「教育者 吉田松陰」
2015.04/22 (Wed)
実は宮崎正弘氏の「吉田松陰が復活する!」という標題の本を購入はしたものの、四十数頁読んでそのままにしていた。
「教育者 松陰」としてではなく「活動家」に近い姿、何よりも本の帯には高い志を持ったその生き方を、「先覚者」と表現されている。
成程、これが一番正しい捉え方かもしれない。
確かに教育者でもあり、脱藩してまでも見聞を広めよう密航してでも世界を知りたい、という活動家でもあり、なんだけれど、それらの根本にあるのは学問に励んだが故の
「本質を見極めるために、未来を見詰めようとする目」
なのだろう。
だとしたら「先覚者(先を理解しようとする者)」という以上の言葉はない。
けれども考えてみれば、三十歳にならぬうちに刑場の露と消えた松陰の「業績」はともかくとして「功績」って一体何だろうか。
僅か十一歳で藩主に軍学を進講したなどというと大変なことみたいに思える(実際大変なことは大変なんだけど)。
けど学問の家柄であるのだから藩主への進講はあらかじめ決まっていた多分に儀礼的な、或る意味「元服式」みたいなものであったろう。
早い話、「子供店長」みたいなものだ。本人は至って真剣であったとしても、大人と同等の事が出来る筈はない。そりゃもう、絶対に無理な話だ。
当然、藩主の方も学問を習うと言うよりも、そのただ一度だけの進講を楽しみにしていて、松陰の成長ぶりを我が子を見るように目を細めて見ていたのではないかと思われる。
学問の家柄だって武芸の家柄だって、或いは河原ものと蔑視されていた歌舞伎役者だって、小さいうちからそれぞれの「大舞台」を踏ませ、それを大人が満面の笑みで以て包んでやる。
そうやって人を育てるのが古来より日本のやり方であった。イザベラ・バードの書いた「日本は子供の天国である」、という決して褒めてはいない多分に批判的な表現はその皮相的な把握だと言える。つまり吉田松陰も通過儀礼として同じ道を通っただけ、とも言える。
松陰の功績は自身の論文等の著作物ではなく「考えよう、行動しよう」とする弟子を育てたことであって、だから「教育者」と言われる。
けれど繰り返すが、松陰が教えた時期はほんの数年なんだ。
それこそ一瞬だけ師たる松陰と弟子たる若侍らがぶつかり合い、「火花」を散らした。ほんの数年間である。
「だから教育者なのだ」、と言うのも良いけれど、それは飽く迄も松陰の一面でしかないのではないか。
「経営学上のヒントが埋もれているから」として武蔵の五輪書を読むことは、武術を知らず手前勝手に字面だけを読むことにしかならない。
同じように、「効率」だとか「「少人数の良さ」だとか「無名の私学だって」、みたいな、経営学や「やる気を引き出す」教育法のような発想から、松陰を「教育者」としてだけ、捉えるのは松陰を過小評価することにしかならないのではないか。
いや、それは却って松陰像を歪めてしまうことにならないか。
さて、では松陰の実像は一体どこにあるのだ。
そう考えると、「木を見て森を見ず」ではなく、「木を見て森を忘れず」方式で見直すことが必要なんじゃないかと思う。
具体的には「教育とは?」「何を以て教育者と定義するのか」と見詰め直すことが、却って松陰の実像を捉える一番の近道ではないか。
というわけで、ペスタロッチの逸話と比べてみたい。