日本では東京オリンピックを契機に、社会で広く「多様性」(=diversity)という言葉が使われ出しました。
そして、それを多用したのは経済界・産業界でした。
「多様性に基づく人材活用を進める」というように、経営的視点で理解されてきました。
しかし、それでは多様性の本質に迫ることはできません。お金もうけをするためとか、会社などの組織を強化するために多様性を導入するのではないのです。
たとえば、学校教育で多様性を学習するときには、よい社会づくりの手段として、児童生徒が多様性をとらえるようにしむけます。そして、その社会づくりに参画していく資質を児童生徒に育むのです。
日本は社会でも職場でも学校でもたいへん同質性が求められる傾向があります。
人種にしても、言語にしても人びと間でちがいが少ないのです。
だからこそ、学校教育では「在日外国人教育」とか「多様性教育」とか「多文化共生教育」とかいうネーミングで、「外国につながる人」とのちがいを受け入れ、ちがうからこそ全体で豊かになれることを児童生とが学び、行動する力を育む取り組みが進められているのです。
ものごとの本質を見きわめる必要があります。
いま、SNS等で、このブログもそうですが、「在日」とかいうタグを付けようとするならば「『在日』は受け付けられません」という警告が出ます。
それは本質を見ていません。「在日」とは日本に在住しているという状態を表した言葉です。
ところが「在日」という言葉を悪意をもって人を攻撃するために使うケース(ヘイトスピーチ)があるために、禁止用語になっているのです。
それもまた、多様性の本質を見あやまることにもなります。