「私はきくことが得意です」。
これは去年の夏に岸田総理がインタビューで語った言葉です。
わたしは思春期のむずかしい中学生との面談で、聴くことのむずかしさを自覚していますので、「きくことが得意だ」とは、よく言葉にして言われたなと思いました。
そして、次にその「きく」は,「聞く」のほうなのか、それとも「聴く」の方なのか、どちらだろうと感じました。
「聞く」のが得意なら、漠然と耳を傾け、いわゆる聞き流されてしまうのではないかと心配しました。
もし「聴く」のが得意なら、相手の言うことに注意して耳を傾け、その本意を理解しようとしてくれることになります。
知られているように、「聞く」は「(注意しなくても)耳に入ってくる」(=hear)であり、「聴く」は「(きこうという気持ちで注意して耳を傾ける」(=listen)ことになります。
カウンセリングや臨床心理士が行う相談活動、また対人関係において、カウンセラー等は「聴く」ことを大切にして、聴くことで相手を支えようと、支援の基本として実践します。
当事者が何を感じ、どう考え、どのように変わることが苦しみ・つらさが減じると考えているのかと思いをめぐらし、ときには「うん、うん」と相づちをうちながら理解しようとするのです。
聴いてもらえたと思った相談者は気持ちが楽になります。
ただ、一般の人が「聴く」のはけっこうむずかしく、よく失敗します。
じっと聴くことが必要なのに、すぐ口をはさんでしまう。
また、じっと聴いていても、共感や寄り添う姿勢を重視するあまり、煮え切らない当事者の態度にいらだちをもってしまう。
これほど聴くことはむずかしいのです。
不登校の子や働かずぶらぶら家で過ごしている当事者たいして、「みんなができているのに。この人は無意味な時間を過ごしている」。
こんなふうにカウンセラーが感じるなら、それは不登校やひきこもりに対するの世間や社会の考えが投影され、相談者に向けるまなざしにあらわれるのです。
しかし、学校に行かないことや家にいて働かないことは、自分と学校の関係、自分と社会の関係について考えを深める時間を求めているという理解なら、相談者は心を開きます。
不登校や引きこもる時間は無意味ではないという認識がもっと世間や社会で広がれば、あらたな視点で見ることができるように思います。
しかし、学校に行かないことや家にいて働かないことは、自分と学校の関係、自分と社会の関係について考えを深める時間を求めているという理解なら、相談者は心を開きます。
不登校や引きこもる時間は無意味ではないという認識がもっと世間や社会で広がれば、あらたな視点で見ることができるように思います。