2017.01/09 (Mon)
《一つは、こんなことです。
「長い間、中国が日本を必要とする時代が続いた。しかし、今や日本が中国を必要とする時代に変わったのだ。これからは中国が主導権を取るのだから、今後は日本も含め、在中外国人に点数をつけて、必要な人材を選択することにしよう」
「今後の中国の発展に役立つ若い優秀な人材だけ入国させる。年寄りや高学歴でない者は要らない」
こういう観点から、採点基準表をつくった。
確かに「恩をあだで返」そうというわけではありません。しかし、それよりもっとひどい。
「恩を受けた」、という発想、感謝の念、自体が、ない。「好きの反対は嫌い、ではなく無関心」というやつです。「嫌よ嫌よも 好きのうち」なんて言葉もありますからね。
社会主義体制以外は全否定なわけですから、外側からの「恩」、なんて有り得ないし、外側に感謝するなんて無意味。否定すべき存在に感謝なんかしたら、否定したことにならない。》
前回、こんなことを書いて、
《 しかし、社会体制が変わって、それも社会主義一党独裁体制になってしまえば
「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」
「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」
では、本当にそうなのか、というと、当然、この考え方は全くの間違いなのだ。》
、といきなり「この考え方は間違いだ」と書いてしまったのですが、これはいかん。言葉足らずです。
これじゃ何故「量質転化」の語を持ち出したのか、何故「そこまで至ってない」と言ってるのか、さっぱりわからない。
それで少し補足をと考えました。
まず、「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」、「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」の二つの文の意味するところ。
「結果第一」「実用第一」みたいなことなんですが、考え方に欠落しているものがある。それは「結果」とは終点ではない、ということです。
全ての物は生々流転する。「ゆく川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず」です。そうみると、「結果が出たらそれはそれでおしまいなのか?」、ということになります。そもそも何のために「結果を出す」のか。
「結果を出す」のは、それを用いて「次の過程に進む」ためです。次に続かなければ、それは終了した、ということで、生々流転の中では無意味な事柄になる。歴史の歯車に踏み潰され、忘れ去られていくということです。
つまり、「結果」とは「これまでの過程」の中の光芒を放つ「一地点」でしかないのですから、重要事項ではあっても目的ではない。
全ての物は生々流転する。
ならば社会だって、それを形成する人間だって、勿論、「国家」だって同じことです。「興亡」があり、「隆盛衰退」の繰り返しがあります。
その「隆盛衰退」の経験の中から「隆盛する道理」を探し出し、そのための「より良い活動方法(方策)」をも見出して、「隆盛のための」活動を続けようとするのが、社会を形成する我々人間の本分です。
そうなると、
「過程を省みないところに隆盛はあるのか」
「光芒を放つ一地点を注目することなく、将来につながるための道理や方策を見出せるか」
とならない方がおかしいんじゃないでしょうか。
「結果が全て」という考え方には「積み重ねれば次の段階に入れる」という、実に安易な「唯物論=ただの物思考」しかないと言えるでしょう。
具体的に言えば「日本から学ぶものは全て学んだ。日本と同列になった。ここは我が領土だから、今後は我々が日本を含む他国の力を必要に応じて(手足として)用いてやることにする」。
隆盛を目指すならば、地道に真剣に実力を培おうと苦しみながら取り組むことが大事なのに、全くそのための取り組みを重視しない。
それが
「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」
「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」
等の文言で証明されます。
さて、とはいえ、「こうやって日本をはじめとする他国から知識、技術を学んだから、もう自分でできる」と主張する中身、です。
実際は「学んだ」のではなく、「パクった」のだということは、おそらくは全世界の人が知っているでしょうけど、とにもかくにも手に入れた技術、知識を繰り返し使用していくうちに、「パクったもの」であっても量質転化は起こる。
ただ問題は、「学んだ」というより「パクった」、つまりまともにコピーしようという気(光芒に注目しようというひたむきさ)がないため、初めから劣化版のコピーしかできていない、ということです。
「遼寧」という空母を例に挙げれば、今、建造中の国産空母は「遼寧」のコピーなわけで、外見も瓜二つ。
ということは内部は「量質転化」があって最新鋭機器で満たされている、なんて有り得ないこと、となります。劣化版のコピーは量質転化があっても本物を凌駕することはできない。クローンのアリス以下です。
何度か書いているように「社会主義社会」というのは現社会(既存の社会)の全否定によって成り立ちます。
少なくとも自由主義社会を肯定して、自由主義社会から何かを学ぶ、ということは生き方に矛盾が生じます。
だから学ぶときは「批判的に」学ぶ。決して「肯定的に」学んではならない。
そうなると、
《「恩を受けた」、という発想、感謝の念、自体が、ない。》
という言葉が当然のもの、となる。
恩とか感謝とかいうのは自由主義社会(を形成する人間も含む)を肯定することになるのですから。
「井戸を掘った人のことを忘れない」という考えは、半島国と違い昔の大陸にはあったけれど、今は存在を許されない言葉だということです。「愚公山を移す」、なんて言葉も、一族とはいえ自分以外の人々のために、という他を思い遣る心からで、これもまた、昔はあった。
採点基準表も、今後の彼の国の舵取りも、彼らのことなんですから、彼らの勝手です。
けれども、ここまで書いたような理由で、彼らの考え方は間違っている、と言えるでしょう。
「恩という意識を持たないで、作り続けるものは、決して本物を超えることはできない」
そして、もう一つ。
「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
「日本人は1人なら虫けらだが、3人集まると龍ほどの力を持つ」
http://news.searchina.net/id/1626190?page=1
という言葉があるんだとか。
これは次回に。
《一つは、こんなことです。
「長い間、中国が日本を必要とする時代が続いた。しかし、今や日本が中国を必要とする時代に変わったのだ。これからは中国が主導権を取るのだから、今後は日本も含め、在中外国人に点数をつけて、必要な人材を選択することにしよう」
「今後の中国の発展に役立つ若い優秀な人材だけ入国させる。年寄りや高学歴でない者は要らない」
こういう観点から、採点基準表をつくった。
確かに「恩をあだで返」そうというわけではありません。しかし、それよりもっとひどい。
「恩を受けた」、という発想、感謝の念、自体が、ない。「好きの反対は嫌い、ではなく無関心」というやつです。「嫌よ嫌よも 好きのうち」なんて言葉もありますからね。
社会主義体制以外は全否定なわけですから、外側からの「恩」、なんて有り得ないし、外側に感謝するなんて無意味。否定すべき存在に感謝なんかしたら、否定したことにならない。》
前回、こんなことを書いて、
《 しかし、社会体制が変わって、それも社会主義一党独裁体制になってしまえば
「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」
「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」
では、本当にそうなのか、というと、当然、この考え方は全くの間違いなのだ。》
、といきなり「この考え方は間違いだ」と書いてしまったのですが、これはいかん。言葉足らずです。
これじゃ何故「量質転化」の語を持ち出したのか、何故「そこまで至ってない」と言ってるのか、さっぱりわからない。
それで少し補足をと考えました。
まず、「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」、「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」の二つの文の意味するところ。
「結果第一」「実用第一」みたいなことなんですが、考え方に欠落しているものがある。それは「結果」とは終点ではない、ということです。
全ての物は生々流転する。「ゆく川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず」です。そうみると、「結果が出たらそれはそれでおしまいなのか?」、ということになります。そもそも何のために「結果を出す」のか。
「結果を出す」のは、それを用いて「次の過程に進む」ためです。次に続かなければ、それは終了した、ということで、生々流転の中では無意味な事柄になる。歴史の歯車に踏み潰され、忘れ去られていくということです。
つまり、「結果」とは「これまでの過程」の中の光芒を放つ「一地点」でしかないのですから、重要事項ではあっても目的ではない。
全ての物は生々流転する。
ならば社会だって、それを形成する人間だって、勿論、「国家」だって同じことです。「興亡」があり、「隆盛衰退」の繰り返しがあります。
その「隆盛衰退」の経験の中から「隆盛する道理」を探し出し、そのための「より良い活動方法(方策)」をも見出して、「隆盛のための」活動を続けようとするのが、社会を形成する我々人間の本分です。
そうなると、
「過程を省みないところに隆盛はあるのか」
「光芒を放つ一地点を注目することなく、将来につながるための道理や方策を見出せるか」
とならない方がおかしいんじゃないでしょうか。
「結果が全て」という考え方には「積み重ねれば次の段階に入れる」という、実に安易な「唯物論=ただの物思考」しかないと言えるでしょう。
具体的に言えば「日本から学ぶものは全て学んだ。日本と同列になった。ここは我が領土だから、今後は我々が日本を含む他国の力を必要に応じて(手足として)用いてやることにする」。
隆盛を目指すならば、地道に真剣に実力を培おうと苦しみながら取り組むことが大事なのに、全くそのための取り組みを重視しない。
それが
「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」
「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」
等の文言で証明されます。
さて、とはいえ、「こうやって日本をはじめとする他国から知識、技術を学んだから、もう自分でできる」と主張する中身、です。
実際は「学んだ」のではなく、「パクった」のだということは、おそらくは全世界の人が知っているでしょうけど、とにもかくにも手に入れた技術、知識を繰り返し使用していくうちに、「パクったもの」であっても量質転化は起こる。
ただ問題は、「学んだ」というより「パクった」、つまりまともにコピーしようという気(光芒に注目しようというひたむきさ)がないため、初めから劣化版のコピーしかできていない、ということです。
「遼寧」という空母を例に挙げれば、今、建造中の国産空母は「遼寧」のコピーなわけで、外見も瓜二つ。
ということは内部は「量質転化」があって最新鋭機器で満たされている、なんて有り得ないこと、となります。劣化版のコピーは量質転化があっても本物を凌駕することはできない。クローンのアリス以下です。
何度か書いているように「社会主義社会」というのは現社会(既存の社会)の全否定によって成り立ちます。
少なくとも自由主義社会を肯定して、自由主義社会から何かを学ぶ、ということは生き方に矛盾が生じます。
だから学ぶときは「批判的に」学ぶ。決して「肯定的に」学んではならない。
そうなると、
《「恩を受けた」、という発想、感謝の念、自体が、ない。》
という言葉が当然のもの、となる。
恩とか感謝とかいうのは自由主義社会(を形成する人間も含む)を肯定することになるのですから。
「井戸を掘った人のことを忘れない」という考えは、半島国と違い昔の大陸にはあったけれど、今は存在を許されない言葉だということです。「愚公山を移す」、なんて言葉も、一族とはいえ自分以外の人々のために、という他を思い遣る心からで、これもまた、昔はあった。
採点基準表も、今後の彼の国の舵取りも、彼らのことなんですから、彼らの勝手です。
けれども、ここまで書いたような理由で、彼らの考え方は間違っている、と言えるでしょう。
「恩という意識を持たないで、作り続けるものは、決して本物を超えることはできない」
そして、もう一つ。
「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
「日本人は1人なら虫けらだが、3人集まると龍ほどの力を持つ」
http://news.searchina.net/id/1626190?page=1
という言葉があるんだとか。
これは次回に。
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