志賀直哉の小説に『城崎にて』があります。
兵庫県の城崎温泉で、けがの養生している主人公を扱っている小説です。
その『城崎にて』に次のような一節が出てきます。
川に死んだ蜂が浮いて流れています。
首に串が刺さったネズミが一生懸命に泳いでいます。
それを眺めながら、主人公は川の端にいたイモリに石を当てて殺してしまいます。
ここからわかるように、生き残った自分と死んでいった動物がいるように、生きていることと死んでしまうことは、それほど大きな差はない。
それを眺めながら、主人公は川の端にいたイモリに石を当てて殺してしまいます。
ここからわかるように、生き残った自分と死んでいった動物がいるように、生きていることと死んでしまうことは、それほど大きな差はない。
生と死は隣り合わせだと言っています。
私の父は7人きょうだいでしたが、その当時の日本では、たくさん子どもがいるのが普通の家庭でした。しかし、途中で亡くなる子も多くいました。
その後、医学や科学が発達して、人間の寿命は延びていき、子どもが幼少期や青少年期に亡くなることはほとんどなくなりました。
思えば、第二次世界大戦以降の日本では、私たちは安全な社会をつくり、死ぬことを遠ざけてきたのでした。
ところが近年になり、大きな地震や大規模な自然災害が起こり、つい昨日まで顔を合わせていた人が急に亡くなる事実に直面するようになりました。
直近でいえば、新型コロナウイルスの感染による死は、ついこの前まで元気だった人が命を落とし、私たちに死が隣り合わせだと実感させます。
また、最近では新型コロナウイルス感染症がまん延して、先が見えにくい状況が続く中で、「死にたい」とつぶやく若い人が増えているとも聞きます。
いままで当たり前だったことが当たり前でなくなり、学業、人間関係、家族関係で行き詰まる人がいます。
生きるとはどういうことなのか。人は死んだらどうなるのか。多くの人がコロナ禍をきっかけに死ぬことを身近に考えるようになっています。
私の父は7人きょうだいでしたが、その当時の日本では、たくさん子どもがいるのが普通の家庭でした。しかし、途中で亡くなる子も多くいました。
その後、医学や科学が発達して、人間の寿命は延びていき、子どもが幼少期や青少年期に亡くなることはほとんどなくなりました。
思えば、第二次世界大戦以降の日本では、私たちは安全な社会をつくり、死ぬことを遠ざけてきたのでした。
ところが近年になり、大きな地震や大規模な自然災害が起こり、つい昨日まで顔を合わせていた人が急に亡くなる事実に直面するようになりました。
直近でいえば、新型コロナウイルスの感染による死は、ついこの前まで元気だった人が命を落とし、私たちに死が隣り合わせだと実感させます。
また、最近では新型コロナウイルス感染症がまん延して、先が見えにくい状況が続く中で、「死にたい」とつぶやく若い人が増えているとも聞きます。
いままで当たり前だったことが当たり前でなくなり、学業、人間関係、家族関係で行き詰まる人がいます。
生きるとはどういうことなのか。人は死んだらどうなるのか。多くの人がコロナ禍をきっかけに死ぬことを身近に考えるようになっています。
さらに今、『ちょっと神様になってみました』(著者 荒川祐二、監修 高橋日菫、KADOKAWA)が発売されています。
この本は死後の世界から逆算して、今をどう生きるかという人生の指南書になっています。
「死」を身近に感じたとき、生きていることが奇跡であることを実感できます。
学校教育では、児童生徒がいのちがあること、生きていることが、いかに貴重なことか、自他のいのちを大切に思える機会を設けていきたいのです。
それが、学校教育が担う現代的課題です。
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