箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

悪意はないけど、排除することになる

2021年12月16日 07時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「ブラジルから来たんなら、サッカーうまいんでしょう」
「毛深いですね。沖縄の人ですか」
「そう怒るなよ。女は感情的だから」
「(長年日本で暮らしているのに)留学生ですか。日本語がおじょうずですね」
「秋の紅葉がきれいな頃です。四季がある日本はすばらしい。日本に生まれてよかったとみなさんも思いますよね」

これらの言葉は、「きめつけ」から発せられています。

「ブラジル→サッカーが強い→プラジル人はサッカーがうまい」というきめつけです。

「沖縄の人は毛深い→この毛深さは沖縄の人だ」

「男性は理性的で、女性は感情的→こんなに怒るのは、やはり女性だからだ」

「留学生は来日の日が浅い→日本語がうまくない」

「日本人だからこそ四季を楽しむことができる→この場には日本人しかいない」

このような発言は日常の会話でする人も多いと思います。

たしかに統計学的にいうならば、それぞれあてはまることもあるかもしれません。

しかし、それは個人差があることを考慮していません。

ある範疇を頭の中でもうけて、「その集団はみんながそうだ」という思い込みやきめつけになっています。

そして、多くの場合、発言者側(多数派)は悪意なく、意図せずに、相手(少数派)に言っています。そして、相手は排除されていきます。

悪気や意図がないからこそ、排除された側は、その痛みや傷つきを訴える先がなくなってしまうのです。苦笑せざるを得ない心境になります。

でも、往々にしてこのような発言は、また別の人から言われるのです。何度も繰り返されるので、深く傷つきます。

多数派が自分をどの位置に置いていて話しているのかが問われます。

進路とは、自分で考え抜くこと

2021年12月15日 07時38分00秒 | 教育・子育てあれこれ



中学校で進路指導をするとき、今でこそ学科は多様化し、普通科以外の様々な学科がありますが、普通科に進学する生徒がほとんどだった頃の話です。

美術が好きな生徒で、絵を描くそれ相当の力をもった女子生徒でした。

その生徒は中3で高校進学を考えるとき、美術科を専門にしている高校への進学を希望していました。

「わたしは絵を描くのが好きなので、美術科のある高校へ行きたいです」。

ただ、当時は、高校は(言葉は適切でないでしょうが)「とりあえず」普通科へ行って、高卒後大学で美術の学科を選ぶか、専門学校へ進学するのが一般的でした。

保護者の方も、それを望んでいました。

わたしが、本人に伝えたことは次のことでした。


「自分がいいと思うことをやったらいいと思うよ。

ただ、それはけっこうしんどいかもしれんよ。

だって、なにが起きても、人のせいにはできへんから。」


わたしはそのことを伝えて、本人がよく考えたらいいと思いました。

「どうしても高校で美術をしたい」。熱意や意欲は大切ですが、そのようにだけ強く思っているときには、なかなか幅広く、さまざまな角度からは考えられないものです。

彼女の意志と夢を応援しながらも、他の生徒とちがう学習をしていくことの難しさを理解してもらいたくて、伝えた言葉です。

結果的に、その子は高校は普通科に進学しました。その後大学は芸術大学に進んだと聞きました。

高校進学時に美術科へ進むのも一つです。ただそのときには、自分の意志を貫く覚悟と責任をもっていなければなりません。

中学生への進路指導は、教師がたんに高校進学をさせるだけでなく、本人に自分の人生について深く考えるようにサポートすることだと思います。

出会いの場をつくるアプリ

2021年12月14日 06時42分00秒 | 教育・子育てあれこれ


わたしは、校長時代に何度も部下の教員の結婚式に招待され、主賓スピーチをしました。

学校の教員同士の結婚もけっこうありました。

学校の教員は、サラリーマンとちがい大きな昇級はありませんが、懲戒処分を受けない以外は、一定の給料とボーナスが定年退職まで支給されます。

その意味では、安定した職業です。

また、大阪では2000年に入ってからは、若手教員の採用も増えてきましたので、結婚する若い人に多く接する職場であったのです。

そのような職場ではあまり気がつきにくかったのですが、いま、日本の婚姻件数は2019年で約60万件です。しかし、大阪万博が開かれた1970年では約103万件でした。約50年間でここまで、結婚する人が減ったのです。

子どもの出生数は、この40年間で約190万人から約87万人までに半減以上減りました。

子どもをもつ1家庭あたりの子ども数も減っています。

結婚する人が減ったから子どもが少なくなる。

それが、少子化の流れの大きな特徴です。

では、今の結婚適齢期の人は結婚を望んでいないのでしょうか。

結婚しないたいう生き方を求める人も時代の流れとしてたしかにあります。それは尊重した上で、民間の調査では適齢期の男女の9割が結婚を希望しているができていないというデータがあります。

結婚はしたいが、相手を探す機会がないというのです。男性の7割、女性の6割に交際相手がいないという現実です。

昔なら、会社の上司や親戚が「おせっかい」もまじえ、誰かを紹介してくれることがありましたが、しかし今の時代は自分から積極的に動かないと、出会いの機会につながりにくいのでしょう。

また、結婚の条件として、多くの男性は安定した収入があることを考えますが、女性が最重要視するのは性格や価値観が自分と合っている人になります。

ここにも男女の考え方のズレがあります。

こういった現状から考えると、出会いの機会を増やすことと相手の人格や大事にしたいことがわかる婚活のしくみが必要になるのです。

その一つはITの活用です。いまの「マッチングアプリ」は、その必要性を満たす有効なツールになりそうです。

さらに、小中学生のころから子どもには、学校教育のなかで相手の人がらを知る活動や、何を大切に思うのかを交流しあう機会を設けることも、将来にむけて役立つのではないでしょうか。

自己開示をするのが苦手な子どもが増えており、個性を発揮することが難しく、同調圧力のなかで泳ぐ子が多い人間関係ではなく、自分を出しても安全で安心な集団に育てることが今日的な教育課題です。

サンゴ礁のSDGs教育わ

2021年12月13日 09時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ

サンゴ礁は沖縄の多くのビーチでふつうに見ることができましたが、最近は白化現象が起こっています。

地球温暖化の影響で、海水の温度が高くなりそれが続くとサンゴの骨格が透けてきて白く見えるようになってしまいます。

白化現象が長く続くとサンゴは死んでしまいます。

また、沖縄では砂浜から安全に入ることができるビーチは、一般的にいって遊泳ができるので生育場所が踏み荒らされます。

その結果、いま健全なサンゴ礁を見ることができるビーチは、残念ですが数少なくなっているそうです。

いまはSDGs(国連の「持続可能な開発目標」)の取り組みが世界で展開されていますが、サンゴ礁に関するSDGsとは、サンゴを保全しながら海を利用する取り組みになります。

学校教育関係者にとっては、業務上で沖縄といえば修学旅行ですが、修学旅行の中でSDGs教育を行えるビーチはさほど多くありませんが、宮古島にはあります。

カヤッファビーチです。ここでは熱帯魚の餌付けを禁止しており、自然のままの動きをします。

大きくなったサンゴはもちろん、石や岩にくっついて育つサンゴの赤ちゃんに触れないルールが導入されて長年になります。

シュノーケリングだけで100種類ほどのサンゴを見ることができるのです。

事前のSDGs学習をサンゴ礁の現実として学校で行い、環境を荒らさないようシュノーケリングでサンゴを観察する活動を修学旅行で行います。

帰ってきてから自分たちがサンゴ保全について、あるいはその他の環境保全に関してでも、SDGsとしてできることを検討する。

このような修学旅行の学習プログラムを展開できるのが宮古島です。

教職志望の学生が減っています

2021年12月12日 08時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ

いま、「教員になりたい」という教職志望の学生が減ってきています。

じっさい、教員採用試験を各自治体が行うと、競争倍率が3倍を割るようになってきています。

それにより、教員の質が低下するという懸念が生まれてきています。

この教職人気の低迷は、2018年のOECD国際教員指導環境調査(TALIS)で、日本の教員の時間外勤務が過労死ラインを超えていることが明らかになった結果報告を受けたのが端緒となっています。

学校は「ブラック」職場という認識が広がり、翻って民間企業への就職が好調な中、教職を敬遠する学生が増えていると言われています。

しかし、わたしはそれだけが教職不人気の原因だとは思いません。

大学の教職課程の担当者から聞くと、学校に求められる社会からの要請が多岐に広がるとともに高くなり、優秀な学生ほど「わたしには務まらない」という理由で教職を回避しているとのことです。

本来、教師と児童生徒の心のふれあい、子どもを真ん中において親御さんと協力し合い、子どもの成長にかかわれることから生まれるシンプルなやりがいなどが、教職の本来の魅力なのです。

しかし、いまは教師が「あれもこれもしなければならない高度な仕事」のように、学生には映るのです。

また、大学の教職課程の過密化も教職意欲を削ぐ要因になっている点も見逃すことはできません。

教員免許をとろうとすれば、たくさんの単位を取得しなければなりません。昔のように「教員免許もとっておこうか」と比較的容易に取得できた時代ではありません。

さらに、なにか学校での問題が大きく報道されると、「教員養成段階からしっかり教職を教えなければならない」と、ここ10年間ほど教職の単位取得のボリュームが増えてきたのでした。

それに追い打ちをかけるのが今回のコロナ渦の影響です。学費が高くなっているのにコロナ渦でアルバイトもままならず、これからも学生が教職課程をとってくれるかはきわめて不透明です。

文科省が、それならと教職の魅力を発信しようと軽々しく「#教師のバトン」プロジェクトのツイッターを立ち上げると、そこには教師の置かれている過酷な現実を示す書き込みで埋まっていくという現実です。

いまや学校現場がそれほど疲弊し、教員が教職に魅力をすでに失っているという現実認識が教育行政には必要なのです。

それでもわたしは、教職には大きな魅力があると思っていますし、教職を志す学生のサポートをしたいと思うからこそ、学校・教師に「あれもこれも」と求める要請を減らしていくべきだと考えています。

才能とは情熱をもちつづけること

2021年12月11日 12時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ
こんな言葉があります。

才能とは、情熱を持続させる能力のことである。(宮崎駿)

宮崎駿さんといえば、『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』などのアニメ映画の監督を務め、あまりにも有名です。

子どもたちが、将来これになりたいという夢を持つとき、多くの人びと次のように考えます。

この子にその才能があるだろうかと。

そこでは才能のあるなしがその道で成功するかしないかを左右すると考えます。

たしかにそうかもしれません​ 。
しかし、宮崎駿さんは情熱をもち続けることこそが才能だと言います。

はじめはみんなが「これになりたい」と思い情熱を燃やしたのではなかったのでしょうか。

でも、時間の経過とともに、その情熱をなくし、目標は夢に届かないことが多いのです。

長い道のりを歩き続ける持続力が鍵となるのです。

情熱を持続させることが才能であるという考えには納得がいきます。

中学生のような10代の子には伝えたい教えです。


相談できない(しない)子どもたち

2021年12月10日 08時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ


文部科学省の不登校に関する調査では、不登校になる前に児童生徒が相談した相手は家族がいちばん多く、約半数の子が相談しています。

しかし、不登校になる前に、教師やSC(スクールカウンセラー)に相談した子は、約1割程度で低迷しています。(2019年度に不登校を経験した児童生徒・保護者を対象に実施した調査)

この点だけをみると、専門的な教師やSCは相談相手として、児童生徒は頼りにしないという傾向がうかがえます。

SCは常時配置されず、学校に常駐しているのは、きまった曜日だけのこともあり、相談したくても学校にいないこともあります。

また、子どもからすれば、そもそも子どもが相談するにはふだんからの人間関係がなく「敷居が高い」ということもあるかもしれません。

そして、この調査結果を受け、教師はもっと相談相手として選んでほしいという印象を受けます。

ただ、小学生の場合、学校へ行きづらいと感じたのは「先生がこわい」という先生の存在が学校へ行きづらいきっかけになっている場合もあることが明らかになっています。

この点を改善しなければ、先生が相談相手には選ばれることはありません。

学校に行きづらいと感じたきっかけは、先生のこと以外に、「体の具合がよくない」「友だちのこと」「生活習慣の乱れ」などがあり、先生が小学生の相談相手としてもっと子どもから選ばれるようになるべきです。

中学生の場合は、思春期の重なりとともに、大人へ相談するのは、繊細な心の動きや心のひだを理解してくれる信頼できる先生でないと、子どもが先生を相談相手に選ぶことはありません。

ただ、とりわけこの調査でもっとも気になるのは、「誰にも相談しなかった」という子が約4割になっているという調査結果です。

一人で登校しづらさを感じて、一人で学校に行けなくなる(行かなくなる)子どもの胸の内、そのつらさを肌で感じとることができ、その子の力になりたいと思うおとなが必要です。

また、子どもが不登校になった保護者の心境は、「相談する相手がわからない」「なにか孤立無援のように感じる」という声に代表されます。

不登校は,多くの人が「生きづらさ」を感じる今の時代にあっては、誰もが学校に行けなくなっても不思議ではありません。

不登校の子どもの状況は多様で、それぞれにより支援のありようもかわります。

その子その子に応じた本人への支援はもちろん、保護者が「先生に頼ってみよう」と思えるような十分に相談できる体制づくりがとくに必要です。

子どもにあらわれる新型コロナウイルス後遺症

2021年12月09日 07時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「若い人は重症化しにくい」。

これは新型コロナウイルスで亡くなる高齢者が増えている時期に、一般的に言われたいたことです。

たしかに、重症化しにくく、若い人が呼吸困難になり人工呼吸器をつけるほどになることはきわめてまれで、軽症で回復します。

しかし、なかには深刻な後遺症に悩まされる若い子がいることは、教育現場から聞こえてきます。

新型コロナウイルス感染症にかかり治癒したが、その後長い間めまいの症状に悩まされる高校生。

軽症ですんだが、なおってからもとにかく体がだるい。味覚も元に戻らず、ものを食べていても、自分が自分でないような感覚を感じる中学生。終日寝て過ごす生活になり、2学期はほとんど学校に通えず、不登校状態になっている。

このように、若年層で新型コロナウイルスの後遺症に苦しむ子はけっして少なくはありません。

第5波では、ワクチン接種率が低かった若い世代に感染者が多く出ました。そして、若い世代では、味覚や嗅覚が元に戻りにくい人が多いと国の医療センターは言っています。

いま厚生労働省が「後遺症診療の手引き」を作成中と聞きます。

一部では、新型コロナワクチンを接種すると後遺症の症状に改善が見られたという研究もあります。

後遺症の治療法確立が望まれます。


見方をかえるとちがうことが見える

2021年12月08日 08時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「昨年の1回目の緊急事態宣言はショックが大きかったのです。

舞台芸術に従事する役者は、公演が突然キャンセルになりました。

舞台やミュージカルの公演がすべてなくなり、途方に暮れた役者さんも多かったようです。

でも、家で映画やドラマをたくさん見て、舞台芸術の研究して、エンターテイメントの素晴らしさをあらためて認識した人もいたようです。

そのことにより、今まで以上にモチベーションを高めることができた。」

このように、あるエンターテイナーはふりかえっています。

そして、これからもエンターテイメント、芸術は絶やしてはいいけないという思いを強くしたそうです。

コロナ災禍は、芸術家や役者に活動や自身を見直す機会を与えたそうです。

ものごとは、見方を変えるとちがった面が見えることがあるのだと思います。

そのあと、公演が再開できたとき、涙を流してその喜びを感じ、自分は演じることがこれほど好きだったことを実感できたそうです。

子どもに安心感を醸し出す教師

2021年12月07日 08時06分00秒 | 教育・子育てあれこれ


わたしが授業をする教師の様子を参観して、気になることがあります。

それは、教師のなかには視線を子どもに向けず、じっと伏し目がちになり、授業をしている人が気になるということです。

教師が子どもに向ける「まなざし」は大切な役割をもっています。

教師は子どもの目に敏感になり、子どもの目を見て気持ちをキャッチするのです。

そして自分の目を通して子どもに思いや考えを伝えるのです。

まさしく、「目は口ほどにものを言う」です。

教師からのあたたかいまなざしにより、子どもの心が救われるのです。

だから、授業中に視線は子どもたちに向け、アイコンタクトを働かせ、教室にいるすべての子どもに視線を向け、子どもを見ることができなければなりません。

ゆったりとした、余裕のある教師の姿は子どもたちに安心感を与えます。

落ち着きなくせかせかと授業を進めたり、自信なさげに視線を合わせない教師では、子どもが不安になります。

子どものスマホに悩む親

2021年12月06日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私は2000年頃に、勤務する中学校の全校生徒を対象に、家庭学習の時間とテレビ視聴の関係を調査しました。

それによると、家でのテレビやゲームの視聴時間が長くなるほど、家庭学習の時間が短くなるという傾向が見えました。

当然といえば当然の結果だったのですが、問題に取り上げたのは学年が1年から3年になるにしたがって、テレビ視聴時間が増えているという点でした。

そこで、保護者に対してこの結果を知らせ、中学生のテレビの見過ぎを減らすよう啓発しました。
同時に家庭での学習と学校での学習をつなぐ学習のシステムを校内教職員に提案しました。

さて、それから約20年がたち、このたびベネッセ教育総合研究所が行った調査(「子どもの生活と学びに関する親子調査」2015-2020)を見ました。

「子どものメディア使用をめぐる保護者の悩み」という質問結果では、テレビ、ゲーム、携帯電話やスマートフォンの3項目について、興味深い傾向がみてとれます。

子どもが小学生のうちは「テレビの見方」や「ゲームのしかた」に頭を悩ます保護者が多くいます。

ところが、「携帯電話やスマートフォンの使い方」は、小学生のうちはさほど高くないのですが、子どもが中学生になると一気に増えます。5割前後の保護者が悩むようになるのです。

なおかつ、中学生では「テレビの見方」に悩む保護者は学年があがるほど減ってきます。

もちろん、この調査は保護者に視聴時間を尋ねたものではなく、メデイアについての悩みについて問うたものですので、調査方法が異なります。

でも、子どもがメディアを使うほど学習に向かわなくなるのだから、保護者の悩みは増えるものと考えることができます。

一つ言えることは、この20年間で中学生が接するメディアは、テレビからインターネットにつながる携帯電話やスマートフォンにとってかわり、テレビを見る機会(時間)は減ってきたということです。

これだけインターネット端末が私たちの生活に深く浸透している現状があるので、携帯電話やスマ-トフォンを中学生に買い与えないのは現実的ではありません。

使い方のルールや自己情報の開示制限などを子どもが小さいうちから決めておくのがいいでしょう。

プラゴミゼロをめざして

2021年12月05日 17時06分00秒 | 教育・子育てあれこれ
京都府の北西部に亀岡市があります。

この市は全国的にも珍しい「プラスチックゴミゼロ宣言」を出しています。

令和3年(2021年)1月には、「プラ製レジ袋提供禁止条例」を施行しました。

先立って平成30年(2018年)には「かめおかプラスチックゴミゼロ宣言」を出しています。

亀岡市には、関西では名前の知れた急流を船でくだる保津川下りの保津川が流れています。

川下りの船頭が、大雨で増水したあとに河原に打ち上げられるペットボトルやレジ袋の山に、胸を痛め清掃を始めたのが、プラスチックゴミゼロ宣言の始まりでした。

その動きを知り、NPOが設立され清掃活動が始まりました。






それを後追いするように、市もプラごみ対策を始めました。

市は環境先進都市をめざすビジョンを市民に示して、それがプラスチックゴミゼロ宣言につながりました。

ただし、市が宣言を出し条例の制定に向かうと、そうすんなりと関係者が賛成したのではなかったのでした。

「お客さんが来なくなったらどうしてくれる」などの声が商店主からあがりました。

そのうちに、関係者の中から「市民がレジ袋を出さないことに了解すればレジ袋を禁止できるかも」という意見が出ました。

そこで市はレジ袋を出さないことに市民が了解することが決め手になるのでは、と考えました。

自治会を軸として、市は説明会を30回たらず開きました。

そして、条例制定のアンケートをとると、7割以上の住民が賛成しました。

このようにして、条例が制定される運びとなったのでした。

亀岡市はプラスチックゴミゼロ宣言以外に、パラグライダーの生地を再利用したエコバッグをつくり、市民が愛用するなどいろいろな取り組みを進めています。

その結果、市民の意識が高まり、マイバッグ持参は令和元年(2019年)の53.8%から令和3年には98%にまでなりました。

亀岡市の取り組みはSDGs(持続可能な開発目標)の12番「つくる責任、つかう責任」や14番「海の豊かさを守ろう」などに通じます。 

SDGsは本気になって、できることから始めていくのがいのです。

このような自治体の取り組みを児童生徒に教材として使い、SDGs推進教育を進めていくことができます。

将来の日本社会を背おう子どもたちに、持続可能な開発に理解を示し、実践していく態度を身につけてほしいと願います。








学校 対面でのコミュニケーション

2021年12月05日 06時37分00秒 | 教育・子育てあれこれ


学校での2020年度のいじめ件数(認知件数)は、2019年度の約61万2500件から2020年度には約51万7000件という結果(文科省調査)が出ました。

数字として、かなり減りました。コロナ災禍により、児童生徒どうしが関係し合う、授業時間、休み時間、クラブ活動時間等の時間そのものが減ったからという見方ができます。

ところが、その一方で不登校は増えました。学校を30日以上欠席して、いわゆる「不登校」と見なされる児童生徒(小中学生)は約19万6000人で、前年度よりも約1万5000人程度増えました。

コロナ災禍は、大人に対してでもさまざまな影響が与えていますが、子どもの場合はなおさらです。不安を感じた児童生徒が増えたためと考えることができます。

くわえて、さらに見過ごすことができないのは、自殺した児童生徒(小中高)が増えているという事実です。415人という過去最多の数字が出ています。

目下、学校の教職員は引き続き学校での感染防止に努めていますが、教師は今後よりいっそう児童生徒の心情に寄り添う必要があります。

いまの生徒指導上の大きな課題は、指導の対象とするエリアが基本的に学校という空間(ときには家庭・地域)に限定されていたのが、インターネット空間にまで広がってきていることへの対応です。

児童生徒も、従来なら学校で起きた友だちとのトラブルや問題は、ひとまず家に帰ればかかわりから外れていました。

しかし、いまや家庭に帰っても、SNSをはじめとしたインターネット空間で24時間中友だちとのつながりをもちます。

そこでの悪口中傷も起きるのが現実です。

学校はオンラインで児童生徒が授業を受けるようなインターネット空間を利用しますが、その画面からははかることのできない現実を児童生徒は生きているのです。

こんなとき、必要なのは対面での家庭訪問であると思います。

新型コロナウイルスは、学校関係者にオンラインの利用を促しましたが、対面でのコミュニケーションを忘れないように再度警告しているように思います。

誰が育てた子どもか 

2021年12月04日 08時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ


来年4月から小学校に入学する予定の子に、自治体が「就学時健診」を行うことが多い季節です。

私も、その健診のお手伝いとして就学を予定している年長さんの子に視力検査を行います。

保護者同伴なのですが、「ほら、よく見て」「まるがかけているところがあるでしょ。うえがかけているなら、指を上に出すの」と一生懸命に手助けをする親もなかにはいます。

子どもを思う方向にひっぱろうとするのです。「いい子」、「できる子」。それに成功した人が「いい親」と見なされるのです。

今までの日本社会では、子どもたちは親をはじめ、近所の人、地域の人など多くの人たちに囲まれて、もまれて育ちました。

いまほど子どもを育てる親の責任が大きくなかったのでした。

この子育て文化の時代を知っている人は、だんだん少なくなり、やがてはほとんどの人たちが知らない時代になっていくのだろうと思います。

多くの大人に囲まれて育った時代では、この子は誰に育てられたかは、あいまいで不明瞭でり、それが許された社会だったのです。

でも、いまは親と、あと少人数の大人が子どもを育てる時代で、この子は誰によって育てられたかが見えやすくなっています。

とくに親の育て方がうまい、へたであるが直接子どもに現れてしまうのです。

だから、親はある種の強迫観念をもつことがあります。

「ありがとう」やあいさつが言えない。この子の親は誰?となるのです。

だから、親はわが子を「うまく育てないといけない」と、一生懸命に子どもをいい方向に導くのです。

子どもは多くの人に囲まれて自然に育つのではなく、意図的に育てる存在になってしまったのです。

子どもは自分からはまだわからないことが多いから、親のわたしがちゃんと導いてやらないといけない。

でも、やりすぎはよくありません。子どもの心身の健全な発達に悪影響をあたえ、子どものやる気をそいでしまうことになると自重すべきです。

成長途上にある子どもにとって、停滞や失敗は成長への糧です。

生きていることとは

2021年12月03日 08時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ

この頃の寒さが増す夕暮れの夕焼けは、しみじみとその美しさを増すように思います。

空気がピンと張り詰め、オレンジ色も心なしかその色を増すようにも思います。

さて、日本では19歳以下の自殺者の数は、1998年(平成元年)以降で最も多くなりました。

コロナ災禍も関係しているのかもしれません。

これは他の諸外国では見られない傾向です。

なぜ、日本では若い人が生きづらいのでしょうか。

死に急ぐ若者がよく口にするのが「生きている価値がない」です。

わたしは、よく教職員に「いまの中学生は自分に自信をもてない子が多い。だから、自分も周りに役立つという実感を深めるようサポートしてください」と説いてきました。

中学校の職場体験学習などは、仕事を体験して、お客さんから「ありがとう」と言ってもらったり、お店や事業所の人から「よくやってくれた。助かったよ」と言ってもらえます。

それが中学生の役立ち感を高めることになり、自分も将来社会に貢献することができるという実感をもち、自分への自信を高めることにつながる。

このように説明してきました。

それは真実ですが、では役立ち感を感じずに学校へ戻ってくる生徒にとって、職場体験は無駄なことだったのかといえばそうではありません。

自分が働く主体として、人として生きていくことを経験するだけでも大きな意味があるのです。

しかしいまは、過剰なほど世間や社会が若い人に「まわりや社会に役立つ」ことを求めすぎているのではないでしょうか。

文科省も、経済産業省の要請を受け、society5.0社会を見据え、学校教育に社会に役立つ人材の育成の役割に重きを置いています。

でも、人間は社会に役立たないと生きていてはダメなのでしょうか。

そんなことはありません。人は生きているだけで尊いのです。

生きていて、周りの風景を見て、きれいな夕焼けを見ることができる。そのような生きている価値に気がついてほしいのです。

周りの大人は、もっと「今日の夕焼けはきれいだったね」「彼岸花が燃えるように咲き誇っている」「星が降るように見えている」・・・のような言葉を中学生にかけるのです。

自然や動物・植物など、この世界のすべてのものを見たり、聞いたり、感じたりする。

それらの対象物と自分との関係の中で自分が生きていることを感受するのです。

桜が満開な中、正門をくぐると、桜が「いらっしゃい。入学おめでとう」と、満面の笑みでささやいているように感受する。そのような関係性の中で、自分が生きていることを味わうという感覚です。

自然だけではなく、心がいろいろなしがらみから解放され自由であるという実感も生きている価値を味わえると思います。

生きるということはそういうことだと思います。