生まれつきの少し茶色の髪を黒く染めさせた学校、そして不登校となり中途退学した生徒の「存在」を名簿から消し去った学校を訴えた訴訟の判決が、なんと「学校教育の裁量の範囲内」として認め、ただ名簿から消し去るなどは人権侵害であるとした。この裁判官の全体主義的な国民性丸出しの思考を考えよう。
学校で教師が毎日様々な課題に追われ、教育委員会からの圧力にくたびれていることは理解できるが、校則で生徒を一羽一絡げにして、楽に扱おうとするのは教育とはちょっと違うだろう。半世紀前の教育現場には「人権」というのは無かった。私が出た山口高校では古典を教える教師に「高校生に人権はない」と言われたことがあるが、当時学生運動の起爆剤となったのは、自民党政治が「民主主義」を無視して、日米安全保障条約を堅持するために、反論を排除し続けたからだが、今もあの頃の校則の内容とちっとも変わらない現状に失望する。
やはり御都合主義が蔓延したままのこの国は、何時まで経っても「人権意識の欠如」「女性差別」からも抜け出せないでいる。
何処にこうした問題の「根」があるのか・・・。もう鶏が先か卵が先かの話で、繰り返すスパイラルはクルクル回り止まる先を知らない。言うまでもなく卵は「子供たち」で鶏は「大人たち」である。
校則で「型にハメられた」子供の思考は押し付けられた紋切り型のものであり、自主的に考え選択する思考は許されていない。そこに既にあるものに従う隷属的な個体が求められているのだ。だから何かおかしいと感じても、それ以上は「思考停止する頭脳」に仕立てられているのだ。この方針は自民党や経済団体が求める「隷属的労働力」に他ならない。そうだ80年代には「文系は労働力、理系は労働資本」と言われて皮肉られたものだ。だから当時も教育は1+1=2であり、これを3や4に考える思考は教育の裁量の範囲内から逸脱した考えとされたのだ。
1+1=3と答えたら「違うだろ!!ばかか、おまえ!!」と言われ、何故1+1が3になるのか聞いてみる手間を教師は省くのである。だが本当の教育は何故3になるのか説明させることが当人の自主性を大事にし、独りでも考え責任を負うことを学ぶ機会なのである。
一部の中学校では、既存の校則を改めて「生徒に校則を作らせる試み」を行っている。ここで生徒に聞くと、「自分たちで作った校則だと、守らなければならないから緊張する」とのことであった。これです・・・これが大事なのです。
それまで自分との関わり合いが無かったことが、いきなり自分との関係性を考えることにつながり、教育になるのです。教師の手間はほんのちょっとで済む。日頃に授業にも影響があるだろう。自主性を考えるうえで「自分との関わり合い」が授業内容と自分の将来とのかかわりを考えるのは大事だ。
私は美術を選んだけれど、家に美術書はなかったが、美術の教師が下手糞な芸大時代のデッサンを見せてくれたおかげで「これなら私も行ける」と思わせてくれて(実際には東京造形大学に入学したのだけれど)いつの間にか本気になった。
教師の仕事は生徒を「その気にさせる」ことでしょう。校則なんて形式で良いのでしょう。ナニー!!パンツの色まで決めているのか!!スケベー教育委員会爺じじいめ!!女の子の髪を結んでうなじを出してはいけない!・・・年頃の男の子は「発情するから」だってさ。発情するのはじじい!おまえだ!!