6月11日 キャッチ!
イタリアである肖像画が見つかった。
肖像画のモデルとなったのが伊東マンショ(1569?~1612)。
安土桃山時代 1582年にわずか13歳で当時の九州のキリシタン大名の名代としてローマに派遣された天正遣欧少年使節の代表である。
8年間のヨーロッパ滞在中に日本の存在を広く知らしめ
帰国に際しては持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本で初めて活版印刷が行われたことでも知られている。
日本とヨーロッパの架け橋になった伊東マンショだが実際の顔かたちはよくわかっていなかった。
ところが今回発見された肖像画は写実的に描かれている。
その肖像画はイタリアルネサンスの巨匠によるものだということも確認されイタリアでは芸術的価値も高いと注目されている。
イタリア北部で発見された肖像画。
肖像画の伊東マンショはスペイン風の衣装を身に着け
うっすらと生え始めたひげからは少年のあどけなさが感じられる。
発見したのはイタリアのミラノを拠点に活動する文化財団のパオラ・デリコさん。
2009年夏 ミラノに住む所有者からこの絵の調査の依頼を受けた。
(トリブルジオ財団 パオラ・デリコさん)
「とても美しくすっかり魅せられてしまいました。
恋に落ちたような気分です。」
調査が大きく進展する手がかりとなったのは絵の裏側にあった。
はっきりとMANSIOと書かれている。
その後 天正遣欧少年使節の資料を丹念に調べ上げ伊東マンショだと断定した。
さらにデリコさんはこの絵の作者を特定するため所有者の履歴を調べた。
その結果 当時のスペインのローマ大使がベネチアのルネッサンスを代表する画家ティントレットの工房から購入したことが分かった。
デリコさんはティントレットの専門家に絵の鑑定を依頼。
作者はティントレットの息子で
肖像画の腕前は父親にも引けを取らないドメニコ・ティントレット(1560~1635)だと結論付けた。
ドメニコの作品は明るい色から暗い色まであでやかな色づかいで人物が生き生きと描かれているのが特徴だと言う。
デリコさんは当時 最も人気の高かったティントレットの工房が肖像画の作成を請け負ったことからも使節への歓迎ぶりがうかがえると言う。
(トリブルジオ財団 パオラ・デリコさん)
「ティントレットの工房が肖像画の制作を引き受けたということは
伊東マンショは明らかに格別の待遇で迎えられていたということ。
この工房はベネチアで最も有名でしたから。」
伊東マンショの肖像画が見つかったことはミラノでも話題になっている。
この日は現地の総領事館の首席領事が財団の事務所を訪れた。
(在ミラノ日本総領事館 渡邉博首席領事)
「日本とイタリアの関係が新しい時代の中で深まっていくきっかけになっていくのは非常に素晴らしいこと。」
400年余りの時を経てイタリアで見つかった伊東マンショの肖像画。
遠く離れた日本でこの知らせに大きな関心を寄せている地域がある。
宮崎県西都市。
マンショの故郷である。
騒乱の時代 わずか8歳でこの地を追われ
マンショはキリスト教に救いの道を見出した。
そしてヨーロッパへの使節団に抜擢され13歳から8年余りの歳月をかけて日本とヨーロッパを往復した。
日本人として初めてマンショらがヨーロッパに日本の文化を紹介した功績は今も故郷で語り継がれている。遠くローマへ続く道
肖像画によってこれまでよくわからなかったマンショの顔かたちがを知ることができるのではと期待が高まっている。
またこの地で生まれ育った飯牟礼さんは発見された肖像画こそが伊東マンショを次の若い世代へ伝える絶好の資料になると考えている。
(飯牟礼純比古さん)
「伊東マンショについて勉強しようと子どもたちも興味がわくと思う。」
マンショとゆかりのある肖像画の展覧会を生誕の地で開きたい。
飯牟礼さんが中心となって署名活動が始まった。
地元たっての願いをイタリア政府や所有者に伝えるのが狙いである。
「西都市にとって誇りであり興味があること。」
「伊東マンショを知らない人に伝えていけるのは素晴らしいことだと思う。」
(飯牟礼純比古さん)
「ぜひ里帰りさせてもらってみなさんに見てもらえるのが願い。」
こうした声はミラノにも届いている。
デリコさんのもとには天正遣欧使節団にゆかりのある日本の自治体から肖像画を貸し出してほしいという要請が相次いでいる。
所有者も日本からの熱いメッセージを受け貸し出す意向を示していると言う。
(トリブルジオ財団 パオラ・デリコさん)
「日本でこの肖像画の展示会が開かれれば私にとっても名誉なことです。
日本の皆さんにぜひともこの美しい肖像画を鑑賞してほしいです。」
日本とヨーロッパとの交流の礎を築いた伊東マンショ。
肖像画の発見をきっかけにその交流は一段と深まろうとしている。