基左衛門の独り言

坂東の風上毛の空と風景をブログで皆様へ、八十爺

梅雨の中のいろいろ 8 梅雨明けか?

2006-07-25 18:08:53 | 日記・エッセイ・コラム

 今日月一の病院へ診察にいってきた、胃の具合は生まれ付いてかよくない、この歳になってようやく胃酸を抑える薬が出てきた。助かったが何故もっと早く分からなかったか、仕事で夜の勤めが多かった頃にこの薬があってくれればとしみじみ思う此の頃だ。

 朝は大分いい降りだだったが帰る頃には雨はやみ、午後は日が差し始め気温はぐんぐん上がり今この部屋は30度である、朝が寒いくらいだからこの温度差は効く、梅雨は上がったか。

 昨日の月曜日は一日中いい降りだったが、一昨日の日曜日は曇りでしのぎ良い日だったのでゴルフの打ちっ放しへいって来た。相変わらず飛ばない二階からなのにドライバーで150メートルぐらいか、ポトリと落ちてそれっきり嘆かわしい限りだ。歳のせいで休み休みやることとしてドッコイショと腰掛けていると、何処からとも無く香ばしい好い匂いがしてくる、はてお茶の匂いでもないし・・・と考えていると今から62年前の昭和19年1944年の晩秋の夜更け境小学校の講堂で嗅いだ香りだと想い出す。

なぜ今頃想い出したのだろう、あの頃は太平洋戦争も末期で空襲警報が毎日毎晩で、サイレンが「ウオー」と鳴ると最上級生の高二(高等科二年生)は夜昼関係なく学校に駆けつけなくてはならない、本土防衛の第一線と言う事かこの時まだ十三歳の少年であった。

海軍飛行予科練習性を受験し胸囲が足らずに落ち、昼間は学校工場や隣の関東航空で木製飛行機部品を作り疲れて帰るので、夜はサイレンの鳴るのが嫌だったがよく鳴った。あの時のガランとした講堂の片隅に積んであった下級生の刈って干した干草で、寒い待機時間にもぐって寒さをしのいだあの匂いであった。

 と言うことで遥か昔のことが偶然思い出されてしまった。ああ終戦記念日が近づいたせいか。いつも言うがこれは敗戦記念日である、おかしな国である負けは負けとはっきり認めないからおかしな人たちが後から後から出てくる。

続きはあとで


梅雨の中のいろいろ 7六歌仙を持つて高橋来る

2006-07-22 16:28:02 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は朝から電話があり家内が出て「熊谷の高橋さんが来るそうだよ」とのこと黄綬褒章受章の手描き友禅の埼玉県の第一人者である。先日のクラス会のとき「六歌仙を描いたからもって行くよ」とのこと、4-50分すると着き「此れなんだ」と言って広げると人数が多い、「あれ人数が多いや」と言うと「三十六歌仙だからね」とのこと、この道の不勉強が如実に出てしまった。

 よく出来ている細かい着物柄から表情、冠の種類、位によっての袴の色「表具は自分でしてな」とのこと、其処まではしてやれないよと言うことか。三十六人と言うと大きな和用箋に一杯である。大きな掛け軸となる相当取られるなと思うが、おくびにも出さずうな重をご馳走して送る。

 まあ家の収集品の宝のうちかと妙に納得して収納する。


物言うジジババの会でも作ろうか

2006-07-21 14:02:06 | 日記・エッセイ・コラム

 最近の日本人は大変おとなしくなったなと思う、何時頃からだろう構造改革、構造改革と騒がれ始めた頃か、みんな何をどう改革するのだろう改革するとどうなるのだろう、しないといけないのだろうか,などと考えているうちにどんどん変わり、庶民の口を出す暇の無いうちの済ましてしまうと言うことか。

 我々年配者は太平洋戦争前から戦中・戦後そして復興期・右肩上がりの成長期・バブルの崩壊不景気とつぶさに見てきたが、声を大にして来たのは或いは声を大に出来たのは戦後の一時期で、いわゆる五十年体制の崩壊の頃までと思われる。

 今の内に言うことを言っておかないと後のまつりになる、我々が稼いだ税金や年金収入は戦後数十年誰が垂れ流しで無駄遣いをしたのか、それに相乗りしたか或いは眼くらだったのか、我々の選良の議員達はただ当選して高額の歳費を貰い行政の監視機関であることも忘れていたのか、

 我々ジジババは我慢の限界である、年金は減らされ税金は年とともに増え、加えて介護保険は年々増加している。公的収入は減少、公的支出は増大誠に遺憾と言わざるを得ない。

 おおいに声を上げようジジババよ、団結しようよ、ジジババ。


梅雨の中のいろいろ 6 梅雨明け遅れるか

2006-07-21 13:37:42 | 日記・エッセイ・コラム

 梅雨明けの頃だがその気配が無い、入りも少し早かったのでは地球温暖化の影響か、テレビのニュースで見ると全国的に災害が発生している、私がブッシュのせいと言うと倅も笑うが京都議定書を批准しないアメリカのせいだ。

ここ何日か涼しい様だ夜好く眠れるので助かるが、急な変化で体がついてゆかない一昨日から風邪気味だ、梅雨前線が我々の上を超えて南に下がり寒い気団の中へ入ったか、またすぐ暑い暑いと言う日がすぐ来るのかな、健康管理は充分にしないとね加齢による抵抗不足になってるからね。


梅雨の中のいろいろ 5暑い暑い

2006-07-16 17:02:18 | 日記・エッセイ・コラム

 12日(水)クラス会の写真を発送する、俺を抜いて9通だから簡単とPCで印刷、さて発送と思ったら鈴木の封筒に番地が無い、手書きでいいかと思ったが癪だからと印刷しょうとしたが元のソフトが見つからない、名簿をいくつも作りすぎたようだ、そんなことで昼過ぎとなって局へ行く。

 翌日あたりから暑い日になる、30度を過ぎて湿度60-70%なるともう大変、じっとしていても身体じゅうじっと汗ばんでくる、15日(土)は昼からさく江叔母さんの35日のお棚上がりをする。退魔寺「○○山不動院退魔寺と言うらしい山号は覚えたが忘れた」で法要をして自宅そばまで帰り墓参り、メモリアルホールで会食をして解散、全部で17人だそうだが大宮の頼子ちゃん夫妻が道路が渋滞して遅れてきたので後で墓参りをする。

 家内が「桂が寄って行くから帰りに寄ってがないと云うので寄ってぐ」「誰が」と言ったら「進むがさ」久しぶりに四人兄弟で顔を遭わせたいのだろうと思ったが少し意地悪をしてからよることとした。墓参りを済ませた頼子ちゃん夫妻がはいつてワイワイガヤガヤ、横浜へ帰る頼子ちゃん夫妻八千代市へ帰る桂さん夫妻と共に帰宅、暑い暑い一日だつた。

 今日(16日)はしのぎ良い昨夜の雨と曇り空、この部屋の今の気温4時現在30℃湿度65%で昨日よりずっとらくだ、今夜はよく眠れるか。   


梅雨の中のいろいろ 4クラス会終わる

2006-07-06 12:23:10 | 日記・エッセイ・コラム

 5月上旬に通知した伊勢崎工業高校工業化学科昭和23,24卒のクラス会がようやく4日5日に終了した。 梅雨空の中の開催を考えていたが当日は好い天気に見舞われ、10時過ぎには熊谷から高橋が来て彼の作品の袱紗などお土産を家内に渡していた。電話ではそわってばかりで足が弱ってと言っていたが大変のようだ、伝統工芸師で黄綬褒章を受けたりしたので弟子を抱えているが本業のほうは暇なようだ。

 暑い日になったが昼を食べ1時半に岡庭の家に迎えに行き天田が柏井の家にいるというので道案内をするために迎えに行き、柏井夫妻の見送りを受けて伊香保へ向けて出発、千明仁泉亭へ1時間少しで到着、もう鈴木が着いていた。かっては鈴木も車を運転してきたが今回は列車にしたそうだ、確かに千葉市緑区土気町では距離はある、年寄りは無理だろう。だが天田は藤沢から運転をしてきた、元気がよい、見た目も若いこの4人兄弟の特徴だろう。

 旅館の手続きをして部屋に入り待ってると永井と高柳が、一人で井田と菊池が着くそれぞれ車で来たそうだ、3時半ごろ電話が入りなんだと思ったら沼田からで「時間に間に合わないので先に始めてもらいたい」との事、「いまどこだい」と聞くと「駒形の辺」とのこと「宴会は6時からだからゆっくり間に合うよ、気をつけて来てな」と言っておく、彼も都内渋谷区本町からだから元気が好い。

 まあこれからは世俗のクラス会となるが、今回35通ほど往復はがきを出し10人の出席だ、75歳だとこんなものかなと自分ながら納得する。7年ぶりの開催で死亡4人、病気10人、都合等5人不明いわゆる回答なしがX人でであった。

これで物故者は前回分と合わせて19人となり不明者を含めると23‐4人になるまあこんなものかと妙に納得。

 これからは気づいたことから宴会の模様等逐次報告をしてゆこう、5日の帰りは雨となり車に乗っているうちに土砂降りとなる。遠くの皆さんご苦労様でした。

 今日6日旅館から電話「336号室の部屋の鍵が無いので調べてほしい」との連絡も入る、すぐにこの部屋に泊った人たちに電話を入れるが不在で連絡がつかない、この時間では無理だ10時を過ぎているのだから、だが待てよ、

よろよろしている老人が多いのになあ、、もう出かけたのか。