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私の地域では、子どもの頃と比較すると、近所の人や地域の人とのつながりは、格段に薄くなりました。
昔は、同じ組の中で、誰かが亡くなると、お葬式はその組の人が協力しあい、式を運営しました。
でも、今やお通夜も告別式も家族葬が9割以上で、式への参列もなくなりました。
コロナ禍も重なり、地域の夏祭り、秋祭りは中止された3年間でした。
地域の中での人と人の人間関係は濃く、助けられたぶんもありましたが、濃すぎる関係は煩わしさを感じることもありました。
その頃に比べると、人はある意味での「自由」を手に入れたと言えるでしょう。
今の時代は、個人が尊重され、一人でいること、好きなことをできることが認められて、周りの人が個人を束縛することがなくなってきたのです。
その反面、弊害も出てきているのではないでしょうか。
みんなが、家族の中でも、みんなが自由になり、好きなことをそれぞれができます。
子どもがスマホで外の人と自由にやりとりができます。
いったい、どれほどの親がわが子のSNSを介しての人間関係を把握しているでしょうか。
つまり、今という時代は、みんなが自由であるために、周りの人がどんな言動をとるかの予測が立たないのです。
昔の日本社会では、お互いの人間関係は縛りが強かったぶん、勝手なことはできませんでした。
その最たるものは、勝手なことをした人にあてがえられる「村八分」でした。
だから、コミュニティの中で、誰がどんな言動をしているかはみんなが知っていたのです。
自由は否定されるべきではありません。
しかし、今の世界は、国さえもが自由になります。
うちは、移民は受け入れません。
他国と戦争するのも自由です。
今の世界は、縛りがなくなり、世界規範も薄くなっているのではないかと危惧します。
自由が競争に結びつく息苦しい時代を、いま私たちは生きているのです。
人類が、封建時代や絶対王政時代の過去から求めてきた自由とは、そのような自由でなかったはずです。
個人が自立し、いざという時には助け合い、共に生きる。
そのような自由を渇望します。
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