「お盆がら」と言う言葉を知ったのは50年ぐらい前だったか、市へ転職して少し経った頃だった。盆がらと一般には言っていたようだったが盆送りの翌日のようだった。この地域は佐波郡と言い明治の郡市制制定のとき佐位郡と那波郡を一緒にして佐波郡としたとの事、「今度の会議は盆がらにしよう」などと使っていたが、何となく今おもうと主に那波郡の出の人が「お盆が終わってからにしよう」と言うような意味に使っていたようであった、するとそれは今日17日ということになる。
予定していた新盆見舞いも佐和先生の葬儀でだいぶ予定が狂ったが若干遅れで済んだ、どの家へ伺っても家族は私の顔を見ると元気なときの姿を思い出すのか「何でもっと早く病気が分からなかったか、病院を変えたほうが良かったのでは」「何で手術をしてしまったのか、あれは失敗ではなかったのでは?」などと涙ぐむ奥さんがいたり、「いろいろお世話になりました、あの会に出ることを楽しみにしていたのですが体が大変だったようで、しまい頃はインスリンを注射していたので誘われても無理のようでした」と回想する方もいたりと、人の死とは身近な人にとっては人生最大の悲しみなのだと改めてしみじみと想う「盆がら」である。
見舞いに伺った家
山本 喜市さん 縁戚
小澤 喜一さん 同僚気の合うゴルフ仲間 会議所も手伝ってもらう。
島田 幸雄さん 市職青年婦人部の仲間 (現60会)
浅田 定男さん 小学校以来の親友、親友もドンドンいなくなる。
それより前8月14日PM11時からの佐和豊先生の葬儀に岡庭と二人で出席する、初めての前橋の葬儀場なので早めに出かけたら予定より大分早く着いてしまった、少し待つうちに参列の方がだんだんに増え森村先生も見える、この地の仕来たりか割合小人数である。渋川工業高校長の弔辞によると我々の学級担任は教員二年目のようであった。 昭和33年伊勢崎工業高校の工業化学科の科長から渋川工業高校の教頭で呼ばれ、校長となり以来18年間定年で退任するまで在職したとの事、呼んだのは我々の卒業のときの校長田代猪之助先生でこの時渋川市の教育長であった。退職後は地元の自治会の役職などをしていたようだが「前橋市の老人会連合会長をしているんだ」と言っていたことも在った。とにかく長寿を全う出来てよかったご冥福を祈ります。
帰りに見ると境野がいるではないか、「森村先生の連絡できたのか俺たちの連絡では出てきないだろううに」と言いながら帰る。
遅れてさく江叔母さんの新盆の席へ寄る、線香を上げて席へ出ると用意は欠席なので勿論無い、お茶を頂きながら見ているといつもの通りで賑やかなものだ。
家内を家に送り新盆見舞いに出かける。