日本人の防災意識について、これほど災害の多い国でどうして合理的な解決が出来ないのか、これまでも述べてきたがその欠陥は明らかだ。やはり教育の問題にたどり着く。将来起きる東南海地震では50万人を超える死者が出ると予想している。つまり、現状のままであれば50万人の命が奪われる。これから何をすべきか考えよう。
多くの人に自分で考える個人が存在しない。考えるとき、他の人はどう考えるかを重視する・・・忖度主義が見える。自分で主体的に考えれば少なくても今住んでいるところが自然災害である「地震」「火災」「台風」「水害(大雨、洪水、土石流など)」「火山噴火」「火災」また「感染症」などが起きた時、どうなるのか考えないバイアスがある。「自分は大丈夫だ」と科学的根拠もなく、それ以上考えないから原発事故も起きた。これは自然災害より防げたはずの人為災害だ。「14mを超す津波は来ない」「だから電源喪失はない」と一時的な経費を払うことをケチったせいで、何百兆円も無駄が生じている。当事者は反省せず責任転嫁しているだけだ。
自分を守るのは「事が起きて責任を問われた時」だ。それを「謝罪」で済まそうとするのが日本の習慣だ。以前にも書いたが、ベルリンに住んでいた時、ある日本人学生が図書館で蔵書の一ページを写すことなく、破って家に持ち帰った。それを見ていた者が訴えたらその日本人学生は裁判で「やりました、初めてです」と言ったが「懲役9か月」を食らった。ドイツは応報刑主義で、「やったことに、それ相応の刑罰を科す」法治国家なのだ。初めてで謝罪したから、撤回したから済むこの国と比べられない。日本人青年は罪の重さを学んだかどうか・・・ただ運が悪かったと思ったか・・・9か月間、封筒貼りをやり続けて大分貼り方が上手くなったには違いない。
もし日本で責任を確実に取らされる社会に成ったら、すぐに頭を下げる「政治家、企業、役所」のトップは絶対に謝らなくなるだろう。人殺しも「やりました」とも言わないだろう。
しかし責任が「誠実さの証」であることを教えられない教師や親がいる限り。この国は「個人の権利、義務」は議論にも登らず放置され続ける。
災害に会うのが自分だけならともかく、家族が居たら大人の自分はどの様な責任を負うだろうか。弱い者は自分が守らねばと、どうするかを考えたら、東京から脱出した。10数年以内に東京直下地震が起きる確率40%と言われて久しい。なんだか起きないではないか・・・と考える者もいるだろうが、いくらこのコロナ禍の時に目の前の課題が地震よりコロナに置き換わってしまって、忘れられたときにまた福島宮城で震度6強の地震が起きた。現地の被災者は東北大震災の時より地震は大きかったという人もいた。最近起きる東北地方の地震は先の東北大震災の余震と、つまり抜けきれなかった地震のひずみの解放が今頃あちこちで頻発しているらしい。忘れた頃やってくる。
熊本では数年前の熊本地震と同時にコロナのパンデミックが町を襲ったときの対処を想定して取り組みを行っている。これはとても真剣な気概を感じさせてくれる。人の命が最大限に脅かされていると認識した証だろう。これを子供たちに見せ参加させるべきだ。日頃から大人が真剣になって何かをするところは見たことがない子供が多いのだ。何かを感じ、何かを考えることの経験は未来を作るだろう。学校教育とは全く違う価値がある。
兎に角大事なのは「自分で考える力」を身につけることだ。その教育が必要だと、この原稿の前の「校則について」でも述べた。
アメリカで起きていたトランプの暴言、妄言、虚言で「マスクはいらない、あれは風邪のようなもの」という言葉を信じてしまうのには「教育の格差」が認められるだろうが、個人の中で合理的な根拠を大事にする人格は「自由の国」を強調するアメリカでは育ちにくいだろう。しかし「自由」にも限度があることは日本の法律にもあるように社会秩序を保つための法律は民主主義国家を形成する以上定めがある。要は社会性を身につけるだけの機会があるかどうかだろう。
その機会こそ教育現場でなければならない。
防災は自然災害、人為災害の一つ一つを取り上げて、その性質を知り、被災内容を知り、対応策を考えなければならない。面倒でも自分の命、人の命にかかわることだ。こればかりは「嫌いなこと」であっても自主性が必要だ。
しかし子供たちが学んでも、実行しない大人では困る。まず責任を負うのは大人だ。
次は私が行った職場での「防災」ついて書くことにする。