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ただの日記

「禁武政策」

2020年04月28日 | 重箱の隅
2011.08/01 (Mon)

 先日、NHKで、沖縄を舞台にした「テンペスト」という番組が始まったのを、ちらっと見て、むかっとして他局に換えました。
 谷原章介扮する島津藩士が丸腰で居るのに、主人公の少女が
 「お侍なのに刀を差してない」
 と問うと
 「禁武政策で武器を取り上げたことが許せない」
 みたいなことをこの島津藩士が言うわけです。
 それで、むっとなって局を換えた。

 「島津藩による『禁武政策』のために、武器を取上げられた沖縄武士は、人目につかないところで素手の武術である唐手を習練し、身の回りのもので戦うことができるようにした。」
 そういう風に、物の本には書かれてありました。

 もしかしたら、今でも本気で、そう思っている人がいるのではないか。
 それとも、NHK、知ってて知らぬ振りを決め込んだか?

 それ、とんでもない話です!大間違い。
 ・・・・・なんて言えるようになったのは、三十過ぎてから、でしょうか。

 考えてみて下さい。
 島津の禁武政策、というのなら、島津藩が攻め込んだ時には、武器を持っていたということですよ?
 「島津には、銃器があり、沖縄にはなかった。だから、一方的に打ち破られてしまった。」ということになっています。ほら、武器は持っていた。けど、銃は、なかった。
 「銃器さえあれば負けていない!」
 では、そこで、再度問いましょう。
 「何故、沖縄には銃器がなかったのですか?」
 攻め込まねばならないから、あらかじめ島津藩が取り上げた?まさか。

 琉球国王尚氏が持たせなかったから、でしょう?
 島津氏に銃器でやられたというのなら、まず、何故沖縄に銃器がなかったのか、ということを考えなければならない。銃は武器ではない?

 もうひとつ。
 沖縄には、日本独特の両手刀法による剣術はありません。刀がなかったからと言うのではない。
 沖縄には支那伝来の「民間の武器」なら、山ほどあった。けれど、それこそ禁武政策のせいで、刀術、剣術は発達せず、双節棍(ヌンチャクン)、太子手・釵(さい)(十手)といった主要兵器でないものばかりが残っていた。
 禁武政策は、島津氏が攻め込む前から行われているのです。
 つまり、以前からの禁武政策の故に、容易に島津氏に支配されたのであり、それは禁武政策を行ってきた琉球国王尚氏の不明、と言わざるを得ない。
 もっと言えば、島津氏の琉球攻めは、他国へ攻め込んだ、と言うより最後の戦国期の領土争い、あくまでも国内の戦いでしかない。
 沖縄弁はどれだけ分かりにくくとも間違いなく日本語であり、支那の言葉ではない。全く違う言葉のように言う人がいるけれど、ちゃんと調べればすぐ分かることです。

 松村宗棍という人は役人として鹿児島に渡り、剣術を習っていると記録にあります。帰国してから、一流を立てており、空手では有名な人です。
 じげんりゅうを習っています。宗家の示現流か、多くの師範家の一つかは、分かりません。しかし、いずれにしても、宗家筋のものであることは間違いありません。

 巻き藁突きという空手の鍛錬法を聞かれたことがあるでしょう。あれは、古来の空手の鍛錬法ではありません。拳を鍛え、ごつい拳だこのある空手家が普通になったのは、この巻き藁突きが一般的になってからで、明治以降のことです。
 本来は拳だこができないように、稽古の後は手をきれいに洗うよう言われていたそうです。いかにもやっています、というのは恥、とされていました。(何もこれは沖縄だけの心がけではない。「禁武政策」云々、というのはここではキーワードたりえません)
 当然のことです。「いかにも」では、武士として、敢えてデメリットを抱える、と言うことになります。武士は、K-1やプロレスのように格闘を見せるのが仕事ではない。いざという時に力を発揮するのが仕事です。
 ならば、普段は「えっ?あんたが、武術を?ホント?」と言われるくらいの方が良いでしょう?やるからには絶対に勝たねばならないのですから。

 戻ります。
 「巻き藁」と言いますが、その実態は立木に縄を巻きつけたものです。立木を打つと、金属音に近い打撃音が、相当遠くまで届きます。
 「人に隠れて稽古に励むこと」と教えられた薩摩の武士の一部は、立木に縄を巻いて、音が出ないようにして打ったと言われています。
 で、了解していただけましたか?巻き藁突き。実は稽古の合間に拳で立木を突いたことに始まる稽古法なのだ、と。

 島津氏に攻め込まれるまでの琉球は、日本と同じように各地に豪族(地侍)が割拠していました。それをまとめ上げた尚氏が琉球王となり、明、後には清に朝貢するという形で貿易を支配する。明、清の威光で以って琉球を治める。
 朝貢ということは家来となり、冊封(さくふう)された(土地を安堵された)ため、貢物をするということです。
 それで、琉球という名前をもらう。「海原の宝石」と言うような意味だそうです。 

 臣国となったのだから、宗主国(明、後に清)の朝廷から冊封使が来る。迎えに出なければならない。その時のために、と造られた門が「守礼之門」。
 だから、国名と同様、決して誇らしく思うべきものではない。
 勿論、国名をもらったというのは、形式上でしょう。案出したのは沖縄の方、と思います。
 「守礼の門」と通称されるのも、「守礼之邦」という扁額が掲げられていたことに由来するわけですが、冊封使の来る時だけ掲げられたもので、帰ると外していたそうです。朝貢は便宜上、ということが、これで分かります。
 ところが、後には掛けっぱなしになっていた。意識の変化か、島津氏の方針からか。(今回はここまでにします)

 国名をもらい、冊封使を迎えるための門をつくり、出迎える。その代わりに貿易は朝貢という形だから却って琉球の方に利があるようにしてある。
 同じく、冊封され、「朝鮮」という名をもらった国がある。冊封使を迎えるために「迎恩門」という門をつくった。こちらは同じ「臣国」でありながら、属国の色が強い。(記録には属国と明記)沖縄は自ら進んで朝貢を申し出たため、扱いは良い。
 冊封使の位は沖縄に来る者の方が、朝鮮に行く者より低いのですが、戦って敗れた朝鮮と違って、沖縄は優遇されていたと言われています。

 言うまでもなく「名を捨て、実を取る」。
 足利義満が「日本国王臣源義満」と署名して、あたかも臣国になったかのような態度をとって貿易で巨利を得たことに倣ったものでしょう。
 「日本国王  臣源義満」なら、日本国の王であり、明の臣であるとなります。
 しかし、
 「日本国王臣  源義満」なら、当たり前に天皇の臣である、となる。
 こんな僅かなことでも、道理、歴史の筋道から論理を読み解こうとするなら、歴史は随分違った顔を見せるもののようです。 



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