今日月一の病院へ診察にいってきた、胃の具合は生まれ付いてかよくない、この歳になってようやく胃酸を抑える薬が出てきた。助かったが何故もっと早く分からなかったか、仕事で夜の勤めが多かった頃にこの薬があってくれればとしみじみ思う此の頃だ。
朝は大分いい降りだだったが帰る頃には雨はやみ、午後は日が差し始め気温はぐんぐん上がり今この部屋は30度である、朝が寒いくらいだからこの温度差は効く、梅雨は上がったか。
昨日の月曜日は一日中いい降りだったが、一昨日の日曜日は曇りでしのぎ良い日だったのでゴルフの打ちっ放しへいって来た。相変わらず飛ばない二階からなのにドライバーで150メートルぐらいか、ポトリと落ちてそれっきり嘆かわしい限りだ。歳のせいで休み休みやることとしてドッコイショと腰掛けていると、何処からとも無く香ばしい好い匂いがしてくる、はてお茶の匂いでもないし・・・と考えていると今から62年前の昭和19年1944年の晩秋の夜更け境小学校の講堂で嗅いだ香りだと想い出す。
なぜ今頃想い出したのだろう、あの頃は太平洋戦争も末期で空襲警報が毎日毎晩で、サイレンが「ウオー」と鳴ると最上級生の高二(高等科二年生)は夜昼関係なく学校に駆けつけなくてはならない、本土防衛の第一線と言う事かこの時まだ十三歳の少年であった。
海軍飛行予科練習性を受験し胸囲が足らずに落ち、昼間は学校工場や隣の関東航空で木製飛行機部品を作り疲れて帰るので、夜はサイレンの鳴るのが嫌だったがよく鳴った。あの時のガランとした講堂の片隅に積んであった下級生の刈って干した干草で、寒い待機時間にもぐって寒さをしのいだあの匂いであった。
と言うことで遥か昔のことが偶然思い出されてしまった。ああ終戦記念日が近づいたせいか。いつも言うがこれは敗戦記念日である、おかしな国である負けは負けとはっきり認めないからおかしな人たちが後から後から出てくる。
続きはあとで