学校というものは、現場に入ればわかりますが、教職員のなかに「ちゃんとやる」という意識が強すぎるとわたしは思います。
チーム学校というように、児童生徒への教育活動は他の教職員とチームワークを組み、協同で行うものです。
たとえば、小学校の運動会や中学校の体育祭のような学校行事は、教職員の協力体制がないと実施できません。
企画する教職員がいて、出発係、召集係、決勝係、得点係などの担当が児童生徒にその役割を果たすように指導して、本番は滞りなく行われるのです。
このチームワークは、学校行事の出来ばえにも影響します。
また、近年、子どもの抱える課題は複雑化、多様化、困難化しており、学級担任一人ではなく、おもに同じ学年の教職員というチームで育てるという合意が形成され、協力し合います。
つまり、「子どもは教職員のチームで育てるもの」という原則は浸透しています。
しかしながら、教職は特質な特徴をもつ職種です。
チームで子どもと向き合うとはいえ、ティーム・ティーチングのような場合を除けば、教室という空間で、教員が一人で35人から40人ぐらいの多様な児童生徒を相手に授業をやります。
この点をみれば、教職とは、「担任のあなたに任せます」という意味で「独立性」の高い仕事であるといえます。
そして、それぞれの教員が異なる空間(教室やグランド、体育館など)で、同時に授業をするのです。
また、「○○先生の授業」「○○先生のクラス」とまわりから言われ、教科担任や学級担任は自分で責任を果たすことが求められます。
そういう意味では、教職は「自律性」に任される仕事であるともいえます。
学校にはこういった教職の特質ともいえる性質があるので、教職員のなかに「わたしがちゃんとしなければ」という意識がはたらくのです。
そしてその意識は、「できた」か「できなかった」の二元論で自分の仕事を自分で評価してしまいがちです。
極端な場合、70%ぐらいのできばえしか出せず、うまくいかなかったときには、自分のやったことをゼロと評価したり、意味がなかったと思う傾向が教員に見受けられます。
70%程度でも児童生徒は7割の教育的効果を受けていることなどは考えられないことが多いのです
しかし、現在の子どものようすは多様化し、さまざまな課題を背負い学校へ来ているので、教員が一人で対応できることなど、ほとんどありません。
たとえば、虐待を家庭で受けている子、家庭の貧困、保護者が子育てに無関心、地域から孤立などの課題が子どもにのしかかります。
また、家で家族の介護をしている子ども(ヤング・ケアラー)や外国につながる子どもが、日本語のわからない外国籍の親の諸手続きの通訳がわりに同行して学校に来れない。
このような地域や家庭の課題を背負い学校に来る児童生徒を担任する教員は、課題が複合的であるため、一人で対応できるものではありません。
複合的な要因がからむ課題には、総合的に対応することが原則です。
他の教員の力を借りたり、福祉分野や医療分野、行政のヘルプを受け、協働で子どもをみていかなければ、対象の子どもに学校教育を保障できないのです。
その意味で、他の教職員や専門機関に「助けて」と言える職員室の雰囲気や自分から声をあげる、「援助希求力」がいまの学校の教員には必ず必要になります。
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