2014.06/28 (Sat)
サッカーのワールドカップ、残念だったけれど、日本人の観客の「後を濁さず」みたいなゴミの始末、評判になったらしい。
ところがそれを真似て、朝鮮(韓国)の観客もゴミを拾った。
それを見た人が、その様子を喜び、「そうやって良い習慣が世界中に広がっていったらいいな」、みたいなことをつぶやいたらしい。至極もっとも、だ。
でも残念ながら、他国の試合でも行われるようになった、という話は聞かない。「悪事千里を走る」、だ、悪いことはすぐ広まるけれど、みんなが感心するような良いことは、そうそう簡単には広まらない。良いことというのは「感心される」よりはるかに高いレベルのことなのだから。
職人的な技術を持つ絵描きがさらっと描いた絵を、何も知らない人が「すっご~い!ちょっと練習したら、プロになれるんじゃない?」と褒めるようなものだ。
ちょっと練習どころか、死に物狂いの練習をした結果がそうなっているのが本当のところだ。水鳥の足、だ。「ちょっと練習した」くらいでなったプロじゃない。
「ゴミを拾っていた。公衆道徳心が発達しているのだ、流石は日本だ」と褒める人々は、「公衆道徳、マナーが素晴らしい」と捉える。しかし、当の日本人は、「褒められよう」とのスケベ心でやってるんじゃないし、「当然のマナーじゃないか」、なんて思ってもいない。単に「後ろ指を指されて、笑われて、なんてのは恥ずかしい。日本の恥だ」程度のことだ。そして、その「恥ずかしい。後ろ指をさされる、笑われる、なんて、恥」という感覚が、日本人には当たり前のことであっても、他の国の人にはそんな「恥」という感覚が、ない。
脱線したけれど、とにかくは「他国にも広がったら良いな」との願いが朝鮮の応援団にも広がった。
「日本から韓国へ、と広がっただけでもいいじゃないか」。
そう思っていたら、韓国、次の試合(敗戦)の後は、そんな活動はなかったんだ、とか。
「所詮猿マネ」、「付け焼刃はすぐに剥がれる」とシナからの書き込み。
「お前が言うか!」、ってなもんですが、ね。
日本も負けたんだけれど、やっぱり掃除はして帰ったらしい。理性から、なのか。それとも習い性、習慣になっているのか。
脱線したところに書いたように、習い性、習慣になっている、とは思います。「恥」の感覚を生まれた時から教えられて来てますからね、「(神様が)見てござる」、って。
でも、負けたんです、口惜しいんです、そんな時、習い性だって吹っ飛ぶんです、負けず嫌いは。けど、そうはならなかった。習い性を理性が支えた。
「付け焼刃」と評された韓国。
或る人のブログで見てびっくり。「試合後のゴミ拾いもウリナラ(我が国)が最初にやったんだ」と朝鮮起源説を主張しているらしい。
「やれやれ、またか」、と思う。何でもかんでもウリナラ起源説。大概にしてくれ。
けれども、です。
これから書くことは以前にも書いたことがあるんで、重複するかもしれないけれど、日本だって、50年前は似たようなものだったんですよ?
意識は確実に50年間で飛躍的に高上している。
え?
「敗戦後、ってことだろ?戦前の日本は立派だったはずだ。明治時代だって、その前の江戸時代だって、外国人が驚いているじゃないか」?
確かに立派な人は立派です。日米修好通商条約の批准にアメリカに行ったとき、正使の乗ったポーハタン号の船長は幕府の使節に苦情を言ったようです。
「何でこんなに荷物が多いんだ?それも衣類ばかり。大半は正使のものらしいが」
見苦しい格好を見せないように、とほぼ毎日着替えていたそうです。洗濯はしませんからね、着物は。それぐらい立派だった。トップは、ですよ。
でも、それはトップの話。それ以外の者はアメリカ人と同じか、それ以上にむさくるしく、武士以外は自慢するほどのものを持っていたわけではなかった。
ここまでで止めたら、思いっきり誤解されそうですね。
だから付け足しておきますけど、日本は当時だって、西欧よりも清潔で文化的な生活をしていた。これは間違いない。
けれど、「人々は木と土と紙でできた家に住んでいる。そして、その多くは、草を葺いて屋根としている」と書かれていたら、見事な曲線美を持つわらぶき屋根も、みすぼらしい廃屋みたいな家も、想像してみたら一緒くたになるでしょう?
そしたら、日本の豪農も、朝鮮のも、西欧の人々には文章だけでは区別がつかない、なんてぇことになる。
「そりゃあ、ちょっと言い過ぎだぁよ」
サッカーのワールドカップ、残念だったけれど、日本人の観客の「後を濁さず」みたいなゴミの始末、評判になったらしい。
ところがそれを真似て、朝鮮(韓国)の観客もゴミを拾った。
それを見た人が、その様子を喜び、「そうやって良い習慣が世界中に広がっていったらいいな」、みたいなことをつぶやいたらしい。至極もっとも、だ。
でも残念ながら、他国の試合でも行われるようになった、という話は聞かない。「悪事千里を走る」、だ、悪いことはすぐ広まるけれど、みんなが感心するような良いことは、そうそう簡単には広まらない。良いことというのは「感心される」よりはるかに高いレベルのことなのだから。
職人的な技術を持つ絵描きがさらっと描いた絵を、何も知らない人が「すっご~い!ちょっと練習したら、プロになれるんじゃない?」と褒めるようなものだ。
ちょっと練習どころか、死に物狂いの練習をした結果がそうなっているのが本当のところだ。水鳥の足、だ。「ちょっと練習した」くらいでなったプロじゃない。
「ゴミを拾っていた。公衆道徳心が発達しているのだ、流石は日本だ」と褒める人々は、「公衆道徳、マナーが素晴らしい」と捉える。しかし、当の日本人は、「褒められよう」とのスケベ心でやってるんじゃないし、「当然のマナーじゃないか」、なんて思ってもいない。単に「後ろ指を指されて、笑われて、なんてのは恥ずかしい。日本の恥だ」程度のことだ。そして、その「恥ずかしい。後ろ指をさされる、笑われる、なんて、恥」という感覚が、日本人には当たり前のことであっても、他の国の人にはそんな「恥」という感覚が、ない。
脱線したけれど、とにかくは「他国にも広がったら良いな」との願いが朝鮮の応援団にも広がった。
「日本から韓国へ、と広がっただけでもいいじゃないか」。
そう思っていたら、韓国、次の試合(敗戦)の後は、そんな活動はなかったんだ、とか。
「所詮猿マネ」、「付け焼刃はすぐに剥がれる」とシナからの書き込み。
「お前が言うか!」、ってなもんですが、ね。
日本も負けたんだけれど、やっぱり掃除はして帰ったらしい。理性から、なのか。それとも習い性、習慣になっているのか。
脱線したところに書いたように、習い性、習慣になっている、とは思います。「恥」の感覚を生まれた時から教えられて来てますからね、「(神様が)見てござる」、って。
でも、負けたんです、口惜しいんです、そんな時、習い性だって吹っ飛ぶんです、負けず嫌いは。けど、そうはならなかった。習い性を理性が支えた。
「付け焼刃」と評された韓国。
或る人のブログで見てびっくり。「試合後のゴミ拾いもウリナラ(我が国)が最初にやったんだ」と朝鮮起源説を主張しているらしい。
「やれやれ、またか」、と思う。何でもかんでもウリナラ起源説。大概にしてくれ。
けれども、です。
これから書くことは以前にも書いたことがあるんで、重複するかもしれないけれど、日本だって、50年前は似たようなものだったんですよ?
意識は確実に50年間で飛躍的に高上している。
え?
「敗戦後、ってことだろ?戦前の日本は立派だったはずだ。明治時代だって、その前の江戸時代だって、外国人が驚いているじゃないか」?
確かに立派な人は立派です。日米修好通商条約の批准にアメリカに行ったとき、正使の乗ったポーハタン号の船長は幕府の使節に苦情を言ったようです。
「何でこんなに荷物が多いんだ?それも衣類ばかり。大半は正使のものらしいが」
見苦しい格好を見せないように、とほぼ毎日着替えていたそうです。洗濯はしませんからね、着物は。それぐらい立派だった。トップは、ですよ。
でも、それはトップの話。それ以外の者はアメリカ人と同じか、それ以上にむさくるしく、武士以外は自慢するほどのものを持っていたわけではなかった。
ここまでで止めたら、思いっきり誤解されそうですね。
だから付け足しておきますけど、日本は当時だって、西欧よりも清潔で文化的な生活をしていた。これは間違いない。
けれど、「人々は木と土と紙でできた家に住んでいる。そして、その多くは、草を葺いて屋根としている」と書かれていたら、見事な曲線美を持つわらぶき屋根も、みすぼらしい廃屋みたいな家も、想像してみたら一緒くたになるでしょう?
そしたら、日本の豪農も、朝鮮のも、西欧の人々には文章だけでは区別がつかない、なんてぇことになる。
「そりゃあ、ちょっと言い過ぎだぁよ」
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