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少し体が鈍ってしまったので、昼には帰る約束をして朝食後にいつもの山に向かった。
いつもの景色。
ただただ淡々と歩く。淡々と歩きながらずっと考え事をしている。
標高差500m弱、距離往復4キロ弱を2時間半。遅いが早さを競う競技じゃないと自分を誤魔化している。
頂上で食べる食事タイムだけはとても楽しい。
岩に根を捻じ込み必死に生きる針葉樹とその松に根を食い込ませる紅葉樹。
自然は厳しい。
厳しい中で生きている。
Panasonic tx1
いつもの景色。
ただただ淡々と歩く。淡々と歩きながらずっと考え事をしている。
標高差500m弱、距離往復4キロ弱を2時間半。遅いが早さを競う競技じゃないと自分を誤魔化している。
頂上で食べる食事タイムだけはとても楽しい。
岩に根を捻じ込み必死に生きる針葉樹とその松に根を食い込ませる紅葉樹。
自然は厳しい。
厳しい中で生きている。
Panasonic tx1
かっては人間世界は厳しかったのでしょうが、今は自助・共助・公助に順になっています
自然の中では、生きていくのにはたとえ大木でも厳しいですよね 先ずは日光の奪い合い・・自分より背の高い木が育たないように、自分の周りは日陰にしないといけない。土が少なければ、生きる為にはこんな風に頑張って根を張らないといけない。 次の世代へ繋ごうと思っても、種がうまい具合に倒木の上に落ちなければ土中の細菌にやられちゃうし・・・
お魚も海亀もあんなにたくさん生まれても、育つのは何千分の一か何万分の一か・・・結局は強くて運のいい遺伝子だけしか生き残れません。
そう考えると、実は人間って、成熟するまでの淘汰率が低くて本当は生きやすいのかなって思います。 生きにくい世の中とかすぐ考えるけど、本当は守られてる部分が多いんじゃないかと思ったりします。 少しばかりボンクラでも、ちゃんと生き残れるのは人間くらいかも・・・
人間って、捨てたもんじゃあないです。
自分たちが自助共助と言うなら納得ですが、政治家が言うのはどうなんでしょうかねえ。
順番が間違えちゃいましたね。
政治はそうですが、現実問題自助共助は大切です。
昔は近所が助けてくれました。
自助だけでは何もできませんが、各々が意識を持っていくことで皆がその方向に行くってことがあると思います。
この岩のサイズは木の赤ちゃんにとっては巨大だったはずで、最初は岩の上に残った少しの土や堆積した枯れ葉に根を生やしたのかと思うんです。
脆い岩だったので少しずつ根をこじるように生やしてその隙間に雨や枯れ葉などが残り、またこじるように根を伸ばしてここまできたのかもしれないと思うと、なんて健気なんだろうと思います。
izumiさんがおっしゃるように日光はじめ多々な条件が揃って今があるんだと思いました。
本当に、人間て捨てたもんじゃないと自分のこれまでの生き方を見ても思います。
運もあります。これは木々の日光と同じで努力しても北向き斜面じゃ当たりませんし、吹き曝しの場所では養分も削ぎ落とされてしまいます。
僕も偶然に偶然が重なりボンクラのまま今それなりに生きています。人間万事塞翁が馬。そのまんまの人生も悪くないなと思います。
別に何か学ぶ必要を感じなければ無理に感じる必要なんてないですよ。
何かを感じる人は助けを求めているんだろうと思います。
必要ないのだから感じるものはなくて当然じゃないかなと思います。