日本列島に沿い停滞して西から北まで大雨を降らせた前線が、ようやく太平洋側へ出てきたかムシムシとした日が続いた坂東平野も、雨と涼しさを持って来てくれたかここ二~三日凌ぎ良い日になっている。
昨日は床屋ヘアー・プレールへ行きいい子になった来た、午後になり家内が「お父さん森田さんが亡くなったようですよ」との声に、あそうだ今日はまだ新聞を読んでいないと、見ると地方紙上毛新聞お悔やみ欄に乗っているではないか、春先市民病院であい元気に歓談握手し別れたばかりではないか、我々が卒業する頃先輩は母校伊工の事務官をしながら司法試験の準備をしていたが、その後数年して合格弁護士開業の話を伺う、こちらは群銀や民間を回り道して市役所職員、病院勤務などの中で先輩が顧問弁護士として大変お世話になつたところである。
さらに途中五十三歳で商工会議所へ専務理事として呼ばれ、そこでも顧問弁護士だったかは憶えていないが当時色々あった大型店対策の商調協の問題などと県との協議の帰りに、前橋市の本町の郵便局本局の向かいにあった事務所に寄りお茶をいただいたり相談に乗って頂いたり大変お世話様になりました。
葬儀は家内の病院通いで行けないので昨日夕刻通夜に出席させて頂いたが、当時の市民病院院長近藤先生としばらくぶりに逢い昔話と近況を話すうちに、お互い色々とその間あったようだがこうして会えたことは生きている証拠でまぁー目出度いことと思うところである、帰りがけに県の商政課の商調協担当の長谷川係長に声をかけらられ久しぶりに挨拶を交わすことができた。
宝生流謡曲をたしなみ仕舞までやる先輩のあの姿をもう一度見たいが、もう見ることができない非常に残念というところ、これも人生の泡沫かもと諦めるか,おいどんも今年は七回目の午年の歳男、誕生日で八十四歳となるところ、この歳となると三つや四つの違いはどおってこともない、お互いに頑張るしかないか。
森田先輩のご冥福を謹んでご祈念申し上げ、 アンと花子ではないが、「ごきげんよう、さようなら」である。