なので、
せっかくだから、サラリーマン人生を振り返ることにしましょう。
私が就職したのは昭和56年。
やたら名前が長い会社で、何をしている会社なのか知らなかったが、訪問すると母校OBの課長が面接官で専務にそのまま紹介されて、なんとなく「合格!」という雰囲気になってしまったのだった。後日、形ばかりの作文を書かされて何の苦労もせず合格。実は当年度の採用予定はゼロだったらしい。ということで、内定していた会計事務所は辞退。
最初に配属になったのは営業部。
外交的ではない自分には向かない仕事で、ほぼ御用聞き営業。
そういう中でも、同年代が多い取引先の人とは仲良くなって、昼時間前に電話で先方の事務の女性に「今日はカレーライスお願いします!」などと店屋物の注文をして、そこの営業マンと仲良く昼飯を食べたものだった。でも、契約は取れず(笑)。その会社の営業マン2名は後に白堊スポーツ芋蔓会員となるのであった。
そんな仕事状況だったが、入社初年度には出来たばかりの労働組合の下部組織委員、翌年度には執行委員となり、その後14期(委員長3期)に渡って労組執行部を務めた。組合活動には燃えた!燃えた!!燃えた!!!とにかく組合中心の生活だった。
営業に嫌気がさして来た頃、会社の管理機能のシステム化の話が持ち上がった。
いろいろと情報を聞くと、情報処理科を卒業した女性中心に取り組む予定とのこと。しかし、その女性は実は数ヵ月後には寿退社の予定でいることを会社上層部は知らないのだった。そこで、私は動いた。「私を是非とも担当にして欲しい。」と面接官だった課長、上司に直訴。私の願いは叶い、営業からシステム担当へと異動となった。
手書からシステム化への移行は並大抵のことではなかった。
毎日の残業が半年以上続いた。
日中行き詰ると、仕事を中断して岩手公園を散歩して気分転換。
入力要員としてパートのおばさんを雇ったが、自分でもかなりの量の入力データや分析しなければならない数字を持っていた私はパートさんへの指示に手が回らず、「何かやることはないですか?」と尋ねられ、「ありませんっ!」と返答してしまい、何度か目の前で泣かれて、上司からもかなり怒られた。 体力の低下が原因と思われる皮膚病に悩まされ、なんと短期間に2度も流行性角結膜炎(はやり目)になったのもこの頃である。
ようやくシステム化が完成し、今度は経理業務の自動化に取り掛かる。
システムの中身を知っている人間は私一人だけなので、経理業務の自動化の検証も私がやらねばならない。システム化の指導と経理の検証を並行して進めなければならず、これも精神的にかなり苦しいものとなった。どうにかこうにか軌道に乗せたが、システムが落ち着くまで数年かかることとなったのである。当初はチームを作って始めたプロジェクトだったが、実際動いたのは私一人。独断専行、事後承諾とかなり強引に進めた仕事だったので、うまく行かなくなった途端、担当役員の「ちゃんと内容を把握しておくべきだった。一人に任せたのがまずかった。」との発言を聞いた私は人に見えない所で激怒したのであった。
ここまでが40歳頃までのサラリーマン人生。
たぶん一番充実していた時期だったと思う。
この後は管理、総務、経理で決算業務を主に担当。
現在は管理部所属で営業関連業務をやっている。
「役職名で仕事をしない。」
「自分にプライドを持って成果物を完成させる。仕事を成し遂げる。」
を胸に抱きつつ仕事をして来た。
4月からも
「自分にプライドを持って仕事を成し遂げる。」
ことだけを考えて残り少ないサラリーマン人生を過ごして行くつもりです。
せっかくだから、サラリーマン人生を振り返ることにしましょう。
私が就職したのは昭和56年。
やたら名前が長い会社で、何をしている会社なのか知らなかったが、訪問すると母校OBの課長が面接官で専務にそのまま紹介されて、なんとなく「合格!」という雰囲気になってしまったのだった。後日、形ばかりの作文を書かされて何の苦労もせず合格。実は当年度の採用予定はゼロだったらしい。ということで、内定していた会計事務所は辞退。
最初に配属になったのは営業部。
外交的ではない自分には向かない仕事で、ほぼ御用聞き営業。
そういう中でも、同年代が多い取引先の人とは仲良くなって、昼時間前に電話で先方の事務の女性に「今日はカレーライスお願いします!」などと店屋物の注文をして、そこの営業マンと仲良く昼飯を食べたものだった。でも、契約は取れず(笑)。その会社の営業マン2名は後に白堊スポーツ芋蔓会員となるのであった。
そんな仕事状況だったが、入社初年度には出来たばかりの労働組合の下部組織委員、翌年度には執行委員となり、その後14期(委員長3期)に渡って労組執行部を務めた。組合活動には燃えた!燃えた!!燃えた!!!とにかく組合中心の生活だった。
営業に嫌気がさして来た頃、会社の管理機能のシステム化の話が持ち上がった。
いろいろと情報を聞くと、情報処理科を卒業した女性中心に取り組む予定とのこと。しかし、その女性は実は数ヵ月後には寿退社の予定でいることを会社上層部は知らないのだった。そこで、私は動いた。「私を是非とも担当にして欲しい。」と面接官だった課長、上司に直訴。私の願いは叶い、営業からシステム担当へと異動となった。
手書からシステム化への移行は並大抵のことではなかった。
毎日の残業が半年以上続いた。
日中行き詰ると、仕事を中断して岩手公園を散歩して気分転換。
入力要員としてパートのおばさんを雇ったが、自分でもかなりの量の入力データや分析しなければならない数字を持っていた私はパートさんへの指示に手が回らず、「何かやることはないですか?」と尋ねられ、「ありませんっ!」と返答してしまい、何度か目の前で泣かれて、上司からもかなり怒られた。 体力の低下が原因と思われる皮膚病に悩まされ、なんと短期間に2度も流行性角結膜炎(はやり目)になったのもこの頃である。
ようやくシステム化が完成し、今度は経理業務の自動化に取り掛かる。
システムの中身を知っている人間は私一人だけなので、経理業務の自動化の検証も私がやらねばならない。システム化の指導と経理の検証を並行して進めなければならず、これも精神的にかなり苦しいものとなった。どうにかこうにか軌道に乗せたが、システムが落ち着くまで数年かかることとなったのである。当初はチームを作って始めたプロジェクトだったが、実際動いたのは私一人。独断専行、事後承諾とかなり強引に進めた仕事だったので、うまく行かなくなった途端、担当役員の「ちゃんと内容を把握しておくべきだった。一人に任せたのがまずかった。」との発言を聞いた私は人に見えない所で激怒したのであった。
ここまでが40歳頃までのサラリーマン人生。
たぶん一番充実していた時期だったと思う。
この後は管理、総務、経理で決算業務を主に担当。
現在は管理部所属で営業関連業務をやっている。
「役職名で仕事をしない。」
「自分にプライドを持って成果物を完成させる。仕事を成し遂げる。」
を胸に抱きつつ仕事をして来た。
4月からも
「自分にプライドを持って仕事を成し遂げる。」
ことだけを考えて残り少ないサラリーマン人生を過ごして行くつもりです。
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