何年振りだろう、この猿ヶ京温泉は、通る事はあったかもしれないが泊まるのは四~五十年振りか?、昔は小さい子供連れて家内と、労組の会議で仲間と、よく来たものだ。それでも伊香保や水上とは回数で大分差が在った、ここは少なかった方に入り伊香保がトップだったと記憶している。
今回の六〇会の旅行は花見と云う事だが、桜は終わりそうでも見られることは見られたので満足。、
現会員九人だが男女各一人が欠席、七人で和やかな花見となった。旅館は料理と冠するだけに中々凝ったもので美味かった。
此処へ着いてすぐに街へ出て見たがゴールデンウイーク前の一番の端境期か閑散としていた、もう少しで賑やかになる事を祈って翌日太助会館でリンゴを買い帰郷した。
遂に待ちに待った新たな1、015万画素のデジカメを入手した。今までのデジカメは何万画素だったろう、Canon IXY55だったので、もう7~8年使っているから1~2万から10万画素くらいだったか?、今度のはNikon 1 J2で1、015万画素との事時代は刻々と変わっている証拠、驚くと言うか呆れると言うか余りにも早すぎるのでは、と想う処。
値段の方も正月には九万円もしたのが約半値になって居たので思い切って買ってしまった訳である。
ボディーの画面もと思ったが元のキャノンで写したらPCが受け付けなかった、先にニコンのCDを読み込んだせいと想うがもう手遅れでキャノンは読み込んで呉れない、やむを得ず枝垂れ楓と町並みでごまかすが、何とも鮮明な画像ではないですか。
画像を載せる楽しみが増えました、今後が楽しみだが八十爺には操作に慣れるまでが一苦労、まあ頑張るか。
今日は宝憧院の観音祭り、役員は下りたが参詣にはと出かけてきた。家を十時に出て十五分に着く、かっての仲間と云ってもゴルフのだが、手を挙げて迎えてくれる。手続きをして二千円を払いお札を戴き雑談に花が咲き、お茶など戴き午前の祈祷が終わったので失礼する。
午後は四時過ぎて一五日のようにワンちゃんに逢えるかもと出かける、我がリバータウンも咲いてきたが、隣の保泉団地のハナミズキが七分咲き位、此れからが見頃だろう。
何時もの見慣れた風景だが、この時期の物は何となくノンビリと見えるから不思議だ。広幹道は良くスイスイと車が走り、何処からかカンカンとハンマーで鉄骨を叩くような音が、保泉変電所かな、長閑だ。
公園で一休み、今日はマルチーズか何か知らないがあの可愛いワンちゃんはと見つけたが、ココア君が居なかった、キャッチボールの子供はいたが残念。
とに角今日は暑い、明日からまた寒くなるらしいが、ジジババはこの陽気の変動の大きさには付いてゆけない、体調に気を付けなければとしみじみ思う処だ。
今日は新聞休刊日、旧式人間は朝の新聞閲覧と云うか何と云うか表現は忘れたが、何とも活字のないのは淋しいものだ、止もう得ずこの部屋へきてPCでニュースを読む、太田市長はどうやら現職六選のようだ。
午後は少し歩いてみようと出だすが、東毛広域幹線道が通じてしまったので興味半減途中で帰る事とした。
何時もの事ながら保泉公園で一休み、時間が小学校の放課後の事なので大分にぎやかだ、子供たちはキャッチボールやサッカーの真似事と云うか知らないが、ミニサッカーゲームをしたりと賑やかな事、そこへ子犬が飛び込み走る子供たちを追廻し大騒ぎ、その内にこのオジンの所まで来て膝にじゃれる騒ぎ、まあ可愛い事。
「この犬何て云うの」「ココだよ」「ヘーココと云うんだ」「いや違うよアだよ」「えっア」「ココアていうんだ」「飲み物みたいだね、写真撮ろう」「オジサン犬が好きなんだ」「うん大きいのもこういう小さいのもね」と云うようなことでパチリと二枚ばかりの作品。
一昨日の新聞のお悔やみ欄に載った、新井ガラス建材社長の新井善太郎君の葬儀に行って来た。この歳になると戦前の旧制工業学校の卒業生などどんどん毎年減っているのが現状である。昭和五年十一月生まれの八十二歳と喪主の長男富美雄君は言って居たが、もうそんな年だったかと云いたところ、入学時は確か五十二人だったが四~五年前のクラス会は十人だけの出席だったっけ。
クラスの友の不幸は出来るだけ出席したいがそうも行かない、今回も喪主富美雄君の仲人をしているし、会議所専務時代彼にはいろいろとお世話になりお付合いをさせてもらった仲だったのである。
ヘビースモーカーだった君らしく肺癌だったとのこと、謹んでご冥福を祈るのみである。
庭に元気いっぱいチューリップの花が咲いた、僅か二輪だけだが可憐に豪華に咲いている。
今朝の上毛新聞ひろば欄を見て居てしみじみと感心させられた。この子は将来物事に何でも疑問を持つようならば、理系へ行って科学者か医師か、文系で学者か何れ立派な人に成るものと思わざるを得なかった。
藤岡市の一四歳の楯 和馬君と云う少年の投稿を見ての感想である。自分でライバルと云う数学が得意お兄ちゃん、しかも飛び抜けてと言う処がライバル視の視点かもしれない、お兄ちゃんを観察するところも鋭い、(「この問題分からない」と言った、しかし、次に来た言葉は「絶対に解いてみせる」だった。その後も頑固に問題に挑み続けた。暫くしてひらめいたらしく、鉛筆がものすごい速さで動いている。その時の兄の眼は、さっきまでのつらそうな目から、輝かしい目に変っていた、一つの階段を上がったように見えた。「この問題分からない!」の後には、自分で解くという気持ちが必要なのである。)この後「人間だれでも分からない事はある。それを何とか自分の力で解いたとき、とてつもない満足と、成長につながるのだと思う。」といっている。ちょっとやそっとで一四歳の少年の言える言葉ではない、さらにそのあと「自分も兄を超えるために自分自身の力で解こうと思う」と言っている。
まっこと感心させられた、その頃おいどん何をして居ただろう、大日本帝国海軍飛行予科練習生を受験し最終で胸囲で落とされた後、学徒動員で飛行機の部品を作って居たか。
群大医学部付属病院の正門の桜並木は、昨日からの春嵐で大方の花は散ってしまっていた、今日は一月七日以来三か月ぶりの通院日である。この日だけは早起きをと云っても五時半ごろ目を覚まし六時頃起きだして、家を八時前に出て九時前に病院へ着いていた。
まだ少し残った桜だが、対向車のトラックの残影で正門の付近がよく見えない、
受付機へカードを通し受付を済ませて採血室え、何時も混んでいるがどうせ診察は十時過ぎと踏んでノンビリ、外科外来で待つことしばし、呼ばれて乳腺内分泌外来九番で担当医の長岡りん先生「かってオペのあと、孫ような女医さんと表現した方」の診察を受け、「経過は良いですね、検査の数値も良いですし」とのこと、少し話した後写真撮影の許可を戴きブログ用に撮影をさせていただく。
続いて放射線科へ、こちらは担当清原浩樹先生とまだ大分日があるけれど六月十日入院の手続きをして、やはり男性だけれど写真撮影を申し入れ撮影。
今度で四回目となるヨウ素治療入院だが何回やっても良いものでは無い、だがこの現代医学で救われているのだがら贅沢は言って居られない、しかも普通に生活出来ているのだから有難い。
だがオペ入院で見たような延命治療は願い下げしたい、我が家のジジババはそんな事も話している処である。
お二人の先生撮影協力有難う御座いました。
呆れたものだ先日の大暴れの雨も、「良いお湿り」などと云ったら昨日から今日にかけてのこの低気圧の暴れ加減、こう続けらては叶わない怪我人や亡くなる人まで出るとはとんでもない事、うっかり褒めることも出来ない。
この時間三時五分前だがさっきまでゴロゴロザアザアと賑やかだったが、もう雲が切れ明るい日差しが射している。昨夜は大荒れの予定だったがこの辺は雨風ともにそれ程ではなかった、上州は千葉、茨城などより内陸などで内場の事が多い所だ。
お天気さんもすべて程々がいいですね、人間様も元はと云えば地球と云うお星さまの仮住まい、大きなことも贅沢な事も言える立場ではないのですが、まあ復旧工事でも止もう得ず急ぐことですかね。