昭和十九年十月名和村立名和小学校講堂へ集まった佐波郡内小学校十三校だったと思うが、当時の学制に在った高等科二年生(最高年生)が約五〇人ほど集まって、グライダーに乗る滑空訓練が行われた、大日本航空青少年隊と言う名の腕章を着けて約一か月泊まり込みの訓練だった。
そして陸海軍の空軍に志願していった者が多かったが、翌年八月がポツダム宣言を受諾して敗戦で幸い入隊した者は居なかったが、厳しい訓練の中に出来た友情を大事にする者達が何人かいた。
その中の一人が今日伊勢崎霊苑でおくった長谷川清君だった。彼は卒業後国鉄に入り戦後組合役員をしたりしていたが、趣味のラジヲの組み立てなどをし遂に途中退社して電気店をはじめ、やる気十分の気概で稼ぎ市の電気商組合の理事長や県の理事長までこなし、大型店対応など大変の時期を経て立派な会社とした、現在は息子の純君が立派に後を切り回している。もっとも北大の電気の卒業だから当たり前か。
この頃になると友人が欠けるのが淋しい事だ、八十爺もその歳の半ばに成るのだから止むを得ないか、聖苑からの帰りに見た華蔵寺公園の桜は六-七分咲きと言う処、桜に誘われる様に逝くとはなんと粋で幸せな事か、ご冥福を祈るのみ。