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ただの日記

褒めて伸ばす?冗談じゃない。

2020年05月25日 | 心の持ち様
2017.07/07 (Fri)

 いや、「褒められて伸びる」のは良いんですよ、「当人のやる気にスイッチが入った」、「意気に感じて行動を始めた」んだから。

 我々人間というのは、期待されることで喜び、時には命さえ投げ出してその期待に応えようとする。とにかく全身全霊で期待に応えようとする。上手くいく、いかないは二の次だ。

 けれど、とにかくそうやって必死になって取り組むことで応えようとするんだけれど、そうすることで、いつの間にか少しずつではあるけれど、期待に応えるべく自身が並行して実力をつけていくんです。
 だから「褒められて~」というより「認められて~」という方が、より現実的でしょう。伸びるのは、その主体は、褒められる方。決して褒める方じゃない。そうでなければ意味がない。

 ところが、戦後は「褒めて伸ばす」、一色だ。或いは「十褒めて、一叱る」。伸びる方の主体性は無視され、逆に、伸びる側ではなく、伸ばす側の心積もり、心得ばかりがクローズアップされる。
 冗談じゃない。伸びなきゃいけないのは我々だ。我々が自分の力で伸びるのだ。伸ばす方は単に手助けをしているのだ。

 大事なのは、実力のない我々が伸びること、であって、その手助け(伸ばす)をする方は、逆に全身全霊で以て伸ばそうとしなけりゃならない。
 ということは、とてもじゃないけど「褒めて伸ばす」、なんて余裕かましたことなんか言ってられない、ということになるんじゃないか。

 力のない者に対しては、手助けする方は正心誠意、自分の信ずる「在り方」を、説明しようと努力する。
 力のある者に対しては、彼が今も精進を続けているか否かについて、自分(手助けする方)の感想だけを述べる。伸びる伸びないは、そこからは彼自身の決めることだ。

 何も「褒めるな」とか「ひたすら叱れ」とか言ってるんじゃない。
 要は「伸ばす」のではなく、当人が「伸びよう」とすることに対しての援助をすべきではないか、ということなのだ。
 そして、その「援助、手助け」とは、「ひたすら見詰」め、「精確に把握」し、「認めよう」とすること。

 何で今頃こんなことを書いたのか。
 実は「褒めて伸ばす」というのはおかしいけれど、「非難して抑えつける」ことは、もっと意味がない、と。
 政治ばかりじゃない。
 現代社会自体、今こんな風ではないか、と思ったもので。
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