五日ほど前になるが、土曜日の朝刊にbeと言うページがある、この日のトップ記事は うたの旅人 泣かずにいられなかった 古今亭志ん生「冬の夜に」と言う記事があった。
今から五十年ほど前の事だそうだから昭和三十年代(55-65年頃)か戦後の混乱もようやく収まった頃だろう。
慶応義塾大学の塾長を勤めた経済学者、天皇の守役というか教育者であった小泉信三先生と、落語家古今亭志ん生との交流の話であった。我々の知っている志ん生はその息子で名人だあったが、襲名後若くしてなくなってしまった、残念だった。( 馬生時代であったかこの息子とは新宿末広の前の中華の店であった事がある、ラーメンをすする師匠に「師匠よくここを使うのですか」と聞いたところ「ええ美味い店ですからね」と気さくに答えてくれた。)
我々にすればお爺さん同士のお付き合いかと言うところか。
若い頃から無類の落語好きだった小泉先生はよく自宅へ招いて宴を張ったそうだ、一席終わると必ず大津絵の「冬の夜に」をねだったそうだ。「冬の夜にィィ、風が吹ぅくぅ」と始まり、火事場に飛び出す火消しの夫を見送る女房の心情を切々と唄う、無事に戻って来るかと案じ、後姿に祈る妻・・・「今宵うちの人になァァ、怪我の無いようォォ」と祈りお腹の子が男なら、夫の仕事は継がせたくないー。と母の決意を訴える頃になると嗚咽が聞こえハンカチはクシャクシャだったそうだ。
一人息子の小泉信吉は海軍士官志望で慶応義塾大学を卒業して四十二年「昭和十七年」一月夢をかなえて出征、十ヶ月後には南太平洋で戦死、二十四歳だった。
今度は翌年塾長として戦時動員令を受けて、慶応は三千人を戦地へ送り、慶応義塾百年史によるとこのうち五百人は戻ってこなかったっそうだ。
四十五年五月二十五日の大空襲で顔と両手に大やけどを負って敗戦、療養する三田の自宅から見る東京は焼け野が原で空が大きく広がっていた。その空をたくさんの渡り鳥がわくように現れ、消えていつた。先生は傍らの娘妙さんに言った「学徒出陣で大学の正門から、隊列を組んで出ていつた塾生を思い出すんだ」
思い出す昭和十八年雨の神宮外苑を行進して出征して行った先輩学徒を、十二歳だったなあ、「いつもこの話になるとじんと来るんだなあ」その翌年十三歳で海軍乙種飛行予科訓練生を受け、今思えば幸いにも胸囲が足らずに見事落選、境の伯母御には喜ばれたが残念だった。
順調に行けば十四才の兵隊が昭和二十年には出来ていたんだ。
さてこの大津絵といううたは何だろうと思って、よく見たらSONG とある紙面左に歌詞と由来があった、昔大津街道の土産の刷り物だったようだ、これを俗曲として唄ったようだ、
とにかく小泉先生と志ん生師匠の交流も戦時中の悔恨の情をさらした一場面であったろう。殺しあう戦争のおろかさ繰り返さないよう気をつけよう。
今日も暑くなってきた、気温31度湿度65%である。可笑しな秋であるサッパリした巻雲のたなびく青空が早く来ないかなあ。盆送りに白足袋とはと思い出す伯母御は「足がべとつかず滑らないんだよ」といっていたのを。