先日、アクセス解析を見たら、珍しく「松下邨塾」について書いた日記に立ち寄られた方があるのを発見。
それで、「松本村塾」でも「松下村塾」でもなく「松下邨塾」が本来の名前であること、その命名が別に奇を衒ったものではないごく当たり前の、学者の命名であったことなどを思い出した。
塾を創設したのは毛利藩内でも優秀な人材として知られていた松陰の叔父である玉木文之進。松陰はこの叔父から学問を習い、この村塾の後継を委ねられた。
「松下邨塾」のこと、吉田松陰のことなど、いろいろ言われるけれど、その「見方」だって色々ある。
まさに「事実は一つ」だけれど、「真実(見方)」は数限りなくある。
ということで、今回から3回、以前の日記を再掲してみようと思います。
その一回目は「松下邨塾」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「松下邨塾」
2015.04/21 (Tue)
数日前、松陰神社に参拝してきた。
家から百キロ少々みたいだから三時間もあれば行ける。
「神戸に戻ってしまえば、やはりそう簡単には行けないだろう」と思ってのことではあるけれど、勿論天気が良ければ家に引き籠ってはいられない、という生来の落ち着きのなさの故。一番大きいのは、そりゃやっぱり、車買ったばかりだから、なんですけどね。
二十四、五年前、瀬戸内から岩国、山口、津和野を回って家に帰った時、萩に泊まった。萩城を見たり、松陰神社に参ったりしたのだが、今回は松陰神社に参ることだけ考えていた。
四半世紀も経ったからか、忘れっぽいからか、単にボケたのか、とにかく松陰神社がどこら辺にあったのかどんな風だったのか全く覚えてない。
ただ、松下村塾の建物は我ながらおかしいとは思うのだが、「半分」だけ、覚えていた。「半分」というのは、「粗末だと言われるほど粗末ではない」と思ったという記憶。
何しろ天気が良い。人が多い。
今NHKの大河ドラマをやっているからだろうけど、とにかく旅行社の仕立てたバスで、私より年長の御一行様が次々にやってくる。案内係の人とバスのガイドさんの説明とが同時に左右から聞こえてきて何が何だか分からない。とにかく、人、人、人、だった。
30年くらい前だろうか、吉田松陰が大きく取り上げられたことがある。
「あの小さな村塾で学んだ者の多くが国政に携わり、近代国家建設のための大きな力となった。それは教育者『吉田松陰』の力が大きかったということである。ならば、松陰について、もっと学ぶべきではないか」
・・・みたいなことだった。主にこれは経営者の方面からの発想だったようで、キーワードは「小さな村塾」、「少人数」、「効率」。このあたりから語られることが多かったように記憶している。
・「藩校」ではなく「私塾」であるということは、国公立の有名大学ではなく、地方の小さな学校からだって中央に出て、活躍することは可能だ、ということを証明している。
・「少人数」だから個々の特徴を特長としてとらえ、育てることができるだろう。
・「効率」の良さ、は言うまでもない。僅かな人数が、それもほんの数年で、みんな一人前の政治家になっていく。
「孔子の弟子だって長年月、師と行動を共にし、学んだのに、松下村塾のこの効率の良さはどうだ!?」
ということで以前に、「『松下政経塾』が、その辺を多分に意識したであろうことは想像に難くない」みたいなことを日記に書いたこともある。
三十代半ばに松陰神社に参った時、松下村塾の建物を繁々と眺めた。
今回は改めて村塾をぐるっと一回りしてみた。
「松下村塾」の大きな掛け看板(?)には「松下邨塾」と書かれている。本来、塾は「松本村」に在るので「松本村塾」、なわけだが、漢風の表記では「本」は「下」、「村」は「邨」なのだから、正式には「松下邨塾」と書いていたのだろう。読み方は同じ「しょうかそんじゅく」。
ところが「松下邨」では読めない人もいるだろう、ということからか、「邨塾」ではなく、聞いたままの「村塾」と書くのが普通になっている。で、「松下村塾」と書いて「しょうかそんじゅく」と読めと言う。
そこに「松下政経塾」が紛れ込んでも、誰も「しょうかせいけいじゅく」なんて読まない。こっちはちゃんと「まつした」と読む。
けれど、何となし記憶ではつながりやすい。少なくとも「松下村塾」と書かれたのを見て、今は「松下政経塾」のことを全く思い浮かべない、という人はあまりないんじゃなかろうか。
案内板には「八畳ほどの粗末な塾だったのを増築して今の規模にした」とある。
で、窓から覗き込んで見ると旧の建物は八畳どころか十畳ほどもある。反対に増築したと言われる方はちょうど八畳。おかしい。
市の情報誌の取材に来ていた人に「増築したのはこちらですよね?」と尋ね、肯定されたのだが、畳の枚数は旧が十畳、増築部は八畳で変わる筈もない。それに増築された八畳の方は、質素ではあるけれども決して粗末ではない、きちんとした建物である。
もう一度回ってみた。やっと事情が分かった。
元々は住居ではなく、ただの「小屋」だったのだ。それに庇をつけて、本来なら縁側にでもすべきところに無理矢理壁をつけ、二畳分ほど家を拡張している。違法建築みたいなものだ。だから土台もいい加減だし、横から見れば屋根を付け足したのが丸分かりだ。
そして能く写真に出てくる松下村塾は、増築した側から撮ったものばかりであることから、原初の「邨塾」の様子が分からない。
増築部を消して、脳裏に松陰が幽囚の身となる以前の建物を浮かべてみる。それはそれは貧相なものだ。八畳の部屋に30~40センチの座机を置いたら、一体何人が座れるだろう。そんな中での学問というのは、今の机と椅子の教室に比べてどんなだったろう。「粗末な」というのは本当だったということになる。
そして、同時に思ったのは「粗末な建物、僅かな資料、というのは、実はこれ以上はない、と言えるほどの勉学の環境ではなかったろうか」ということだった。
あとは師の「高い志」。そして弟子の師に対する「尊敬の念」。
名前は似ているけど、松下政経塾は見事なくらい正反対なんじゃなかろうか、と、ふと思った。