今日も寒く無そうなので歩いてみようと外へ出てみると、やはり大寒である風は弱いが冷たい、しかし空は抜けるほど青く山肌は小さな尾根まで見えるようだ。
保泉団地を抜けると右手に広幹道の粕川橋橋脚のすぐ右に大田の金山が小さく見える、この山を見ると戦前の昭和十三年ごろ境町小学校一年だったか二年だったか、遠足で太田の金山の下の大光院や高山神社まで歩いた事を想い出す。当時一口に三里(12㌔)と言っていたが遠いとおい、子どもの足では歩いても歩いても金山が大きくなら無いもどかしさ、それでも近づくともう少しだと想い、ついたときの嬉しさと言うよりほっとした事。
又帰りの電車に乗るのに太田駅まで歩く大変さ、戦前の学校教育はそんな物だった。今の子ども達だったら大騒ぎだろうと想うが、どうだろう。遠く見える大田の金山
こんな日は多くない周りの山々が良く見える、広幹道の工事現場まで来ると赤城山が大きく見え、それから右手に日光連山の上に男体山が雪を被り頭を少し覗かせている。昔赤城の百足と男体山の蛇が戦場川原で戦って、群馬は百足、栃木は蛇が勝った事になってるような伝説があるようだが、まあどっちでも良いが百足と蛇では虫と爬虫類が大喧嘩したと言うところか。
それで赤城ではどうの日光ではどうのと有る様だが、昔のひとはよく
考えた物だ。
久し振りに部屋の中が春のようだ、風も弱そうなので歩いてみようとまたまた重装備で外へ出る。やはり重装備でも背中が何となく寒々とする、やはり明日から大寒である事は間違いない事実である。
団地の家並みを抜けて白菜畑などの中の通りに出ると、さすが風は弱いが冷たい、かねて用意の重装備の帽子の耳当てを下げてみる、さすがかってゴルフ用に用意した物だけあって暖かい、この辺は赤城山は良く見えるが榛名、浅間は如何したかなと、畑の中へ農道を入ってみる。
丁度団地の家々の上に浅間山などかかってしまい裾の方まで見えない、しかし真っ白い姿は毎年の事だが奇麗だ。榛名山も家にかかっているが山頂に少し白い物が見えるが、こちらは全体が良く見える。
すぐ隣の越後山地や三国山脈などはここ毎日雪だろうと言うのに、関東平野は寒い寒いなどと毎日言いながら、この青空は贅沢が過のではないかと思う毎日である。
風も無さそうなので久し振りに散歩でもと、寒くなよう重装備で歩き出したが、団地をぬけて白菜畑の中に赤城山が見えるところまで来ると北風が耳に冷たい、これを赤城颪とこの辺では言うのだが風の方向が違うと思う、榛名と赤城の間をぬけて雪を被った三国山脈のほうから吹いてくるようだ。
地蔵と黒檜は頭が白い 耳が冷たいので公園の休憩も省略して帰る、だが重装備のお陰で背中が暑い、エネルギーを消費している証拠だ。 帰ると三時のお茶が待ってる、贅沢なもんだと思うが有り難い事だ。日が燦々と差し込むこの部屋には先日のシンビジュウムが咲いている、あの時は一輪がようやく開いたところだったが、今日はミキの中間辺より上まで咲き始めていた、外の鉢も直に開き始めるか楽しみのところである。
今年の正月は互礼会などの行事は省いてゆこうと欠席通知を出しておいた。尤も去年も出なかったか?。
十日は運動不足(暮れの大掃除や松飾の後何もしてないので)解消のためスマークと言う商業施設へ家内と行き、中を三階から二階一階と歩いてきた。各階を歩くと結構いい運動になる、大きな施設なので中にレストランも十数軒あるので此処で食事をして帰る。
十一日は市の初市(一名ダルマ市ともゆう)に出かけ古ダルマを神社へ納め、昔の部下と言うか同僚の人たちと会い、市の出店を眺めて茂木園茶店に寄ったり、十字路で猿回しや遣っていたので暫らくカメラで写したりして帰る。
ダルマは会議所の榛沢君に買って貰ってあるので、帰りは手ぶらで気楽な物だ。
今日は俺がこの世に生を受けた誕生日であるそうだ、子供の頃育ての親の伯母御の話に寄ると、「基が生まれたのは昭和六年一月二日の大雪の朝だったんだよ」と言う事だ。戸籍上は六日であるがそれは親父が届出を遅れて出した所為らしい、戸籍の謄本を見ると届出の日から十四日目の日が一月六日である事がわかる。
そんな事で八十歳の誕生日祝いに新しいデジカメを娘夫婦が贈ってくれた、選んだのは孫の良介だそうだが、キャノンに替わりRICOHだそうだ。
なかなか機能が多く良さそうだ、このオジンが使いこなせるか心配になるが、取あえず部屋のカレンダーなどを写してみる。
と言う事で新年第一号は嬉しいプレゼントの話でした。