梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

気遣の要求

2013-05-26 08:53:06 | 雑記
武洋匡氏が銀座のイタリアンレストランを予約したが車椅子では入れなかった事をツイッターかフェイスブックに書き込んだという記事を見た、
読んだ限りではこの店は2階にある小さな店で二人で切り盛りしている上、エレベーターが有るが止まらないと言う、乙武氏は「人で運んで欲しい」と頼んだが「二人しかいないから無理です」と断られたと言う、そのことに関して「車椅子の客を拒否した」と言うニュアンスでツイートしていた様だがこれは若干違和感がある、
電話した時に「車椅子は入れないならそう言うべきだ」と言う様な事だったが電話予約に対して「車椅子では無いですか?」と聞く方が失礼に当たるだろう、小さな店舗では階段しかない店は結構ある、人気のある隠れた名店等と言う店は特にそう言うケースがある、
乙武氏は何かの情報で人気の店だと聞いて予約したというがその際店の位置情報は調べなかったのだろうか?もしそうだとしても自分の状況は車椅子であるという事を告げるのは乙武氏の責任ではないだろうか?
もしかしたら彼の中に「乙武洋匡だと伝えたのだからそんな事は当たり前だ」と言う意識が働いたのではないだろうか、彼の事は私は知っているしすごい人だと思うが日本人全員が知っているとは限るまい、知らなくても決してその人の落ち度ではあるまいと思うし、仮に知っていても営業中に予約電話を受け付けた時に思い至らなかったとしても責められる問題ではないだろう、小さな二人で営業している店では忙しい事は言うまでもないのだ
私にとってその後の言動は今までの乙武洋匡と言う人間の素晴らしさを半減させるのに十分だった、奢りと言うのには当たらないかもしれないが「謙虚さ」はどんな人にも重要なファクターだと思う
互いに気遣いをする事は世の中には重要で現在はそれが減少し彼方此方で摩擦を齎している、電車に乗るベビーカーの問題も出ていたが互の思いやりで成り立つ物だが互いにあるのは自己利益の主張だけに終始する、その為に数多な事件すら起きている、
「出来るだけの事をするのは当たり前」と考えるのは人間として当然のことだが「してくれるのが当たり前」と思った時点で、あるいはそれが相手にわかった時点で感情は拗れてしまう、
仏教では「施す」と言う言葉を嫌い「喜捨する」と言う、それは見返りや優越感の為ではなく喜んで捨てると言う意味だろう、無論捨てると言う言い回しにも若干の違和感もあるが少なくとも「施しを授ける」と言うより気持ちとしては尊いだろう、
気遣いは要求するものではなく受けたときに「有難い」と思うべきものではないだろうか