2015.12/14 (Mon)
先日、久し振りに書店に行ったら、この間から時々名前を見掛けていた、
「習近平よ、『反日』は朝日を見倣え」(高山正之) 新潮社刊
が目に留まった。
早速、手にとってみる。書評にあった通りの痛快な文章だ。
これまでに産経新聞の論評コラム「正論」で、「歯切れのいい文章を書く人だなあ」、とは思っていたんだけど。何でも元産経新聞の記者なんだそうだ。
この「変見自在」というシリーズは週刊「新潮」に連載されているもので、何とこの本は、そのシリーズ十冊目なんだという。
週刊誌、読まないからなぁ~~。病院にも「文春」はあったように思うんだけど。
知らなかった。これはすごい。「快刀乱麻を断つ」というのは、こんなのを言うんだろう、とふと思った。
これまで「快刀乱麻」なんて言うと、とにかく切れ味のいい刀で「当たるを幸いにばっさばっさと薙ぎ倒す」というイメージしか持ってなかったのだが、考えてみればそんなことをすると、もうそこら辺は破壊し尽くされてぐちゃぐちゃになってしまってちっとも美しくないだろう。
けど、「快刀、乱麻を断つ」というのは、そんな破壊活動じゃなくて、複雑に絡み合ってしまって何が何だか分からなくなってしまっているのをバッサリと切ってしまうことで整理の糸口を明らかにし、とにもかくにも片づけてしまうということなんじゃなかろうか、と思い始めた。
これまで自分が習ってきたこと、調べてきたこと、そして考えたこと、で、とにかくは
「自分の考え方で物事を見る。『木を見て森を見ず』ではなく、『木を見て森を忘れぬ』ことこそが大事なのだ。常に森を心に置き、木を見詰める。自分の考え方で考えなければ『自分自身が分かる』ことはない」
、といったようなことを繰り返し書いてきた。
けれども、それに加えて高山氏は学校では習わなかったことを提示しつつ、氏の考え方でそれを説く。
本当に久しぶりに目から鱗が落ちる思いだ。「夕刻の備忘録」氏の真っ直ぐな考え方から出てくる論展開、そして結論が、高山氏の文章ではより鮮明にされるような気がする。
というわけで、何回か、また転載してみようと思います。
今回は前書きである「はじめに」から、少し。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(略)
~かくて北京支局が開設され、その他の禁令も解けた。で、こちらは早速、日露戦争の古戦場旅順を旅してみた。戦跡の多くは中国人の商業主義に犯され、醜悪な変貌を遂げていたが、とりわけ東鶏冠山は酷かった。
日本側はここを落とすためにお台場から運んできた28サンチ榴弾砲を撃ち込んだ。その一弾が敵司令官コンドラチェンコ少将を即死させた。
戦い済んで乃木大将は少将の健闘を称える顕彰碑を現場に建てた。
その地を訪ねると碑は昔と同じ場所に建っていたが碑文が異様だった。「ロシサラテンコ少将戦死之所」とある。文革のとき紅衛兵がここにきた。碑を倒し、碑文をわざわざ削り取った。それが日本の観光客を呼べると分かって急ぎ建て直し、碑文も適当に彫り直した。実にいい加減な民族だ。
もっと驚いたのが中国人公認ガイドの説明だった。「日本軍は苦しめられた敵将軍の名を彫ってここに建て、石をぶつけて恨みを晴らしました」。
いや、それは違うとつい口を挟んだ。日本にはそういう風習はない。敵ながら立派に戦った、それを称えるための碑だと説明してやった。
しかしガイドは首を振る。「いえ、それは違う」「だれが敵を褒めるか」と言い張る。
中国では例えば汪兆銘とか南宋の秦檜(しんかい)とか、許されざる者がいると、わざわざ像までつくって石をぶつけ、唾を吐きかける。でも、そうでない世界もある、日本には日本人の考え方があると説いたが耳も貸さなかった。
中国の旅はそれから何度か行った。北の黒河も南の拉孟も訪ねたが、どこで会う中国人も自分たちの価値観がまずあって、それ以外は何もない感じがした。
歴史を見ても然り。近代に入って彼らは太平天国の乱、日清戦争から義和団の乱、さらに朝鮮戦争と様々な戦いをしたが、一度として捕虜を取ったためしがない。それにどんなに時代が変わっても捕虜はみな残虐に殺してきた。
中国はいま南沙に出て東南アジア諸国を脅し、東シナ海でも日本を威嚇する。そのくせ習近平は「我々は平和を愛する民族で、我々の血には他を侵略し、世界に覇権を求める遺伝子はない」(2014年5月15日)と語る。
ベトナムを侵略した中越紛争や今まさに進行中のウィグル、チベット侵奪は、では何だというのか。
朝日新聞は(括弧内要約)
(安倍総理の「日米同盟と周辺諸国との連携強化で中国への抑止力を強めたい」というのは、危うく現実的でない。それよりも)
中国と話し合って「中国との信頼醸成を図るのが現実的ではないか」という。
中国人に話し合って折り合う、あるいは理解する能力がないことは習近平の傲慢な平和民族説でも分かるだろう。あの国と話し合い信頼を築こうということの方がはるかに非現実的と普通は考えるものだ。
(以下略)
転載了
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「敵将軍の名を彫った石碑を建て、石をぶつけて恨みを晴らす」??????
まさか、そんな、と思う。
「敵の大将たるものは古今無双の英雄で~(抜刀隊の歌)」、というのが日本ですからね。
もしかしたら「石、ぶっつけてやろうか」くらいは思ったかもしれない。
「でも、それを実行するのは恥だ、俺たちはそんな卑しいことはしない」
「能く戦った強敵に敬意を表する、というのが日本人のあるべき姿だ」
、と我々は何となく思っている。
剣道や柔道の試合を見れば、また、「礼に始まり、礼に終わる」という言葉を知っていれば当然のことですよね。
子供の頃だってケンカする時に物を持ったり、倒れている相手を蹴ったりするのは卑怯だ、という暗黙のルールがあった。考えてみれば、これも日本だけなのかもしれない。
先日来見ている、サンテレビのドラマ「淵 蓋素文」に、こんな一話が。
高句麗の戦勝記念碑である「京観」の下には、敗れた「隋」兵の遺骸が埋められていた。それに対して唐から「朝貢国となったのだから慰霊祭を行わせろ、「京観」は破壊して、遺骨を唐に持って帰ることに同意せよ」と厳命される。
どこかの知事が市長時代、属国の証の四本爪の龍柱を税金を使って建てることにしたことを思い出したが。
「戦勝の証なら、顕彰碑であれ、記念碑であれ、建てたけりゃ建てたらいいけど、それはともかくとして戦死者の遺骸の上に、とは一体どういう料簡なんだろうか」。
そう思いながら見ていた。しかし、これが朝鮮、シナに限らぬ、世界の料簡のようだ。このドラマは今の朝鮮で作られたものなのだから、今の捉え方も全く変わっていないということになろう。
だから世界は平和への一歩を踏み出すことができない。アホ、である。
そんな連中相手に「平和、平和」と唱えてりゃ、「九条守れ」と言ってりゃ、平和になるというのは、だから同じアホ、である。
註
「淵 蓋素文(エン ガイソブン)」
(朝鮮の発音では「ヨン ゲソムン」。高句麗末期の名宰相。日本書紀には「伊梨 柯須弥(イリ カスミ)」と記載されている。)
先日、久し振りに書店に行ったら、この間から時々名前を見掛けていた、
「習近平よ、『反日』は朝日を見倣え」(高山正之) 新潮社刊
が目に留まった。
早速、手にとってみる。書評にあった通りの痛快な文章だ。
これまでに産経新聞の論評コラム「正論」で、「歯切れのいい文章を書く人だなあ」、とは思っていたんだけど。何でも元産経新聞の記者なんだそうだ。
この「変見自在」というシリーズは週刊「新潮」に連載されているもので、何とこの本は、そのシリーズ十冊目なんだという。
週刊誌、読まないからなぁ~~。病院にも「文春」はあったように思うんだけど。
知らなかった。これはすごい。「快刀乱麻を断つ」というのは、こんなのを言うんだろう、とふと思った。
これまで「快刀乱麻」なんて言うと、とにかく切れ味のいい刀で「当たるを幸いにばっさばっさと薙ぎ倒す」というイメージしか持ってなかったのだが、考えてみればそんなことをすると、もうそこら辺は破壊し尽くされてぐちゃぐちゃになってしまってちっとも美しくないだろう。
けど、「快刀、乱麻を断つ」というのは、そんな破壊活動じゃなくて、複雑に絡み合ってしまって何が何だか分からなくなってしまっているのをバッサリと切ってしまうことで整理の糸口を明らかにし、とにもかくにも片づけてしまうということなんじゃなかろうか、と思い始めた。
これまで自分が習ってきたこと、調べてきたこと、そして考えたこと、で、とにかくは
「自分の考え方で物事を見る。『木を見て森を見ず』ではなく、『木を見て森を忘れぬ』ことこそが大事なのだ。常に森を心に置き、木を見詰める。自分の考え方で考えなければ『自分自身が分かる』ことはない」
、といったようなことを繰り返し書いてきた。
けれども、それに加えて高山氏は学校では習わなかったことを提示しつつ、氏の考え方でそれを説く。
本当に久しぶりに目から鱗が落ちる思いだ。「夕刻の備忘録」氏の真っ直ぐな考え方から出てくる論展開、そして結論が、高山氏の文章ではより鮮明にされるような気がする。
というわけで、何回か、また転載してみようと思います。
今回は前書きである「はじめに」から、少し。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(略)
~かくて北京支局が開設され、その他の禁令も解けた。で、こちらは早速、日露戦争の古戦場旅順を旅してみた。戦跡の多くは中国人の商業主義に犯され、醜悪な変貌を遂げていたが、とりわけ東鶏冠山は酷かった。
日本側はここを落とすためにお台場から運んできた28サンチ榴弾砲を撃ち込んだ。その一弾が敵司令官コンドラチェンコ少将を即死させた。
戦い済んで乃木大将は少将の健闘を称える顕彰碑を現場に建てた。
その地を訪ねると碑は昔と同じ場所に建っていたが碑文が異様だった。「ロシサラテンコ少将戦死之所」とある。文革のとき紅衛兵がここにきた。碑を倒し、碑文をわざわざ削り取った。それが日本の観光客を呼べると分かって急ぎ建て直し、碑文も適当に彫り直した。実にいい加減な民族だ。
もっと驚いたのが中国人公認ガイドの説明だった。「日本軍は苦しめられた敵将軍の名を彫ってここに建て、石をぶつけて恨みを晴らしました」。
いや、それは違うとつい口を挟んだ。日本にはそういう風習はない。敵ながら立派に戦った、それを称えるための碑だと説明してやった。
しかしガイドは首を振る。「いえ、それは違う」「だれが敵を褒めるか」と言い張る。
中国では例えば汪兆銘とか南宋の秦檜(しんかい)とか、許されざる者がいると、わざわざ像までつくって石をぶつけ、唾を吐きかける。でも、そうでない世界もある、日本には日本人の考え方があると説いたが耳も貸さなかった。
中国の旅はそれから何度か行った。北の黒河も南の拉孟も訪ねたが、どこで会う中国人も自分たちの価値観がまずあって、それ以外は何もない感じがした。
歴史を見ても然り。近代に入って彼らは太平天国の乱、日清戦争から義和団の乱、さらに朝鮮戦争と様々な戦いをしたが、一度として捕虜を取ったためしがない。それにどんなに時代が変わっても捕虜はみな残虐に殺してきた。
中国はいま南沙に出て東南アジア諸国を脅し、東シナ海でも日本を威嚇する。そのくせ習近平は「我々は平和を愛する民族で、我々の血には他を侵略し、世界に覇権を求める遺伝子はない」(2014年5月15日)と語る。
ベトナムを侵略した中越紛争や今まさに進行中のウィグル、チベット侵奪は、では何だというのか。
朝日新聞は(括弧内要約)
(安倍総理の「日米同盟と周辺諸国との連携強化で中国への抑止力を強めたい」というのは、危うく現実的でない。それよりも)
中国と話し合って「中国との信頼醸成を図るのが現実的ではないか」という。
中国人に話し合って折り合う、あるいは理解する能力がないことは習近平の傲慢な平和民族説でも分かるだろう。あの国と話し合い信頼を築こうということの方がはるかに非現実的と普通は考えるものだ。
(以下略)
転載了
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「敵将軍の名を彫った石碑を建て、石をぶつけて恨みを晴らす」??????
まさか、そんな、と思う。
「敵の大将たるものは古今無双の英雄で~(抜刀隊の歌)」、というのが日本ですからね。
もしかしたら「石、ぶっつけてやろうか」くらいは思ったかもしれない。
「でも、それを実行するのは恥だ、俺たちはそんな卑しいことはしない」
「能く戦った強敵に敬意を表する、というのが日本人のあるべき姿だ」
、と我々は何となく思っている。
剣道や柔道の試合を見れば、また、「礼に始まり、礼に終わる」という言葉を知っていれば当然のことですよね。
子供の頃だってケンカする時に物を持ったり、倒れている相手を蹴ったりするのは卑怯だ、という暗黙のルールがあった。考えてみれば、これも日本だけなのかもしれない。
先日来見ている、サンテレビのドラマ「淵 蓋素文」に、こんな一話が。
高句麗の戦勝記念碑である「京観」の下には、敗れた「隋」兵の遺骸が埋められていた。それに対して唐から「朝貢国となったのだから慰霊祭を行わせろ、「京観」は破壊して、遺骨を唐に持って帰ることに同意せよ」と厳命される。
どこかの知事が市長時代、属国の証の四本爪の龍柱を税金を使って建てることにしたことを思い出したが。
「戦勝の証なら、顕彰碑であれ、記念碑であれ、建てたけりゃ建てたらいいけど、それはともかくとして戦死者の遺骸の上に、とは一体どういう料簡なんだろうか」。
そう思いながら見ていた。しかし、これが朝鮮、シナに限らぬ、世界の料簡のようだ。このドラマは今の朝鮮で作られたものなのだから、今の捉え方も全く変わっていないということになろう。
だから世界は平和への一歩を踏み出すことができない。アホ、である。
そんな連中相手に「平和、平和」と唱えてりゃ、「九条守れ」と言ってりゃ、平和になるというのは、だから同じアホ、である。
註
「淵 蓋素文(エン ガイソブン)」
(朝鮮の発音では「ヨン ゲソムン」。高句麗末期の名宰相。日本書紀には「伊梨 柯須弥(イリ カスミ)」と記載されている。)
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