昨日は市民病院内科の診察日、八週間ぶりに病院へ伺い押本先生に受診する。終わって会計の待合で伊勢崎工業の先輩で弁護士の森田徳司先生に逢う、「おお久しぶり」と声をかけられ近況報告などして「先生は大正生まれでしたね」と聞いたところ「うん大正も一番最後の方で軍隊では大分得をしたのさ」などと話となり、一五年の早生まれであることが分かる。もっともこの年はやく大正天皇が亡くなり何人もこの年生まれは居ない筈だ、こんな話から親の従兄弟が近衛聯隊に入り東京第二衛戍病院で戦病死している事や、親戚の相模新平さんが海軍兵学校を卒業して昭和一九年戦艦大和に乗り組んだ事などを話したところ、さすが大正生まれ「大和はすごかった四六糎砲を持った世界最大の戦艦だった」と主砲の大きさまで知っていた。
やがて会計の順番が来て支払いを済ませて、先生と「お互いに健康に気を付けて、ではまた」と握手して別れる。
戦艦大和と云えば、先日NHKのBSプレミアムで大和の記録と乗組員の生き残りの証言を特集していたのを録画して置いたのを見たばかりだった、新平さんは二〇年三月には「お前たちはここで降りるように」と云われ海兵同期の三人と少尉任官と同時に呉港で降ろされたそうだ。
当時沖縄へアメリカ軍が上陸して人員物量ともに勝るこの敵に日本軍は島民も含め徹底抗戦を続けていた、この時日本海軍の連合艦隊の旗艦大和が、特攻として沖縄に向けて出港するという前代未聞の行動をおこし、九州東方海上でアメリカ艦隊の航空機の攻撃を受けて不沈戦艦と云われた大和もついに沈没してしまうのであった。
このことは銃後と云われていた一般国民は知らなかった、いや知らされなかった、知ったのは敗戦後の事である。しかしBSプレミアムの記録に出てくる乗組員は、皆この大和に乗り組んだことを誇りに思っているかのようで、写りだされる自宅の部屋に皆大和の模型があったし、言葉の端端に乗組員の人間関係まで上下を問わず想いだしていた。
親戚の相模新平さんに行き会ったのは、昭和四十年頃か倉渕村役場の助役をしているとき除籍の戸籍を貰いに行ってだった、大和に乗っていたんだとのこと当時の話をいろいろ聞いているうちに、呉でここで降りなさいとのことに成る話になると、「海軍は偉かった、もうじき戦争は終わる君達若い者が必ず必要になる、残って戦後の日本のために働いてほしい」と云う事だったと想う。と言っていた。
まあとにかく漫然と生きる今の人達は今世界の中で何が起き、または起きようとしているかを常に注意深く見つめる必要があるし、見詰めなければ為らない。
未完