余り祭りは好きではない、子供の頃は随分貧しかった、しかしそれ自体を「辛かった」と言う様な思い出ではないのだが「お祭り」を余り好きでないのは恐らく貧しかったせいだろう。
父親はこの村の生まれだがやはりかなり貧しかった様だ、農村で土地を持たないと言うのはそれだけで充分に見下ろされる要件である、
未だ農地解放以前だから当然小作人は居たと思うが親父は末っ子の為か東京で軍需工場に就職した、
中島飛行機と言う陸軍の戦闘機を作っている会社で群馬県の太田に大きな工場が有ってそこで機械工として働いていたらしい、そこそこ認められて主任になったと言うが全て自称だから正確なところはわからない、
アルバムを見ると柴又帝釈天の写真があったりその後横浜の山手に住んで居たりしたらしい、
貧農の小作人が軍需工場である程度の地位になった事は田舎の村に戻った時に疎まれるのに十分な性格になっていた様だ、
終戦直前に子供と妻(母)をこの村に疎開させた時も未だ羽振りが良かったのだろうが敗戦で職を失って村に戻ると小作人の子供は気位だけ高い鼻持ちならない人間としての処遇が残ったらしい、
村でただ1人の配給米支給を受けて、更に私が小学校に入る頃「生活保護」を受けていた事は充分に「半人前」の村民であった。
村に秋祭りが有って村組合費と寄付で甘酒と赤飯に煮しめが配られる、その外に子供達には新聞紙に丸めたお菓子が配られるのだが何も解らない子供だった自分と5歳上の姉も村のお宮でこのお貸しを貰った、
大人達がどう言う顔をしていたか記憶には無いのだがお菓子を貰ってお宮の坂道を降りていったら同級生の何人かに囲まれて「寄付も組合費も出さないで貰う物だけは貰うのか」と言われた、
その時の自分は恐らく未就学児だったと思う、しかし姉は相当辛かった様だ、
親父は「そんな事を子供が解るわけは無い、家で親がそう言う話をしているんだろう」とその家に怒鳴り込むと息巻いたが母が「それだけは」と押し止めたのだが結局その後はお祭りのお囃子を聞いても足は向かなくなってしまった、
各地域で行う小さな祭りの他に4年に一度村全体で「大祭り」がある、その時は各地域から山車がでて大宮と言っている八幡様に集まる、旅芸人や村の青年団が出し物をしたり神社と参道に出店が並び着飾った女の子や法被姿の青年から子供も山車の縄を引いた、
この大祭りは我が家の実情を知る様な人は居ても少数なので気兼ねなく楽しめるのだが子供達は祭りの小遣いを貰って出店で色んな物を楽しむが我が家ではそんな臨時出費は出しようも無い、姉達に母が手縫いの着物を作り数年着回すのがやっとだった、
子供の私には実は此れが一番辛かった、青年団の出し物を見たり友達と走り回っても短時間で家に戻らなければならなかった、乾いた未舗装の道を祭囃子を背中に聞きながら家に帰る時の寂しさを未だに覚えている、
東京に来てもやはり駄目でこっちはあまりの人の多さがどうにも耐えられないのだ、なにしろ産まれて育った所は一番近い隣の家まで1km離れているのは当たり前で真昼間だったら誰にも会わないで村を縦断出来たりする環境だのだからこのひとごみは中々慣れない、遊びに行くとしても結局公園や神社仏閣などの見学が殆どで人が多いところは映画館やスケート場だったという筋金入りの田舎者だ、それでもう東京に出てきて50年が過ぎ様としているがそれでも相変わらずひとごみは苦手だ
父親はこの村の生まれだがやはりかなり貧しかった様だ、農村で土地を持たないと言うのはそれだけで充分に見下ろされる要件である、
未だ農地解放以前だから当然小作人は居たと思うが親父は末っ子の為か東京で軍需工場に就職した、
中島飛行機と言う陸軍の戦闘機を作っている会社で群馬県の太田に大きな工場が有ってそこで機械工として働いていたらしい、そこそこ認められて主任になったと言うが全て自称だから正確なところはわからない、
アルバムを見ると柴又帝釈天の写真があったりその後横浜の山手に住んで居たりしたらしい、
貧農の小作人が軍需工場である程度の地位になった事は田舎の村に戻った時に疎まれるのに十分な性格になっていた様だ、
終戦直前に子供と妻(母)をこの村に疎開させた時も未だ羽振りが良かったのだろうが敗戦で職を失って村に戻ると小作人の子供は気位だけ高い鼻持ちならない人間としての処遇が残ったらしい、
村でただ1人の配給米支給を受けて、更に私が小学校に入る頃「生活保護」を受けていた事は充分に「半人前」の村民であった。
村に秋祭りが有って村組合費と寄付で甘酒と赤飯に煮しめが配られる、その外に子供達には新聞紙に丸めたお菓子が配られるのだが何も解らない子供だった自分と5歳上の姉も村のお宮でこのお貸しを貰った、
大人達がどう言う顔をしていたか記憶には無いのだがお菓子を貰ってお宮の坂道を降りていったら同級生の何人かに囲まれて「寄付も組合費も出さないで貰う物だけは貰うのか」と言われた、
その時の自分は恐らく未就学児だったと思う、しかし姉は相当辛かった様だ、
親父は「そんな事を子供が解るわけは無い、家で親がそう言う話をしているんだろう」とその家に怒鳴り込むと息巻いたが母が「それだけは」と押し止めたのだが結局その後はお祭りのお囃子を聞いても足は向かなくなってしまった、
各地域で行う小さな祭りの他に4年に一度村全体で「大祭り」がある、その時は各地域から山車がでて大宮と言っている八幡様に集まる、旅芸人や村の青年団が出し物をしたり神社と参道に出店が並び着飾った女の子や法被姿の青年から子供も山車の縄を引いた、
この大祭りは我が家の実情を知る様な人は居ても少数なので気兼ねなく楽しめるのだが子供達は祭りの小遣いを貰って出店で色んな物を楽しむが我が家ではそんな臨時出費は出しようも無い、姉達に母が手縫いの着物を作り数年着回すのがやっとだった、
子供の私には実は此れが一番辛かった、青年団の出し物を見たり友達と走り回っても短時間で家に戻らなければならなかった、乾いた未舗装の道を祭囃子を背中に聞きながら家に帰る時の寂しさを未だに覚えている、
東京に来てもやはり駄目でこっちはあまりの人の多さがどうにも耐えられないのだ、なにしろ産まれて育った所は一番近い隣の家まで1km離れているのは当たり前で真昼間だったら誰にも会わないで村を縦断出来たりする環境だのだからこのひとごみは中々慣れない、遊びに行くとしても結局公園や神社仏閣などの見学が殆どで人が多いところは映画館やスケート場だったという筋金入りの田舎者だ、それでもう東京に出てきて50年が過ぎ様としているがそれでも相変わらずひとごみは苦手だ