CubとSRと

ただの日記

表意文字についてのメモ

2022年01月30日 | 重箱の隅
 表意文字について書いた日記を並べてみた。
 こういうことをするのにPCというのは本当にありがたい。

 日記に書いただけならもう大袈裟でなく何十冊ものノートを引っ張り出して酷い字で書かれたものを眺め直さねばならない。それをやると引っ越しや終活の大整理大会をやっている時と同じく、つい脱線して関係のない記事まで読み始めてちっとも先へ進まない。
 PCなら一瞬で探し物が分かるから、そういう心配はない。
 まあ、それはそれで「好事、魔多し」。代わりにもはや死語となってしまった感のある「ネットサーフィン」に嵌ってしまうんだけど。

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 (彼の国は)漢字があるんだから新造語くらい自分らで作れそう(翻訳できそう)なものだけど、漢字は本来、個々を即物的に表すだけのものだから、考えたり説明したりする時には随分と使いづらいもの(らしい)。
 人口の一割(教養人)しか字が読めず、読めても個々の文字には色んな概念がないから複雑な説明ができず、仕方なしに日本で作られた翻訳語を使う。
 外来語を翻訳して使う以前に表記法が漢字しかないもんだから、あてはまる発音の漢字を探し出して持ってくる。そうなると、表意文字なのに表音文字としてしか使えない。
 考えてみたらホントに厄介な話。
 日本人みたいに「ばれつしゅぎ」、なんて読んで勝手に誤解する、なんてことはあり得ない。もっと言えば誤解する能力自体が、ない。

 そう考えれば、あの国の報道官は何とも激烈な言い回しでコメントを出すけれど、ああいう風にしか言えないんだな、と分かる。  

「馬列主義」?
2019年06月13日 | 重箱の隅

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 もう50年近い昔のことですが、NHKのラジオ講座で「中国語入門」というのがありました。
 高校生だったんですがそれを聴いていました。1965年から10年間続いた文化大革命の真っ只中の時期です。
 簡体字を知ったのはその時で、テキストにはローマ字によるルビが振ってありました。
 簡体字は日本の行書体や草書体を活字体にしたもので、書く手間を減らすために、日本に倣って始めたものでしたが、さらに時間を短縮するために、いずれはローマ字表記だけにする、その移行期間として採用したのだそうです。
 「時間を短縮するため」だけに自国の文字を捨てる・・・・。文字は文化そのものだから、それを捨てることは自国の文化を捨てる=否定することになる、とは考えなかったのでしょうか。いや、社会主義革命遂行の前にはそんなものは取るに足りない問題なんでしょうね、きっと。
 あれから50年経つわけですが・・・・。ローマ字表記だけになる日が来ることはあるのか?
 幸い(?)なことに、すぐ近くに自国の文字だけにして漢字を廃止した国があり、その経緯と結果を見ることができます。 それで、50年も経ってるのに、今でも漢字を使ってるのかな???

振り仮名の重要性
2019年06月19日 | 重箱の隅

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 「漢字は表意文字」と習ったんだけど、もうひとつピンと来なかった。
 それがここに来てやっと(遅すぎる気も、しないでもない)、感覚的に分かったような気がする。
 「漢字」、或いは漢「字」という、「字」に目が向いてしまってたんだけど、これを「字」ではなく、「絵」として見たらどうか。一字が一枚の「解説絵」。見たら何となく意味が分かる。
 漢字が絵と違うのは、昔からモンタージュ技法が存在していたというところだろう。違う意味の「絵」を、二つないし三つ、一緒に書く。で、その一緒に書かれた絵をつなげて、言いたいことを探る。じっくり考えるのではなく脊髄反射的に「感じる」。
 これだったら、「見ただけで十分。発音なんてどうでもよい」、となる。
 エジプトの絵文字は絵が発音を表すのだそうだけど、漢字は意味さえ伝われば(それも「何となく」程度)良いのだから、ホントに文字通りの「表意文字」。

「中国」を終わらせた日清戦争 (後半)
2019年07月22日 | 重箱の隅

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 表意文字である漢字は、間違いなく朝鮮経由で日本に来ています。それでは十分でないから、と直接シナに習いに行きますが、朝鮮から入ってきたこと自体は間違いないし、少なくとも飛鳥、奈良の時代は朝鮮からの人々、文物が流入したからこそ、古代日本の発展があります。それは決して忘れてはならない。
 ただいつも言うことですが、その朝鮮渡来の人々は、現代の朝鮮人によって追い出された人々です。今、日本人の中にある半島の血は、百済や新羅、高麗の人々のものです。
 そして、日本にとっては決して喜ばしい存在ではない、李朝の名君「世宗王」だって、国のことを思って訓民正音を作らせたけれども、漢字を捨てることなんて考えていなかった筈です。
 漢文の形式をとらず、自国語を記す。そんな発想を世宗王が持ったのか、海の向こうの蓬莱島から聞こえてきたのにヒントを得たのか、それは分かりません。

 それでも、人はどういう姿勢の時に発展、進歩があるか、ということは何となく見えてきます。

言挙げせぬ国
2020年03月03日 | 重箱の隅

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 「吹く」、「拭く」、「噴く」、「葺く」。

 こうやって並べてみれば、大和言葉としては同じ「ふく」でも、随分意味が違うようになっていることがわかる。
 時代が下るにつれて未分化な状態から意味が細分化されていき、使い分けられていった結果が、このような当て字にあらわされている。
 この「意味の細分化」は日本人のたゆまぬ努力の成果、というより「精華」なのだと思う。

 表意文字を表音文字として用いること(仮名という使い方)を始め、でも、表意文字としての働きはちゃんと今まで通りに重視する。
 こんなことだって批判的に見るか肯定的に見るかで、よほど違った絵(日本文化の解析)ができる。そこから日本の姿が見えてくる。


 「吹き矢」とは書くが、「噴き矢」とは書かない。
 管楽器の「歌口」を「吹き口」とは書くが「噴き口」とは書かない。
 「噴火」は「火を噴き出す」のであって、「火を吹き出し」たら巨神兵か火吹きの芸人だ。

 「吹く」は意識してやるものであって、「噴く」は辛抱できず、或いは思わず「する」ものだ。
 「火山の噴火」は山が耐えられなくなって「噴き出す」のである。決して「吹き出す」のではない。噴火みたいなもの、そんな意図的にやられたんじゃ、たまったものじゃない。

 というわけで、「思わず吹き出してしまった」りするのは、感激の余りの「笛吹き(管楽器奏者)」くらいのもので、「あまりのおかしさに」、または「びっくりして」という場合は「噴き出して」と書かなければ意味が通じない。

 「発音が一緒だからいいじゃないか」
 なんてことを言っている先には、「漢字を捨てた国」の現状があり、我が国も同じ轍を踏むことになる、と日本人は切実に感じるべきだろう。

 「ただの誤変換だ。目くじら立てるな」?
 いやいや。こういうことこそ大袈裟に騒ぎ立てることをしなければ、いつまでたっても日本国憲法の文章の異常さに気がつかないのではないか。


 ただ、ネット用語で、(笑い)が(笑)、→(藁)→(ww)→(草)となったり、バイク乗りがバイク海苔とか、yeahを書き間違えてyhaeと書いたのが面白いからと「ヤエ~!」と言い出したり、なんてのは、わざとやってる言葉遊びそのものだから、万葉仮名の頃の感性が今も残っているんじゃないか、と思ったりもしますけど。


吹く
2020年06月22日 | 重箱の隅

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コメント
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