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ただの日記

「中国」を終わらせた日清戦争

2019年07月21日 | 重箱の隅
 あれ?前にも同じようなこと書いてなかった??
 試しにこれまでの題名を見たら、ほら、やっぱり。
 『中国の近現代史は日清戦争からはじまった(!)』って書いてあるじゃないか。
 大丈夫か?ボケてない?
 ・・・・、と思っていただいた方には、「何ともありがとうございます」と感謝の言葉を。
 ただ、あの時は毛沢東の書き換えた「プロパガンダとしての歴史」という観点からの文章でしたが、今回は俯瞰的に見た、言葉通りの「歴史」です。
 これを並べて見れば、毛沢東の罪深さがより鮮やかに見えてくるのではないかと。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 中国の近代化は、アヘン戦争によってはじまったと言われるが、じつは、当時の清朝にとってはそれも地域戦争にすぎず、漢字も知らない野蛮なイギリス人(英夷と呼んでいた)が南のほうで大砲を撃って暴れているので、しかたなく港の貿易だけ認めてやろうというだけの事件だった。
 シナでは何千年来つねに、異民族が辺境で騒ぎを起こしてきた。イギリス人もその夷狄(いてき)の一種であるという認識だったのである。
 ちなみに、清朝にとっては小さなエピソードにすぎなかったアヘン戦争を中国の転換期であったと宣伝したのは毛沢東だったが、それについては拙著『真実の中国史[1840-1949]』(李白社発行/ビジネス社発売、同名でPHP文庫化)にゆずる。
 それに比べて、日清戦争の敗北は中国人にとって大きなショックだった。なにしろ、わずか三十年前に欧化政策を取り入れ、近代化の道を歩みはじめたばかりの日本に、清では最新の西洋式軍備を備えていた李鴻章の北洋軍が壊滅させられてしまったのだから。
 紀元前211年の秦の始皇帝以来の伝統のシステムがもはや通用しないことがあきらかになり、ついに清朝も近代化の必要性を認めざるを得なくなった。
 
 海外に留学生を派遣して官吏に登用し、やがてシナで1300年にわたって続いてきた科挙試験は廃止された。
 中国の歴史は「中国」以外の国々の影響を受けざるを得なくなって独立性を失い、世界史の一部、それも日本を中心とする東アジア文化圏に組み込まれた。
 こうして「中国」の歴史は終わったのである。
 もっとも多かった留学先は日本だった。
 日清戦争の翌年の1896年(明治29年)の十三名をはじめとして、日露戦争翌年の1906年(明治39年)には八千人から九千人に達した。
 日本が山東省の旧ドイツ権益を継承することを容認したパり講和会議をきっかけとして、1919年(大正8年)に反日の五・四運動が起こるが、それまでの四半世紀にわたり、毎年平均五千名の中国人学生が日本に留学した。
 この十万人を超える日本留学経験者が持ち帰ったものが現在の中国文化の基礎をつくったのである。
 なかでも最も根本的なのは、日本語が中国の言葉に与えた影響だった。
 続く)


 「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子
    より転載

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