波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

暮らしのつながり方

2020年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 

年退職して8年目。着なかった服捨てる。2階押し入れ分を片付け、明日は1階の箪笥とクローゼットに取りかかる。イメージでは、夏冬それぞれ10着以内、秋春も10着以内、儀礼とよそ行きで2着。その服にあわせて暮らす。この7年間で実験済み。当然だが、親友のママヨさんに強制しない。自立した人間どうしの共同生活だもん。

時進行で、使わないパソコンと携帯電話とカメラを2箱分(モニターやケーブル、電気小物含め計40キロ)片付ける。新聞広告で廃棄先を知る。先週の『描いたもの』に続く『使い終わったもの』の一括削除。気分よく迷わず捨てる。小気味よくリズム感持って捨てる。

費を少し節約しなければ、とママヨさん。思い当たるので了解。その上で、「『衣』を片付けたら『食』にやっと手が付けられるから待って欲しい。」と真面目な顔で言ったら、面白いなあと言われた。『暮らし』の根本のところを意識してことにあたらなければ挫折する。ふざけていない波風氏を前に「やっぱり、今のままでいいかな」とママヨさん。なに、びびってるんですか。


亡き父母の手紙や日記を始末する。決心がつかなかったが新聞の悩み相談で考えるものがあった先月中止した17回目の読書交流会。今月は開こうと思う。北海道で当管内だけが罹患者ゼロ画像は8年前の冬に描いたイラスト。冬に戻ったみたいな今日。

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言葉のケイコ【その廿拾捌(にじゅうはち)】

2020年04月07日 | 【保管】言葉のケイコ

 

歩く


にとっての新しいスタートを切ってからちょうど1年が過ぎた。実はその間(正確には昨年5月末から)こっそり続けてきたことがある。ダイエットだ。膝に水がたまり痛くて歩けないくらいの状態が続いたことが一番の理由。もうどこにも行けないかもしれない、と考えたら怖くなった。それまでは仕事が忙しいことや諸々を言い訳にして目を背けてきたが、一切の言い訳が通用しない生活。歩けなくなってからでは遅い。今まで仕事に使っていたエネルギーをダイエットに使ってみようと決心。当然楽して痩せられることもなく、我慢の連続。もとがまんまるな私が2、3キロ痩せたところで気づいてはもらえない。ちょっとへこたれそうになる。けれど結局は自分のためにやっていることと続ける。おかげで数ヶ月たって膝の病院の先生に「別人の膝のよう」と褒められた。だから私はその後もこっそり続けている。最近になって、会う人に「痩せたね」と言ってもらえるように。まんまるが中まるになったくらいのものだが、ああ続けることには意義があるよなと思える。頑張ることは無駄なことじゃない。


けなくなってからでは、遅い。私は最近新たにそう思うように。この国は、世界は、どこに向かうのだろう。みんながそれぞれの正義を盾に腕を振り上げる。目指すところは同じはずなのに。どうして痛むところが偏るのだろう。願わくは、この痛みを、我慢を乗り越えた先に、人々がやってきたことの意義を見いだせますように。頑張ってよかったと、思えますように。


【波風氏談】コメさんが転ブロ(=転勤でブログ協力終了の意味)し、今日からケイコさんお1人に知人協力ブログのお任せ。波風氏も4年ほど前に膝と踝が痛くて階段の上り下りが出来なくなった。病院で、体操と減量のお達し受け真面目に努力したら改善。ケイコさんの嬉しさ、わかるなあ。金魚の画像は幼稚園時代の息子の描いたもの。

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高貴な心

2020年04月04日 | 新聞感想

ルテガは、ドイツとイタリアでフアッシズム台頭し、ロシア革命が起きた時代の人。全くの聞きかじりだが、彼の言う「貴族」とは自分と異なる他者と対話し共存できる我慢や寛容の人。その対極が「大衆」。階級的な意味と違う。一匹なら愛らしいバッタが大群だと全てを食いつくすイメージ湧く「大衆の反逆」。

ぜ「大衆」は暴走するのか、相反する民主主義と立憲主義、指導者と支持者、死者の役割・・・・「こうでないかなあ」の世界観がオルテガの言葉でところどころだがくっきりしてくる。
コロナウィルスに対する指導者の「不要不急の外出は自粛」は、公的助成が無いなら客商売には公的営業妨害ではないのか。店側は文句一つ言えず指導者の暴走は放置され続ける。客の方も店を何とかしてやりたくても「もし・・・」もの時に、検査さえ困難だから言われなくても外に出られない。最高指導者から「この国では誰一人死なせない」という貴族の言葉はまだ一度もない。

こ最近、医療関係の人から「マスクがもうすぐ無くなりそうだ」、自営小売店の人から「このままなら自殺人がたくさん出る」、飲食店アルバイトから「もう罹かっているかもしれない」、地域のサークル会員が「マスクがないから行けない」という話。
背伸びであっても自らに強く迫る人、自らを後回しに奮闘する人、その人たちの身を案じて行動する人・・・・高貴な心が試される世界。


公式裏ブログを『エイリアンでなく』で更新 牛丼つくる。隠し味に赤ワイン、いける。温野菜冷やしウドン久しぶりに。生姜とにんにくで炒める茄子とピーマンは最強だね。今度、これに牛肉も入れて・・・絵と工作関係の材料やスケッチブック等、今週いっぱい使って片付け。仕事量に比べものすごく疲れた。

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コメの学習帳 最終回【34頁目】

2020年04月02日 | 【保管】こめの学習帳

売っているものは作れる~稚内の暮らしを振り返る【下】~

祖父は作る人だった。動物が好きで、犬・鳩・チャボ等飼っていたが、その小屋は祖父の手作りだった。祖母はいつも木目込み人形を作っていた。作品は今でも実家の玄関を飾ることがある。父から定年間際に、近所に売ってないからネットで買ってくれと頼まれたのは木工に関する本だった。その後、実家に帰るたびに椅子やベンチなどの作品が増えた。母は編み物の資格を持っており、仲間と展示会をして販売もしていた。そういえば、姉は家庭料理を習いに、極短期間だが単身イタリアに渡っていた。今は高校で歴史を教えている。

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タイトルは私の言葉ではない。稚内で聞いた言葉だ。納得しつつ困惑するような、しかしとても魅力的なことだと思った。売っている物は誰かが作った物なのだから、自分でも作れると思った方が楽しいはずだ。出来合いのものを消費するのもいいのだが、自分で作ることも魅力あることだと感じた。自分も何か作ってみたいと考えた時に、冒頭の家族のことが思い出された。それまでに家族が何かを作っていることに意識的でなかった。

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4歳になる息子も、よく何かを作っている。通っている幼稚園の影響も多大だが、テレビや図鑑で見た恐竜を描いたり作ったりしているのを見ると、自分が見た物を再現するということが彼にとって心地よいなことなのかもしれないと思う。子どもが夢中でやっていると、何か人間の根源的な欲求に基づくものなのかもしれないと感じる。必要だから作らざるを得ないこともあるだろうが、作ることで心の安定や安心感も得ているのではないかと思う。作るって素敵だ。自分はこの先、何を作りたいと思うのだろう。長期にわたる短いこのコラムヒントを得られたような気がする。


【波風氏談】コメさんから「ママヨさんの言葉(「売っているものは作れる」)をお借りしました」、「ケイコさんからの学びもあって『身構えないけど向き合う』ような書く姿勢を得られ・・・・・・「文章を作る」ことを自分のブログでもやっていきたい」と本記事送信時にコメント。長い間のご協力、ありがとうございました。

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