2018.03/05 (Mon)
「手水舎」「参道」ときたら、次はやっぱり「参拝」、です。
これまた以前に何度か書いてきたことではありますが、今回もまた思いつくままに書き散らします。
わざわざこれを「かしわで」、或いは「かしわ手」とし、「かしわ手を打つ」と書いてあることが多いので、何となく特殊なものと思ってしまいますが、標題の通り、「かしわで・かしわ手」は「柏手」が本来の表記。
なぜ「柏」なのかというと、「人の手の形が柏の葉に似ているから」と説明されます。
ん?似ているからって、ただ「手を拍つ」、じゃいけないのか?なんでいきなり「かしわの葉っぱ」が出て来るの?
まあ、直接に「そのもの」の形を言わず、似たものを挙げてそのものを暗示、象徴などして連想させる、というやり方は古今の東西を問わず行われていることですから分からないでもない。
つまり、「かしわ手を打つ」ではなく、本当はただ「手を拍つ」と言いたいのだ、と。
でも、神前で「手を拍つ(叩く)」という表現は、あまりにも率直過ぎる。だから「手」と言わず「かしわ(手)」と言い、「拍つ(叩く)」ではなく「打つ」と言葉を変える。これもまた「畏れ多い」とか「失礼に当たる」という参拝時の心持ちがあったからこそ、の言い換え、と思えば、我々日本人の神への敬虔な気持ちが見えてくるんじゃないでしょうか。
さて、この「拍手」、一体何のために行うのか、ですが。
パンパンと手を打って「お~い、おかみ。酒を頼む!」・・・それと神様の前で手を拍つのと同じにしちゃ迷惑ですよね。
では演奏会場や集会場で見られる「万雷の拍手」は?あれはたった二回だけ、なんてことはありません。あれらは惜しみなく盛大に手を叩く。
日本では連続して拍手をする、という習慣はなかったみたいですね。あの平家物語なんかでは「万雷の拍手」にあたるものが「船縁を叩い」たり「箙(えびら)を叩い」てどよめきける、とあったと思います。
拍手はしない。普通に「手を拍つ」、それも二回だけ(四回、更には八回というのもありますけど)、なんてのは神前だけみたいです。
で、元に戻ります。
「拍手は何のために行うのか」。
やはりこれも皮膚感覚で「感じる」しかないでしょう。
姿勢を正して手を拍つ。すると辺りの空気がピンと張り詰めるような気がします。
一瞬、手を拍った音だけが響いて、辺りの穢れが祓われたように感じる。
そして拝礼(揖)をすると、その清浄な時間と空気が続いているように感じる。
これは「(意識を集中して)音を立てる」ことで、邪なもの、穢れたもの、が祓われるという日本人が思ってきたことと繋がっているのでしょう。
たとえば、神事では弓の弦を鳴らしたりします。邪気を払うために、刀を振って風切り音を立てたりします。
弓弦を鳴らすのは平安時代の頃には武官がやっていたようだし(確か、源氏物語にあったような・・)、刀を振って云々、となると、その刀の風切り音である「フッ」という音から「経津主(布津主)神」という神が現れ、刀の神となり、更には武芸の神として、香取神宮に祀られています。
「刀」や「弓」のような穢れを祓うものがない時は「手を拍つ」。そうやって、辺りを清める。
西洋由来の拍手や、お隣の大陸・半島国のような自身も手を叩いて衆人の拍手に応える、といったものと、日本の拍手は、どうも根本から違うようです。
やっぱり、だからこそ、「拍手」、と言わず「かしわ手」と言ったのかな?
いずれにしても、神前での「拍手」、「柏手」は喜びや感動を表現する拍手とは違ったもののようです。
「手水舎」「参道」ときたら、次はやっぱり「参拝」、です。
これまた以前に何度か書いてきたことではありますが、今回もまた思いつくままに書き散らします。
わざわざこれを「かしわで」、或いは「かしわ手」とし、「かしわ手を打つ」と書いてあることが多いので、何となく特殊なものと思ってしまいますが、標題の通り、「かしわで・かしわ手」は「柏手」が本来の表記。
なぜ「柏」なのかというと、「人の手の形が柏の葉に似ているから」と説明されます。
ん?似ているからって、ただ「手を拍つ」、じゃいけないのか?なんでいきなり「かしわの葉っぱ」が出て来るの?
まあ、直接に「そのもの」の形を言わず、似たものを挙げてそのものを暗示、象徴などして連想させる、というやり方は古今の東西を問わず行われていることですから分からないでもない。
つまり、「かしわ手を打つ」ではなく、本当はただ「手を拍つ」と言いたいのだ、と。
でも、神前で「手を拍つ(叩く)」という表現は、あまりにも率直過ぎる。だから「手」と言わず「かしわ(手)」と言い、「拍つ(叩く)」ではなく「打つ」と言葉を変える。これもまた「畏れ多い」とか「失礼に当たる」という参拝時の心持ちがあったからこそ、の言い換え、と思えば、我々日本人の神への敬虔な気持ちが見えてくるんじゃないでしょうか。
さて、この「拍手」、一体何のために行うのか、ですが。
パンパンと手を打って「お~い、おかみ。酒を頼む!」・・・それと神様の前で手を拍つのと同じにしちゃ迷惑ですよね。
では演奏会場や集会場で見られる「万雷の拍手」は?あれはたった二回だけ、なんてことはありません。あれらは惜しみなく盛大に手を叩く。
日本では連続して拍手をする、という習慣はなかったみたいですね。あの平家物語なんかでは「万雷の拍手」にあたるものが「船縁を叩い」たり「箙(えびら)を叩い」てどよめきける、とあったと思います。
拍手はしない。普通に「手を拍つ」、それも二回だけ(四回、更には八回というのもありますけど)、なんてのは神前だけみたいです。
で、元に戻ります。
「拍手は何のために行うのか」。
やはりこれも皮膚感覚で「感じる」しかないでしょう。
姿勢を正して手を拍つ。すると辺りの空気がピンと張り詰めるような気がします。
一瞬、手を拍った音だけが響いて、辺りの穢れが祓われたように感じる。
そして拝礼(揖)をすると、その清浄な時間と空気が続いているように感じる。
これは「(意識を集中して)音を立てる」ことで、邪なもの、穢れたもの、が祓われるという日本人が思ってきたことと繋がっているのでしょう。
たとえば、神事では弓の弦を鳴らしたりします。邪気を払うために、刀を振って風切り音を立てたりします。
弓弦を鳴らすのは平安時代の頃には武官がやっていたようだし(確か、源氏物語にあったような・・)、刀を振って云々、となると、その刀の風切り音である「フッ」という音から「経津主(布津主)神」という神が現れ、刀の神となり、更には武芸の神として、香取神宮に祀られています。
「刀」や「弓」のような穢れを祓うものがない時は「手を拍つ」。そうやって、辺りを清める。
西洋由来の拍手や、お隣の大陸・半島国のような自身も手を叩いて衆人の拍手に応える、といったものと、日本の拍手は、どうも根本から違うようです。
やっぱり、だからこそ、「拍手」、と言わず「かしわ手」と言ったのかな?
いずれにしても、神前での「拍手」、「柏手」は喜びや感動を表現する拍手とは違ったもののようです。
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