大砲の上にしゃれこうべがうつろ目をひらいていた
しゃれこうべが ラララ いうことにゃ鐘の音も聞かずに死んだ
「しゃれこうべの歌」と言うこの歌詞を中学の2・3年を担当した教師から教わった、覚えていたのは後半の「しゃれこうべが ラララ いうことにゃ 鐘の音も聞かずに死んだ」と言う下りだけだったので調べて見たらイタリアのシチリア民謡だと言う、この他にも
「オレはモグラ、楽しいモグラ 勤め終えて家に帰る、今宵さやか月明かりに我が古巣へ帰らなん あ~樽前の麓 支笏湖の辺へ」と言うのがあった、これはなんだか分らなかった、
彼の先生はどの大学を卒業したのかは覚えていないが教師としては最初の赴任だったと思う、年齢は恐らく20代後半だったのではないか、
学生時代に歌声喫茶が流行っていてしょっちゅう通っていたそうでそこで歌った歌を授業時間に生徒に教えるのである、
専任は国語だったがクラス担任なので「道徳」の時間や課外授業の時間にこんな歌をみんなで歌った、
お決まりのロシア民謡から「北帰行」や「惜別の歌」もこの先生から教わった、眼鏡を掛けた小柄の教師だったがそれ以外の印象は余り無い、
自分はこの先生には嫌われていたらしい、まあ自分で振り返っても可愛げの無い子供だったから仕方ないのだが担任教師より隣の担任の体育の先生や美術の先生には好かれていたような気がする、
自分が嫌われていると知ったのは修学旅行の終えた頃だった、私には男女を意識しないで仲良くしていた女生徒が数人居たのだが彼女達から学校の帰り道で教えて貰った、
今なら問題になるのだろうが当時は修学旅行で引率の教師と何人かのPTAが同行し夜は酒盛りになるのが常だった、
消灯時間近くに見廻りに来た担任の先生が女子の部屋で少しの時間話しを下らしい、そのときに生徒名を名指しで「オレが好きな生徒は」とガキ大将的な名前を数人上げたうえで「あいつは好きじゃないな」と自分の名前を上げたらしい、
彼女達は「好きな生徒の名前位はともかく、嫌いな生徒と私たちに言うのはおかしい」と憤慨して教えてくれたのだが、自分は(ふ~ん、そうか、そう言われればそんな感じだな)と思った記憶が有る、彼女達になんと答えたかは覚えていない。
しかしこの事は卒業して時間が経つに連れて澱の様に心の中に残って来て同窓会に出ても先生の前に行く気は無かった、
それからもう50年がなんなんとしている、その間同窓会も殆ど顔を出さなかったのだが、もし壮健にしているなら80近いはずだ、時々来る同窓会の誘いも40代に一度行ったきりだがその時先生は来ていなかった、
65に近くなってもし同窓会で会う事があったらそんな事はすっかり忘れて懐かしく話が出来そうな気がするが、やはり尾羽打ち枯らした今ではちょっと敷居が高い、まあそれほど遭いたいやつもいないから行くことも有るまいとは思うな