「私伝・吉田富三 癌細胞はこう語った」 吉田直哉著 文春文庫 P260-262
(3)医事は自然に如かず、静観待機療法
この第三項の見出しは、医事不如自然と静観待機療法と二つであります。
先ず、静観待機療法の方から述べる事にします。
これはドイツ語の expektative Therapie の日本語訳だろうと思います。この療法の趣旨は、先ず患者に対して、最初のほどは病状に応じて食事その他の日常生活上の注意を与える他は特別の処置をせず病状の自然の推移をしばらく静観したうえで機を待って、そこで本当の処置を決定すると言う物であります。それで静観待機療法となるのでありますが、治療の方法というよりは、治療における医師の態度という方が適当かも知れません。
少し古い話になりますが、この「静観待機療法」は、日本内科学会編・内科学用語集の中に、最初の程は採用されてあったそうであります。それが昭和16年度編の用語集にはこれが抹殺されているそうであります。実際、静観待機療法などという用語は、ここにご参会の方も相当の御年輩の方でも最早ご存じない方が多いだろうと思われます。
またも古い話になりますが、私の恩師佐々木隆興先生は、昭和29年5月に、日本内科学会50周年記念講演をなさいました。「現代医学と東洋医学」と題されたものでありましたが、その講演の中で、先生は、「静観待機療法」が内科学用語集から消されたことを嘆き、失望の意を述べられて、もしこの療法に悪い所があるならば、「それは学問の罪に非ず。これを用いる人の罪である。」と言っておられるのであります。講演の中で言われた事ですが、私には忘れ難い先生の教訓の一つであります。
人体には疾病に抵抗し、これに打ち克つ良能(自然良能)の備えている事は疑いの無い事実であります。例えば人体の或る局所に細菌等の侵襲があった場合に、その局所で起こる炎症性反応は力強い限りであります。即ち、充血、浸出、白血球を始めとする遊走細胞の動員から、肉芽組織の形成に至る経過を、仔細に辿ってみるならば、その整然として確実な防衛力、即ち良能の力に驚嘆せずにはいられません。
一般的にいって、人体の病変は医師が治すのではない。この良能によってなるのであります。医師の役割は、良能の発現と妨害するような条件があれば、これを除去して、良能の有効なる発現を誘導し、或いは良能の効果を強化するのでありますから、第二義的なもの、いわば脇役であると云わねばなりません。
静観待機療法というものは、この関係をよく心得ていて、医師が何時顔を出し、手を出したらよいかを、注意深くその機会を待つと言う医師の態度であります。分を弁えた態度、それを云うのだと思います。
次に「医事不如自然」でありますが、杉田玄白がこの句を書いた軸物があります。この句は玄白の作かどうかは不明だということですが、いずれにしても最近その軸の複製が出回っていますからご存知の方も多いかと思います。この医事は自然に如かずも、静観待機と精神は同じだと思います。決して医事を卑しむ言葉ではありません。医事は自然の上位に位するものに非ず、自然に従い、良能を誘導し、その完遂を助けるのが即ち医事だ、と言う意味でありましょう。換言すれば、「良能なくして医事なし」と言う心でありましょう。
以上述べましたのは、医事におこる自然優先の思想であります。或いは医療においては自然を主とし医事を従とする思想であります。
併し私は、静観待機とか医事不如自然とかは、これらの命題を打ち出している背後にある思想を見落としてはならないと思うのです。それは単に良能優先とか自然尊重とかいう一通りの物ではなく、そのもう一つ奥に深くあるもので、それは人間の個別的尊重、或いは個別的人間尊重と言える物かと思います。
人間と言う存在も自然物です。人間が作ったものではない。人間の一人一人が超人間の力の創作になる自然物ですから、自然尊重は、即ち個別的人間尊重に通じます。医療の場合には、人間一般ではなく、個々の人間の個人としての存在に対する畏怖の念、そのような個人をその者として先行させて、その上で治療に当たるという思想です。それが岩盤のごとく強くそこに横たわっている事を、見落としてはならないと思うのです。