慣など
人をガンジガラメに束縛・拘束するものが何とも多い
都会は、あまりに束縛や拘束が大きく、楽しくも快適でもないというのが私の見解
企業に例えると都会は大企業、田舎は中小企業
私の経験では大企業より中小企業やベンチャーのほうが正直言って楽しいし奥が深い
都会は魅惑的だがストレスや害も多く、ある意味糖尿病に似ている
患者にとっては、糖質は魅力的である一方抱えるリスクは大きく、命取りにもなる
自動車危ない・人もかなり危ない・雑音だらけ・空気は化学物質で一杯・犯罪多発
災害にも弱い・金かかる・インフラ老朽化・災害や緊急事態に脆弱・・・・・
都会は安全快適な場所どころではない。危険一杯なのだ
新型コロナウイルス蔓延は都会の脆さを図らずも浮き出させてしまった
都会と田舎の地位や立場は、あっさり逆転してしまった
私の住む田舎では新型コロナウイルス蔓延による混乱や危機感はなかった
田舎は限界集落呼ばわりされるが、コロナ下では都会は長期ステイ ホーム、
まさに都会が限界になったわけなのだ、田舎は現実に自由で安全安心だった
最近も関東でかなり大きな地震が起きた、これ迄の大地震では東京は危うく
セーフだったが、もし東京直下型地震が起きたら東京はどうなるのだろか?
また東京で巨大台風や集中豪雨や大停電や大断水が起きたらどうなるのだろうか?
考えただけでもぞーとしませんか?
私だったら、心配で夜眠れません
滋賀県特に湖西地方は関西でも人気なく、全国的にも有名ではない
かろうじて京都の隣であるとか、琵琶湖のあるレジャー県として知れているだけ
特に私の住む湖西地方はほとんど畑と森で高層ビルはおろか目立つ箱物はない
よく言えば自然が豊か、悪く言えば、スゲー田舎だが、私は安曇川をチョイスした
最近の私は、可能な範囲で質素で地味な田舎町が良いと考えるようになった
都会では、そうしたくても、そうはいかない
55歳、ある日全く偶然に安曇川を訪れたが、安曇川というのは京都の人にも
ほとんど知られていない土地なのだ
そして55歳のその日に地元の不動産屋さんを訪問し、一服した時に店の人曰く
「ここ安曇川は何もありません、それが素晴らしいんです」だって
最初は「何を馬鹿なこと言ってんだ」と思ったがその後安曇川に住むにつれ
この言葉の意味がやっと分かり始めてきた
田舎は、景色が良いとか魚が上手いとか遊べるとか歴史を感じるとか・・・
そんなこととは無関係で、何もない、ただ自然だけの町が安曇川だ
「何もない」それが基本なのだが都会は逆に「あまりに何でもある」
都会の何でもあることが人間にとって人格形成に邪魔になるのだ
私が若い頃は、大人しい子であった。物静かで自己主張も少なく優しい子供だった
田舎もそういう感じがする、格別何も与えてくれないがつらさを押し付けることもない
静寂・自然・清潔・自由・ゆったり・のどか・優しい・・・
それ迄の私はコテコテの都会人、珍しいもの、形あるものを何でも欲しがるタイプ
田舎の自然だけで何もない場所で悠然と暮らせるような人間ではなかった
そうは言うものの、私の心の奥底に自然豊な場所を好む心が潜んでいたようだ
山に暮らし10年もすると山がこよなく好きになって、抜け出せなくなって来た
都会との決別・過去との決別・人との決別そして自由に戻り、自分を再構築する
最近は都会のもの、派手なもの、人間付き合い的なもの、やたら新しいものが
嫌いだ、都会の人が楽しい・嬉しいことがほぼ皆、強い嫌悪感を感じてしまう
「くだらん」「バカバカしい」「どうでもいい」「子供じみている」「安っぽい」「悲しい」
真っ黒な自分から、まずとりあえず真っ白な自分へ
汚れた古材にカンナをかけて真っ白な木肌を出す
真っ白でもないのに完全真っ白のような顔をする、そういう人は矛盾だらけ
真っ黒ならば、とりあえずそれを認めて一から出直すことが正しいはずだが?
都会の暮らしは嘘誤魔化しだらけ、その嘘誤魔化しから抜け出ることから始まる
過去の自分の解放である
都会は、よく言えば、便利で快適で豊に見えるが、真実は、煩い・汚い・狭苦しい・
貧しい・人ごみ・派手好みだ、田舎で得られる大事なものを犠牲にしている
自然はない、せいぜい作り物の自然、あるのは構造物と人人人と音音音と物物物
華々しい見かけ、上辺を追いかけているとまさに麻薬患者同様に本質からどんどん
遠ざかってしまう
都会暮らしにはまればはまるほど原基から離れて行く
見かけが華々しい町で暮らし続けると見かけを装うのに必死な人間になって行く
私の経験でも大企業で働くと大企業ぽい人間に、小企業で働くと小企業ポイ人間に
なっていく。どちらもある意味危険なのである。余りに染まり過ぎないほうがよい
そこで私はほぼ10年くらいで会社を転職して来たのだ、住まいも同様にして来た
change 子供は子供のままということはありえない、誰も大人になって行く
長い人生だ、より本質的なものに近づき、自分を大きく変革していかないといけない
私の経験では、大袈裟だが、都会と山中を比べると地獄と天国の感がする
でも都会の人々は全くそんなことは思わないし、今回も新型コロナウイルスから
逃げることが目的で田舎暮らしを選ぶ人が出てきたが、単なる都会暮らしの延長
というような安易で単純な考えの人が気になる
55歳まで都会暮らしが長かった私、そこであれこれ悩み続け、自分を見い出せず
一体私は誰なのか分からずに長くもがき苦しみ続けてきた
都会では真実で生きようとするのに、周囲は嘘誤魔化しで溢れており、矛盾が生じる
自分に目を向けず、会社の仕事に追われ、金儲けや更なる欲望追及に必死で
都会の派手さ・便利さに心も目も奪われ誤魔化しの暮らしを続けて来た
そういうのが都会の実態だ、苦しみ悩みにどっぷり浸かる場所なのだ
そして苦しみ悩みの原因が都会暮らしそのものにある可能性は大きい
無理があり、無駄が生じ、ムラな生き方になってしまう
それが55歳からの20年にわたる山暮らし開始で大きく変わり始めた
山の暮らしは、もっぱら家事、山の整備・清掃、家の造作・野菜つくり、山遊びだ
人との付き合いや社会や都会で貯まった固定観念は自分の意識の外に出てしまった
まさに断捨離のように、背中の荷物が僅かづつ軽くなっていくように感じ出した
出家という言葉があるが、幸運にも私は都会暮らしから出家が始まったようだ
都会にあるのは音に例えるとあまりに大きく・多すぎる騒音・雑念・雑物の町だ
それが滋賀県の湖西地方に突如来て、ログハウスでの20年の山暮らしによって
環境が格段に静かになり、あらゆる雑音から解放された自由の身になった
生まれてずーっと都会に住み続けて、そんな暮らしがあるべき姿と思ったら大間違い
世の中都会が住むべき最善の場所ではない、無限にいろいろな場所があることを
忘れないようにしないといけない
その点東京⇒大阪⇒京都⇒滋賀と移り住んできたことを良かったと思っている
「東京東京」「大阪大阪」「京都京都」そんなもの煩い、勝手に言ってろ
今の私には、都会は住むべきでない最たる場所に過ぎない
都会都会と都会礼賛したり、住み易い町全国何位なんて実に嘘くさい
都会にどっぷりはまっていると、それが当たり前になり、分からなくなってしまう
私に言わせればどこも一番で、東京や大阪京都はむしろ下位のランクだと思う
それぞれの場所には、それぞれ違った良さがある
それを都会人の一律な尺度で都会的な場所が良いと怪しげな番付が
出来てしまう。大体、ランキングなどというものを信じないほうがよい
豊かさや便利さの過剰な追求=人間の堕落⇒崩壊になる危険が大きいのだ
できれば皆さまに、気ままに、好き勝手に全国各地にバラバラに住んで欲しい
住む場所により全てが変わる、全く新しい暮らしが始まり、やっと自分を発見する
そういう変化の中で人生を渡って行く、まるで外国周りの船乗りのように
都会人・西欧人・大企業人は自分達が一番偉いと間違った確信を持ち過ぎる
「いい加減にしてほしい」「何が都会人だ」「何が西欧人だ」「偉そうに言うな」
中華思想のような、そんな傾向は案外誰にもあるのだが、良いことではない
都会のように異常に多くの人が集まる所に敢えて住むのが最高とは私は思わない
人が少ない場所にゆったり自分にきちんと向きあい自由に住むことこそ、
生きる値打ちがあると言うものだ
ゆったり住む人々の暮らしぶりは覗いてみたいが、狭苦しい都会で住む人は、
全く関心も興味もないし、密で狭い息苦しい空間に住みたいとは思わない
様々な束縛・拘束の中で不自由な暮らしをして一生過ごす事の悲しさを思いやる
現在の私である。「ほんの少しの勇気を持って下さい」ですかね
田舎暮らしのやり方や大事なポイントは私のような経験者に是非相談して下さい
「田舎暮らしだ、エイヤー」とやるとほぼ失敗する、誰でも上手く行くとは限らない
田舎暮らしを通じて、人生最後のご褒美を手にして欲しいものです
私も55歳までは苦しみ悩みが一杯の半生でしたが、今はご褒美の暮らしを
楽しんでいます
今は田舎の地価も中古住宅もビックリするくらい安いですから・・・「今です」
「私はお金がないし仕事と友人が大事で田舎には引っ越せない」なんて人が
多いが、全くそんなことはない、単なる言い訳に過ぎない
ところで私が最終住むと決めた「世間が言う:つまらん田舎町安曇川」であるが、
都会に比べ、とにかく地味なことは確かだ、ここに来て派手な暮らしはやめて欲しい
地味というと何かマイナスイメージだが、今の私はむしろ大きなプラスと感じている
※但し:地元の人に敢えて言われた「安曇川の人は地味に見えてかなりの金持ちだ」と
都会 に対して ここは
・派手好み に対して 地味
・見栄張り に対して 地のまま
・意外と貧乏 に対して 意外と金持ち
・恰好つけ に対して 格好つけない
・流行追い に対して 流行は感心ない
・競いあう に対して 負ける
・贅沢 に対して 質素
・他人意識 に対して 他人無視
・着飾る に対して 普段着
無論これは元々の地元の人の感じだが
そこによそ者として入り込んだ私達県外者特に元都会人は
・元都会人のままの人:派手な生き方(30%)
・中間的な人、都会と田舎が混在する人:派手な生き方は減る(65%)
・田舎にかなり染まってしまう人:派手な生き方を捨てる(5%)
私は今や堂々とケチ・節約・地味を標榜しているし、自慢している
そして派手な贅沢な無駄な人を100%軽蔑している、人として最低だ
地味に謙虚に倹約に暮らせば、当然、悩み苦しみは少なくなる
「意味のない便利で派手な生き方や暮らしよさらば」である
そうすれば無用な悩み苦しみはかなり減って活き活きした暮らしが戻って来る
そうして地味な田舎暮らしを選び
私は最初18年は山暮らしその後5年は田中という田舎町で地味に暮らして来た
でも田舎嫌いな都会人は地味な生き方が大の苦手であり、苦しみの元になる
地味=自分を無にする、自分を捨てることに結びついていくのだろうか
山暮らし以前も24年東京、5年大阪、25年京都、そして23年滋賀
そういう違う場所に暮らしたことは例えば東京だけに住み続けて来た人の
何倍も真逆な経験をし様々な感覚を身につけてきたことになる
同様に同じ会社に定年まで勤めて来た人より私のように5社に勤めた人の
ほうが何倍もいろいろの経験やいろいろな感覚を身につけてきたことになる
何事も5~10年毎に変えて行く事が人生にとって役立ち、人格磨きにつながる
住いや会社だけでなく、結婚も5回離婚・結婚したほうがよいかもしれない??
一般的に一回目の結婚はほぼ失敗だと思っているが、法律で縛られて
勝手なことが出来ないだけなのだが、友達を変えるのは出来るかもしれない
ここ23年間、他人や自分に縛らずに生きて来たが、
ある意味、人付き合い下手が役だったのかもしれない
基本原点に帰るお手軽な方法
・手っ取り早くやろうとすれば、 見かけの進歩とか発展に安易に乗らない
・更に手っ取り早く言えば、 社会の在り方に逆らう、逆のことをやる
・もっと手っ取り早く言えば、 昔に戻る
そういうことだ
だが
そういうことがすんなり出来る人は極めて少ない
私がお勧めの”すぐにやること”は
足るを知るを愚直なまでに続ける
①都会を去る
②田舎や山奥に住む
③四輪車を止める
④肉・油・炭水化物・酒を減らす
⑤規則正しく暮らす
⑥自然に多く交わる
⑦災害やリスクの多い地域から離れる
⑧世の中の流行に乗らない
⑨地味・質素に暮らす
⑩無駄をしない
⑪作業をし身体全体を使う
⑫過剰に人間関係に振り回されない
まあ本来の自分を取り戻すために、こんなことさえも出来ない人が多いのだが
そういう生き方を正しい・美しいと感じることだ、そもそも、それが第一歩だ
もし感じないとしたら、一歩を踏み出すことさえ永遠に出来ないだろう
国家や県に提案「全国各地に人が引っ越す策をもっと考えて欲しい」
国や県が何もしてくれないで、”とにかく田舎に移れ”は無理な話だ
田舎をABCにクラス分けしクラス毎に、国税は、国民健康保険料、固定資産税
を無料または安くして田舎暮らしに都会の人を誘導することを推奨する
田舎の町内の主要道路を整備したり店や役所や病院を一か所に集約すること
その上で、無人バスも運行させる
田舎でしか出来ないことや田舎の欠陥を改善するために予算を使うことだ
また田舎の広い敷地を利用し釣りやあらゆる運動やサイクリングが快適に
無料で出来るなどの楽しい施設も作り込むことだ、そんなもの安い
例えば豊な老後の生活が出来る田舎町なんても良い
思い切りあれこれレジャーが安く出来る田舎町なんてのも良い
世の中は間違いなく理屈抜きで崩壊・末期に突き進んでいる
そういう中で自分だけは、その流れに巻き込まれないことだ
ちなみに
京都から40分の滋賀県高島市安曇川町に住む私は、
新型コロナウイルスの影響をほとんど受けてはいない
それどころか
自然豊かな環境で静かにゆったり暮らしている
生活に何の不便もない、友人が遠ざかってつらくもない、新しい友人を作ればよい
古い友人といつまでも何となく付き合い続けるなんてことをやっていてはいけない
大体友人に碌な人間はいない、大事な事は様々な人と付き合う・触れ合うことだ
新型コロナ下の今、貴方も田舎暮らしを始めませんか?
安曇川田中の私の家(村上原基人生勉強会事務所兼遊び場兼自宅)
2年前まで駐車場だったが今は室外応接間
家の横は野菜を植える場所大型プランターが5台
最初は庭そして作業場更に今は卓球場
会話 人付き合い 人生 老後 大工 田舎暮らし 自分を捨てる
健康 運動 趣味 管理 物忘れ防止 水彩画 異文化体験 村上原基
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滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会 kazutakajiのtwilog 地図
「やれ」といってもやらない「やめろ」と言ってもやめない、だから変わらない
世の中が便利で豊かで自由で安全安心になっていると思うのは大きな錯覚だ
平和必しも平和ならず、健康必しも健康ならず、豊必しも豊ならず
*****************************
テーマ:東京⇒大阪⇒京都⇒滋賀に移り住み滋賀湖西地方の地味さについて
地味=堅実・安全ということ
派手=不安定・危険
東京⇒大阪⇒京都⇒ 滋賀(田舎)と移り住んできたが、同様な人をあまり知らない
前3つのこれらの大都会で共通することは
・派手好み
・見栄張り
・意外と貧乏人が多い
・恰好つけ
・自慢する
・流行追い
・競いあう
・他人意識
・着飾る
・都会賛美
本質をあまり考えたがらない、大事なのは上べ、楽しきゃいいさみたいな感覚
むしろ本質に触れたがらない、本質なんて考えるのは面倒くさい
このような感覚は戦後の経済成長期には当たり前だったが、成熟した社会では
「大きなことは良い・多い事は良い的」な考え方は、今や不快感があるし、
もうそんな安っぽい、環境に悪い、画一的な時代は終わったと私は思っている
日本は平和・繁栄の真っただ中、確実に都会は危機的な状況に突入している
日本は、贅沢な暮らしや奢りを当然のようにやっている基本的過ちを自覚すべきだ
78歳の私は、都会の単純な贅沢や便利さは全く関心も興味も価値も感じない
今更、東京にも帰りたくもないし、大阪も京都も帰りたくもない
都会とは、艶やかなものだと思うが、すでに私にはどうでもよい事で
見かけの格好良さや豊かさには、最早うんざりしている,吐き戻しそうだ
美味しい贅沢な食事をさんざ食べ続けて、もう沢山という感じと似ている
そんなことは憧れているうちのことで、憧れなんか、いつか簡単に壊れる
せめて老後は、もっと静かで落ち着いた、自分自身の人生をゆったり送りたい
道路が縦横に走り、その脇にびっしり高いビルがへばりつく町は居たたまれない
歴史と言えば恰好良いが、社会のしくみ・風習・伝統・思想・信条・規則・習慣など
人をガンジガラメに束縛・拘束するものが何とも多い
都会は、あまりに束縛や拘束が大きく、楽しくも快適でもないというのが私の見解
企業に例えると都会は大企業、田舎は中小企業
私の経験では大企業より中小企業やベンチャーのほうが正直言って楽しいし奥が深い
都会は魅惑的だがストレスや害も多く、ある意味糖尿病に似ている
患者にとっては、糖質は魅力的である一方抱えるリスクは大きく、命取りにもなる
自動車危ない・人もかなり危ない・雑音だらけ・空気は化学物質で一杯・犯罪多発
災害にも弱い・金かかる・インフラ老朽化・災害や緊急事態に脆弱・・・・・
都会は安全快適な場所どころではない。危険一杯なのだ
新型コロナウイルス蔓延は都会の脆さを図らずも浮き出させてしまった
都会と田舎の地位や立場は、あっさり逆転してしまった
私の住む田舎では新型コロナウイルス蔓延による混乱や危機感はなかった
田舎は限界集落呼ばわりされるが、コロナ下では都会は長期ステイ ホーム、
まさに都会が限界になったわけなのだ、田舎は現実に自由で安全安心だった
最近も関東でかなり大きな地震が起きた、これ迄の大地震では東京は危うく
セーフだったが、もし東京直下型地震が起きたら東京はどうなるのだろか?
また東京で巨大台風や集中豪雨や大停電や大断水が起きたらどうなるのだろうか?
考えただけでもぞーとしませんか?
私だったら、心配で夜眠れません
滋賀県特に湖西地方は関西でも人気なく、全国的にも有名ではない
かろうじて京都の隣であるとか、琵琶湖のあるレジャー県として知れているだけ
特に私の住む湖西地方はほとんど畑と森で高層ビルはおろか目立つ箱物はない
よく言えば自然が豊か、悪く言えば、スゲー田舎だが、私は安曇川をチョイスした
最近の私は、可能な範囲で質素で地味な田舎町が良いと考えるようになった
都会では、そうしたくても、そうはいかない
55歳、ある日全く偶然に安曇川を訪れたが、安曇川というのは京都の人にも
ほとんど知られていない土地なのだ
そして55歳のその日に地元の不動産屋さんを訪問し、一服した時に店の人曰く
「ここ安曇川は何もありません、それが素晴らしいんです」だって
最初は「何を馬鹿なこと言ってんだ」と思ったがその後安曇川に住むにつれ
この言葉の意味がやっと分かり始めてきた
田舎は、景色が良いとか魚が上手いとか遊べるとか歴史を感じるとか・・・
そんなこととは無関係で、何もない、ただ自然だけの町が安曇川だ
「何もない」それが基本なのだが都会は逆に「あまりに何でもある」
都会の何でもあることが人間にとって人格形成に邪魔になるのだ
私が若い頃は、大人しい子であった。物静かで自己主張も少なく優しい子供だった
田舎もそういう感じがする、格別何も与えてくれないがつらさを押し付けることもない
静寂・自然・清潔・自由・ゆったり・のどか・優しい・・・
それ迄の私はコテコテの都会人、珍しいもの、形あるものを何でも欲しがるタイプ
田舎の自然だけで何もない場所で悠然と暮らせるような人間ではなかった
そうは言うものの、私の心の奥底に自然豊な場所を好む心が潜んでいたようだ
山に暮らし10年もすると山がこよなく好きになって、抜け出せなくなって来た
都会との決別・過去との決別・人との決別そして自由に戻り、自分を再構築する
最近は都会のもの、派手なもの、人間付き合い的なもの、やたら新しいものが
嫌いだ、都会の人が楽しい・嬉しいことがほぼ皆、強い嫌悪感を感じてしまう
「くだらん」「バカバカしい」「どうでもいい」「子供じみている」「安っぽい」「悲しい」
真っ黒な自分から、まずとりあえず真っ白な自分へ
汚れた古材にカンナをかけて真っ白な木肌を出す
真っ白でもないのに完全真っ白のような顔をする、そういう人は矛盾だらけ
真っ黒ならば、とりあえずそれを認めて一から出直すことが正しいはずだが?
都会の暮らしは嘘誤魔化しだらけ、その嘘誤魔化しから抜け出ることから始まる
過去の自分の解放である
都会は、よく言えば、便利で快適で豊に見えるが、真実は、煩い・汚い・狭苦しい・
貧しい・人ごみ・派手好みだ、田舎で得られる大事なものを犠牲にしている
自然はない、せいぜい作り物の自然、あるのは構造物と人人人と音音音と物物物
華々しい見かけ、上辺を追いかけているとまさに麻薬患者同様に本質からどんどん
遠ざかってしまう
都会暮らしにはまればはまるほど原基から離れて行く
見かけが華々しい町で暮らし続けると見かけを装うのに必死な人間になって行く
私の経験でも大企業で働くと大企業ぽい人間に、小企業で働くと小企業ポイ人間に
なっていく。どちらもある意味危険なのである。余りに染まり過ぎないほうがよい
そこで私はほぼ10年くらいで会社を転職して来たのだ、住まいも同様にして来た
change 子供は子供のままということはありえない、誰も大人になって行く
長い人生だ、より本質的なものに近づき、自分を大きく変革していかないといけない
私の経験では、大袈裟だが、都会と山中を比べると地獄と天国の感がする
でも都会の人々は全くそんなことは思わないし、今回も新型コロナウイルスから
逃げることが目的で田舎暮らしを選ぶ人が出てきたが、単なる都会暮らしの延長
というような安易で単純な考えの人が気になる
55歳まで都会暮らしが長かった私、そこであれこれ悩み続け、自分を見い出せず
一体私は誰なのか分からずに長くもがき苦しみ続けてきた
都会では真実で生きようとするのに、周囲は嘘誤魔化しで溢れており、矛盾が生じる
自分に目を向けず、会社の仕事に追われ、金儲けや更なる欲望追及に必死で
都会の派手さ・便利さに心も目も奪われ誤魔化しの暮らしを続けて来た
そういうのが都会の実態だ、苦しみ悩みにどっぷり浸かる場所なのだ
そして苦しみ悩みの原因が都会暮らしそのものにある可能性は大きい
無理があり、無駄が生じ、ムラな生き方になってしまう
それが55歳からの20年にわたる山暮らし開始で大きく変わり始めた
山の暮らしは、もっぱら家事、山の整備・清掃、家の造作・野菜つくり、山遊びだ
人との付き合いや社会や都会で貯まった固定観念は自分の意識の外に出てしまった
まさに断捨離のように、背中の荷物が僅かづつ軽くなっていくように感じ出した
出家という言葉があるが、幸運にも私は都会暮らしから出家が始まったようだ
都会にあるのは音に例えるとあまりに大きく・多すぎる騒音・雑念・雑物の町だ
それが滋賀県の湖西地方に突如来て、ログハウスでの20年の山暮らしによって
環境が格段に静かになり、あらゆる雑音から解放された自由の身になった
生まれてずーっと都会に住み続けて、そんな暮らしがあるべき姿と思ったら大間違い
世の中都会が住むべき最善の場所ではない、無限にいろいろな場所があることを
忘れないようにしないといけない
その点東京⇒大阪⇒京都⇒滋賀と移り住んできたことを良かったと思っている
「東京東京」「大阪大阪」「京都京都」そんなもの煩い、勝手に言ってろ
今の私には、都会は住むべきでない最たる場所に過ぎない
都会都会と都会礼賛したり、住み易い町全国何位なんて実に嘘くさい
都会にどっぷりはまっていると、それが当たり前になり、分からなくなってしまう
私に言わせればどこも一番で、東京や大阪京都はむしろ下位のランクだと思う
それぞれの場所には、それぞれ違った良さがある
それを都会人の一律な尺度で都会的な場所が良いと怪しげな番付が
出来てしまう。大体、ランキングなどというものを信じないほうがよい
豊かさや便利さの過剰な追求=人間の堕落⇒崩壊になる危険が大きいのだ
できれば皆さまに、気ままに、好き勝手に全国各地にバラバラに住んで欲しい
住む場所により全てが変わる、全く新しい暮らしが始まり、やっと自分を発見する
そういう変化の中で人生を渡って行く、まるで外国周りの船乗りのように
都会人・西欧人・大企業人は自分達が一番偉いと間違った確信を持ち過ぎる
「いい加減にしてほしい」「何が都会人だ」「何が西欧人だ」「偉そうに言うな」
中華思想のような、そんな傾向は案外誰にもあるのだが、良いことではない
都会のように異常に多くの人が集まる所に敢えて住むのが最高とは私は思わない
人が少ない場所にゆったり自分にきちんと向きあい自由に住むことこそ、
生きる値打ちがあると言うものだ
ゆったり住む人々の暮らしぶりは覗いてみたいが、狭苦しい都会で住む人は、
全く関心も興味もないし、密で狭い息苦しい空間に住みたいとは思わない
様々な束縛・拘束の中で不自由な暮らしをして一生過ごす事の悲しさを思いやる
現在の私である。「ほんの少しの勇気を持って下さい」ですかね
田舎暮らしのやり方や大事なポイントは私のような経験者に是非相談して下さい
「田舎暮らしだ、エイヤー」とやるとほぼ失敗する、誰でも上手く行くとは限らない
田舎暮らしを通じて、人生最後のご褒美を手にして欲しいものです
私も55歳までは苦しみ悩みが一杯の半生でしたが、今はご褒美の暮らしを
楽しんでいます
今は田舎の地価も中古住宅もビックリするくらい安いですから・・・「今です」
「私はお金がないし仕事と友人が大事で田舎には引っ越せない」なんて人が
多いが、全くそんなことはない、単なる言い訳に過ぎない
ところで私が最終住むと決めた「世間が言う:つまらん田舎町安曇川」であるが、
都会に比べ、とにかく地味なことは確かだ、ここに来て派手な暮らしはやめて欲しい
地味というと何かマイナスイメージだが、今の私はむしろ大きなプラスと感じている
※但し:地元の人に敢えて言われた「安曇川の人は地味に見えてかなりの金持ちだ」と
都会 に対して ここは
・派手好み に対して 地味
・見栄張り に対して 地のまま
・意外と貧乏 に対して 意外と金持ち
・恰好つけ に対して 格好つけない
・流行追い に対して 流行は感心ない
・競いあう に対して 負ける
・贅沢 に対して 質素
・他人意識 に対して 他人無視
・着飾る に対して 普段着
無論これは元々の地元の人の感じだが
そこによそ者として入り込んだ私達県外者特に元都会人は
・元都会人のままの人:派手な生き方(30%)
・中間的な人、都会と田舎が混在する人:派手な生き方は減る(65%)
・田舎にかなり染まってしまう人:派手な生き方を捨てる(5%)
私は今や堂々とケチ・節約・地味を標榜しているし、自慢している
そして派手な贅沢な無駄な人を100%軽蔑している、人として最低だ
地味に謙虚に倹約に暮らせば、当然、悩み苦しみは少なくなる
「意味のない便利で派手な生き方や暮らしよさらば」である
そうすれば無用な悩み苦しみはかなり減って活き活きした暮らしが戻って来る
そうして地味な田舎暮らしを選び
私は最初18年は山暮らしその後5年は田中という田舎町で地味に暮らして来た
でも田舎嫌いな都会人は地味な生き方が大の苦手であり、苦しみの元になる
地味=自分を無にする、自分を捨てることに結びついていくのだろうか
山暮らし以前も24年東京、5年大阪、25年京都、そして23年滋賀
そういう違う場所に暮らしたことは例えば東京だけに住み続けて来た人の
何倍も真逆な経験をし様々な感覚を身につけてきたことになる
同様に同じ会社に定年まで勤めて来た人より私のように5社に勤めた人の
ほうが何倍もいろいろの経験やいろいろな感覚を身につけてきたことになる
何事も5~10年毎に変えて行く事が人生にとって役立ち、人格磨きにつながる
住いや会社だけでなく、結婚も5回離婚・結婚したほうがよいかもしれない??
一般的に一回目の結婚はほぼ失敗だと思っているが、法律で縛られて
勝手なことが出来ないだけなのだが、友達を変えるのは出来るかもしれない
ここ23年間、他人や自分に縛らずに生きて来たが、
ある意味、人付き合い下手が役だったのかもしれない
基本原点に帰るお手軽な方法
・手っ取り早くやろうとすれば、 見かけの進歩とか発展に安易に乗らない
・更に手っ取り早く言えば、 社会の在り方に逆らう、逆のことをやる
・もっと手っ取り早く言えば、 昔に戻る
そういうことだ
だが
そういうことがすんなり出来る人は極めて少ない
私がお勧めの”すぐにやること”は
足るを知るを愚直なまでに続ける
①都会を去る
②田舎や山奥に住む
③四輪車を止める
④肉・油・炭水化物・酒を減らす
⑤規則正しく暮らす
⑥自然に多く交わる
⑦災害やリスクの多い地域から離れる
⑧世の中の流行に乗らない
⑨地味・質素に暮らす
⑩無駄をしない
⑪作業をし身体全体を使う
⑫過剰に人間関係に振り回されない
まあ本来の自分を取り戻すために、こんなことさえも出来ない人が多いのだが
そういう生き方を正しい・美しいと感じることだ、そもそも、それが第一歩だ
もし感じないとしたら、一歩を踏み出すことさえ永遠に出来ないだろう
国家や県に提案「全国各地に人が引っ越す策をもっと考えて欲しい」
国や県が何もしてくれないで、”とにかく田舎に移れ”は無理な話だ
田舎をABCにクラス分けしクラス毎に、国税は、国民健康保険料、固定資産税
を無料または安くして田舎暮らしに都会の人を誘導することを推奨する
田舎の町内の主要道路を整備したり店や役所や病院を一か所に集約すること
その上で、無人バスも運行させる
田舎でしか出来ないことや田舎の欠陥を改善するために予算を使うことだ
また田舎の広い敷地を利用し釣りやあらゆる運動やサイクリングが快適に
無料で出来るなどの楽しい施設も作り込むことだ、そんなもの安い
例えば豊な老後の生活が出来る田舎町なんても良い
思い切りあれこれレジャーが安く出来る田舎町なんてのも良い
世の中は間違いなく理屈抜きで崩壊・末期に突き進んでいる
そういう中で自分だけは、その流れに巻き込まれないことだ
ちなみに
京都から40分の滋賀県高島市安曇川町に住む私は、
新型コロナウイルスの影響をほとんど受けてはいない
それどころか
自然豊かな環境で静かにゆったり暮らしている
生活に何の不便もない、友人が遠ざかってつらくもない、新しい友人を作ればよい
古い友人といつまでも何となく付き合い続けるなんてことをやっていてはいけない
大体友人に碌な人間はいない、大事な事は様々な人と付き合う・触れ合うことだ
新型コロナ下の今、貴方も田舎暮らしを始めませんか?
安曇川田中の私の家(村上原基人生勉強会事務所兼遊び場兼自宅)
2年前まで駐車場だったが今は室外応接間
家の横は野菜を植える場所大型プランターが5台
最初は庭そして作業場更に今は卓球場
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