梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

母性は神話か

2010-08-01 16:11:49 | 日記
大阪で起きた事件は私たちの年代では信じられない事件だが思い返してみると此処数年の間に同じ様な事件は随分起きていた、子供を残して1週間家を空けて遊んでいた事件、炎天下に止めた車に幼児を置き去りにしてパチンコに興じて居て死なせる事件、夜泣きがうるさいからと床に叩きつけた事件、何れも我々には理解の範疇を超えている、今回の事件も確かに公的な機関の対応は難しいだろう、何処まで介入できるかと言う事はケースバイケースになってしまう、母親の親は未だ50歳に届いて居ない、「気になって電話を入れたら、頑張っていると言っていたのに」と言うコメントが読売新聞に載っていた、メールに子供の写真を載せて送ってきていたらしい、しかし自分はホストに入れ込んで複数のホストと泊り歩いていたと言う、妹の所に泊って居た時は「実家に預けている」と言って居たらしい、「死ぬだろうと思っていた」と本人が言っているそうだ、置き去りにして3カ月だ、当然子供の死は認識していただろう、全く解らない、(死ぬかもしれない)から(死んでしまっただろうな)と確信した時から彼女の中で何かが壊れたのだろう、子供の死体が発見されるのはそう長くは無いと言う事は自覚した筈だ、(もう、取り返しがつかない)と思って逃げる様に遊んでいたのだろう、この3カ月弱は恐らく此れから入る事になる牢獄より苦しかったのではないだろうか、しかしそこに至る経過が全く我々には理解出来ないのだ、子供は全てを親に頼っている、無条件に安心して腕の中で眠る赤子を見た時に感じる幸せは(この信頼を絶対に裏切れない)と言う気持ちにする、少なく共私はそうだったし、他人の子供でも腕の中で寝ているのを見ると幸せな気持ちになる、数年前に北陸の方だったか、実の子供に保険を掛けて崖から落とした母親が居た、犯人が分かった時警察が「殺人事件が起きた時先ず母親は嫌疑の外に置く、此れからの捜査は根本から意識を変えないとならない」と言っていた記事を見たが、何時頃からだろうか、日本がこんな風になってしまったのは、耐える事が出来ない、耐えなければならないのは全て理不尽だと言う風潮がある、自由と勝手を履き違えていると思う、此の事に関して私は思う事がある、戦前の教育を受けて居て敗戦を経験した年代が大きな溝になっている様な気がする、その子供達とさらにその子供達が自由と勝手の区別が無いような気がする、戦前教育で「神国日本・天皇は現人神、」と言う様な帝国教育を受けて来て終戦になったら突然全く反対の教育になる、教師は昨日言って居た事と全く反対の事を「これが正しい」といって憚らない、無論そう言わなければ敗戦政府に捕まってしまうから仕方ないのだが、子供達は全く拠所を無くしたのではないだろうか、今まで無かった自由と言うものを把握する事は無理だったのでは無いか、自由はある一定の規範に従って居る、何をするのも責任が伴って居ると言う事だ、日本の教育は常に先に責任が有ってその後に負う事の出来る範囲での自由と言う方向で教育されていた、それは江戸時代以前から連綿と続いていた物で有るがアメリカ式の自由とは発想の原点が違って居た、この世代は今まで絶対として教え込まれた事を悉くと言って良いほど否定されたはずである、価値観を形成する時期にこの洗礼を受けた人達には自由と言う責任を理解していない、そしてその過程で育った子供の考える権利と責任は権利だけ独り歩きを始め、更に増幅してしまったのではないか、幸い私達の年代は親が完全に戦前教育だった、そして学校教育は戦後であり、両方の教えと考え方を知る事が出来た、まあ若い教師は日教組の関係か社会主義に偏った人もかなり居たがそれでも冷静だったろう、何れにしても産まれたからには生き続けなければならない責任がある、自由を標榜するには他人の自由を妨げる権利は無いのは当たり前の事で自分の思うがままと言うのは「我が儘」と言う言葉で解る通り社会に生きる以上はあり得ない、その為に幼い頃から少しづつ堪える事を教えておかなければならない、しかし今となってどうやって此れを是正すればいいのだろう、