6月29日 NHK海外ネットワーク
4年間にわたる戦いで約1000万人が亡くなったとされる第一次世界大戦。
その引き金となったサラエボ事件の発生から6月28日で100年を迎えた。
これにあわせてヨーロッパの各国で悲惨な戦争を二度と繰り返さない決意を込めた式典などが行われ
激戦地だったベルギーのインテルではEU各国の首脳らが平和への誓いを新たにした。
100年前 世界を戦争の時代へ突入させることになったサラエボはバルカン半島の国 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。
現場には事件の当事者の顔写真が掲げられている。
サラエボを訪れていて暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子と犯人のセルビア系の男。
この事件が開戦の勃発につながっていった背景には
当時のヨーロッパ諸国におけるナショナリズムの高まりと領土をめぐる勢力争いがあった。
サラエボ市内で行われたサッカーワールドカップのパブリックビュー。
悲願の初勝利を果たしたボスニアの代表チームに人々が熱い声援を送った。
「私たちにとっても代表チームにとっても大きな一歩。」
今でこそ人々が穏やかに暮らすサラエボ。
しかしかつてこの町だ放たれた銃弾がその後の世界を大きく変えることになった。
100年前 オーストリアの皇太子夫妻を乗せた車がパレードのため進んできた。
そして角を曲がったところで悲劇は起きた。
群衆に身をひそめていた男が皇太子夫妻に向け次々に発砲。
二人は帰らぬ人となった。
犯人はセルビア系のガブリロ・プリンツィップ。
オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したことに強い反感を抱いていた。
博物館となった現場の一角には当時の写真が貼られ事件の様子を今に伝えている。
皇太子夫妻が乗っていた車も特別に公開された。
車体には今も銃弾の跡がはっきり残っている。
暗殺事件をきっかけにオーストリアはセルビアに宣戦布告。
新興国として軍備増強を続けていたドイツも同じ民族のオーストリア側にたって参戦する。
一方ロシアは民族が同じセルビア側に参戦。
ドイツと対立していたイギリスやフランスもこの陣営に加わる。
当初 局地戦にとどまるとみられていた戦争はまたたくまにヨーロッパ全土に拡大。
さらに日本やアメリカも巻き込み多くの国の予想に反して4年にものぼる長期戦となった。
平和への願いを込めたコンサートで演奏会を行ったのはオーストリアの名門ウィーン・フィル。
広く市民が楽しめるよう会場前の大型スクリーンにも映像が流され
大戦にゆかりの国々の名曲を奏でることで犠牲者を悼んだ。
かつての激戦地には多くの兵士がいまも眠っている。
大戦の激戦地のひとつ フランス北東部のベルダンに作られている犠牲者の墓地。
ドイツとの戦いで命を落とした兵士の墓がみわたす限り広がっている。
ベルダンの戦いは両軍がおびただしい数の銃弾を打ち合ったことで知られ
現地では今でも毎週のように不発弾が見つかる。
(ヴォー村 アルマン・ファルク村長)
「このあたりの畑や森ではよく見つかる。
不発弾を見つけたら村長や憲兵に連絡することになっている。」
ベルダン郊外の森林。
不発弾による環境汚染の危険性を警告しているNGOによると
森の一角は植物がほとんど育たず地元では“ガスの空き地”と呼ばれている。
第一次大戦で初めて化学兵器として使われた毒ガスの影響によるものとみられる。
発がん性があると指摘され住民の立ち入りは一切禁止されている。
「動物が地面を掘り返した時などに汚染された瓶が出てくる。
この瓶には化学兵器に使われたヒ素が入っていた。
戦争から100年もたつのに驚くべきこと。
第一次大戦はまだ終わっていない。」
こう着状態に陥り長期化していった大戦。
その象徴といえる塹壕(ざんごう)を扱った博物館が激戦地 フランスのソンムにある。
第一次大戦当時の塹壕の様子が再現されている。
兵士たちは深く掘った溝の中で敵の銃撃から身を守りながら攻撃の機会をうかがっていた。
劣悪な衛生状態の中での終わりが見えない塹壕生活。
過酷な消耗戦は兵士の精神をも病んでいったという。
この日 授業で第1次大戦について学んでいる近くの小学生たちが訪れていた。
「これは冬の様子です。
小さなストーブで暖をとるしかありませんでした。
夜になるとネズミがかじりに来て兵士たちはゆっくり休めませんでした。」
(生徒)
「ざんごうの中がここまでひどいとは知らなかった。」
「はじめて見た。
こんな生活とても私には無理。」
(ティエリ・グールラン館長)
「塹壕戦となって戦いは長期化していった。
100年前に何があったのか若い世代に伝えたい。」