秋雨前線による長雨に台風十八号の来襲と言う六十八年前のカスリン台風の再来かと心配したが、幸いにも台風に伴う右側の雨雲は豪雨を降らせ山や道路の決壊などがあったが、少しづつ東へ東へ進みお蔭で上州は今朝から小降りとなった、今は野州の東寄りの一部と常陸が大分降って河川の氾濫など大変の様、お見舞い申し上げます。
今朝の上毛の三山春秋を見て驚いた、春秋氏のお父上はオイドンの一学年先輩で、戦事中の「航空戦時特別訓練」と言う訓練を受けた先輩だった、我々佐波郡十九校だったか小学校から選抜された四十一人だったか、が名和小学校講堂へ集結し此処を学習と宿舎として、滑空訓練は当時まだ在った伊勢崎競技場(旧伊勢崎競馬場)で実技を訓練したのだった。 訓練は殆どすべてがいわゆる軍隊式で厳しかった、実技のハジメは何といったか県からの教官だったが、後は各学校の群馬師範卒の若手教師で、当時流行の軍隊調で特にホヤホヤノの先生はここぞとばかり厳しかった。
十月と言うのに裸の訓練生後列左端小生
訓練所入所式と写真裏のメモ
春秋氏のお父さんが言ったように食べるものは悪かった、米か麦かどちらが多いかと言うところだが、その麦が小麦の籾摺りも潰しても無い茶色の皮をかむったままの奴だった、「腹壊さないようよく噛んで食べろよ」など言われたが、育ち盛りの十三-四歳だそんな余裕はない、あっという間に食べてしまう、おおくは腹を壊して下痢となりトイレに行くと昔の事小麦がそのまま便に混ざっていたのが見える、お蔭さまで痩せこけたオイドンは期間中に在った海軍志願の試験に、軍医官に最後の採決の時「本籍を云って見ろ」と言われ「群馬県碓氷郡烏渕村大字水沼一三一一番地」と云って居る真に計られ「ううん来年又来るんだな」と言われてお終い、喜んだのはお袋「母ちゃんが今朝神棚へお灯明を上げて拝んだのは何て拝んだか知ってるかい、受からないように拝んだのだよ」言われて「なんでソンなこと拝んだんだよー」泣いて悔しがったものだった。
育ての親(おふくろが赤ん坊の時死んで姉さん所謂伯母さんが育てくれたのだが)親は親やっぱり戦争には遣りたくなかったのだと思う、有難い親心と大人になって感謝している次第である。
群師での教員も優しい人がいた、特に気に残る人は飯島正夫先生だ、下痢をしているときは自転車で競馬場まで送って貰ったことがあった、恐ろしかったの菊池先生ちょっとの失敗で競馬の馬場を二周させられた事もあった。
まあこの歳になって見ると戦争に巻き込まれるような政治はしてほしくない、大事な国民の生命財産特に生命は金で買える物では無い、安く見てもらっては困る。
春秋氏お父上をお大事に