12月31日(金)
30日木曜は、夕方になって「洗車に行こうか」と思いつき、車を出す。
2,3台は待っているかもしれない、と覚悟の上で行ってみた。
5,6台かそれ以上が列を成して待っていた。
どうしようかとちょっと悩んだ。
洗車自体はみんな数分で終わるだろうけど、拭き上げる場所がまた順番待ちとなる。それにもしかしたら、水洗いだけでなくワックス洗車をする車もあるかもしれない。(なかなか車列が動かなかったところを見るとどうもそうらしい)
そんなことなら、と意を決してスーパーマーケットに向かう。
大晦日の晩から正月三箇日の朝夕は御神酒をいただくことに決めている。屠蘇散は用意してあるから、あとは酒の肴だ。
ところがスーパーマーケットも駐車の順番待ち。
考えてみれば、洗車よりこっちの方が混雑するのが当たり前。
これもアウトか、と早々に見切りをつける。
しばらく停滞していたが、徐々に動き始めた牛歩並みの車の流れに乗って、そのまま帰るつもりでいた。
どうしたことか流れの先に一台分空いている場所がある。
怪しみながら流れに乗ってそこに近づくのだが、入ろうとする車はない。どうやら、前に居るのは買い物を終えて帰る車ばかりらしい。
勿論すぐに方針変更して車を停め、買い物に。
「数の子」だとか喜「昆布」だとか、「腰が曲がるまで」と海老を買う、なんて縁起を担ぐ気は全く頭にない。何しろ祝箸さえ買わなかった。
さて、遂に令和3年の大晦日。
昨年に引き続き、地元の神社の手水舎は水が停められている。言うまでもなく新型コロナウィルスの感染を防ぐために柄杓も、水道の蛇口も使えなくしてある。
手水を遣わないで参拝をするというのは、祓え無しで神前に罷り出る、ということだ。穢れた身心のままで参拝、というのは失礼が過ぎる。
けど、柄杓や水道栓にウィルスが付着する可能性はあるわけだから、遣わない方が、というのは保健衛生面から言えば当然のこと。穢れを祓うために穢れる、なんて変な話ではある。
ただ、「神社に参って手水を遣う」、というのは略式の作法でしかない。本来なら下帯一枚、もっとちゃんとするならば下帯も取って足の先から頭のてっぺんまで水に浸からなければならない。水垢離(みずごり)というのがそれだ。あれは修行法ではなく、祓の形だ。
それからすれば略式の作法を行うことで却って穢れるというならば、いっそやらないで参拝する、というのが正しいのかもしれない。
何しろ昔は五十鈴川に宇治橋は架かってなかったらしい。参拝者はみんな川を歩いて渡っていた。それが水垢離、禊(みそぎ)だ。それが健康面に問題があってできない場合は代わりに水垢離をする代行業まであったとか。
おおらかというか、いい加減というか。それでも参拝に来る心根こそが尊い。うん、「牛にひかれて善光寺参り」なんてのも、結果を考えれば同じことか。
あ、また脱線してしまった。
もう1時25分だ。一応寝て、今日午前中に余裕を持って洗車に行こうと思っては、いるのだが、どうも朝から相当に冷え込むらしいし、天気予報には雪だるまが並んでいるし。
洗車に行くこと自体諦めて、フロントガラスだけ拭いておこうか。
・・・・・なんて軟弱なことを考え始めている