電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

石井好子『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』を読む

2016年05月09日 06時03分53秒 | -ノンフィクション
河出文庫で、石井好子著『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』を読みました。1963年の春に暮しの手帖社から出た単行本を文庫化したものだそうで、高度経済成長期以前の1950年代、まだ日本全体が貧しかった時代に、憧れの巴里の街で生活をした頃の日常が描かれ、ちょっとハイカラな雰囲気とごく庶民ふうの視線が共感を集めたものと思われます。

そして、何よりも、登場する食べ物がほんとに美味しそうで、いたって簡単に作れるように思ってしまいます。たしかに、難しいことを言えばきりがないのですが、同じ材料を使って一定の順番で作れば、それなりに美味しく食べられることは単身赴任時代に実感しています。

玉ネギと間違えてスイセンの球根を食べさせあやうく人殺しをしそうになった話などは、ちょいと怖いエピソードですが、いくつかの料理は真似して作ってみたくなります。



思わず時代を感じてしまうところもいくつかありますが、その中でも、果樹農家の息子で現在は週末農業を営むワタクシらしい指摘を一つだけしておきましょう。

 白桃だってそうだ。てのひら一杯にのるくらい大きく、皮をむくとつるつるの白いみの出てくる、きめのこまかい白桃は、おいしいにはおいしいが、なんだかこくがない。むしろ、小さくて黄色みをおびて、きずも少しついている、すっぱみも少しある安い桃のほうが味がよい。
 果物もあまり改良されてしまうと、本来の味が消えて、まずくなるのではないかと心配だ。(p.134)

これは、1950年代末~1960年代初頭の品種を考えたとき、おそらくは缶詰用の白桃と生食用の黄桃とを比較しているのではないかと思います。缶詰は、後で甘く加工するわけだから、味よりも大きさが特徴的ですし、生食用の黄桃と比較したら、だんぜん味が劣ります。目的の違うものを同列に比較しても、しかたがないのです。



残念ながら氏はすでに2010年に亡くなられているようですが、現代の生食用の白桃、例えば「川中島白桃」を食べたとしたら、著者はどのような感想を持ったのでしょうか。たぶん「やっぱりちがうわね~。前言は撤回しますわ(^o^)」などと言ったにちがいないと想像しております。

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田村喜子『京都インクライン物語』を読む

2016年03月27日 06時00分52秒 | -ノンフィクション
中公文庫の田村喜子著『京都インクライン物語』は、私の愛読書の一つで、京都・南禅寺の水路閣や蹴上の水力発電所界隈と共に、京都のお気に入りスポットの一つです。以前にも「『京都インクライン物語』と『日本の川を読みがえさせた技師デ・レイケ』」という記事(*1)を書いていますが、このたびふとしたことから再読してみて、田辺朔郎の前半生において工部大学校が果たした役割の大きさをあらためて感じました。

幕臣の子として生まれ、早く父を病で失った田辺朔郎は、明治維新の後に叔父・田辺太一の援助で工部大学校に入学します。ここで二年間の基礎教育と二年間の応用教育、そしてさらに二年間の実地訓練と経験を積んでいくわけですが、最後の実地のテーマが、琵琶湖疏水の計画というわけです。卒業論文として完成させた琵琶湖疏水の計画は、当時の京都府知事・北垣国道の注目するところとなり、北垣によって府の事業の中心となる技術者として招かれることとなります。

本書は、後半の疏水に伴うトンネル工事や水力発電の導入、インクライン等、琵琶湖疏水に連なる様々な課題を解決していく姿が中心となるのでしょうが、この大きな事業を成し遂げた背景にあるのが、工部大学校における六年間の教育であったことは間違いないところでしょう。

(*1):『京都インクライン物語』と『日本の川を読みがえさせた技師デ・レイケ』~「電網郊外散歩道」2005年6月

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中岡哲郎『日本近代技術の形成~〈伝統〉と〈近代〉のダイナミクス』を読む

2016年02月01日 06時02分58秒 | -ノンフィクション
明治期の技術移転について、ある程度詳しく知りたいと思い、購入して読み始めた中岡哲郎著『日本近代技術の形成~〈伝統〉と〈近代〉のダイナミクス』を読んでいます。当初の目的であった、当ブログの「歴史技術科学」カテゴリーの記事の参考に、というねらいを超えて、ひじょうに有益な、おもしろい本であると感じました。

本書の構成は、次のとおり。

第1章 工業化の始点
第2章 武士の工業
第3章 明治維新と工部省事業
第4章 過渡期の在来産業~その原生的産業革命
第5章 機械紡績業の興隆
第6章 工部省釜石製鉄所から釜石田中製鉄所へ
第7章 近代造船業の形成
第8章 日本近代技術の形成

この中で、とくに印象深かったのが、工部省釜石製鉄所の破綻・失敗と、釜石田中製鉄所の成長のプロセスです。木に竹を継ぐような大規模技術移転が失敗し、在来のシステムを生かした小規模経営は一定の成功を見ます。しかし、鉄鋼石を還元する炭素Cを木炭に依存する限り、やがて周辺の森林を破壊しますし、遠方での木炭製造と運搬はコスト増を招くのは必至で、結局はコークス還元に転換せざるを得ません。良質のコークス製造を含めた製鉄所全体のシステムは、在来の木炭使用型の小型高炉と新規のコークス使用型の大型高炉とを併用して経営することになります。

このあたり、助言し実際の改善に携わったのが、工部大学校を前身とする東京大学工学部の野呂景義とその弟子の香村小録であったところが注目されます。「維新の志士」世代の無謀な計画が頓挫し、近代工学を体系的に学んだ世代が実地に応用を工夫努力することによって実現をみることで、社会的評価を高めて行ったプロセスと言えます。

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高野利也『ガン遺伝子を追う』を読む

2015年07月10日 06時05分09秒 | -ノンフィクション
進歩のはやい分野では、概説的な本はあっという間に古びてしまいがちです。生命科学、とくにガン遺伝子研究などという分野では、日進月歩、新聞紙上でも様々な知見が話題となり、つい先日も「がん細胞のゲノム解読」が報じられた(*1)ばかりです。



岩波新書で、高野利也著『ガン遺伝子を追う』は、岩波新書黄版という装丁からわかるように、今からおよそ30年前の1986年の刊行で、現在は品切れか絶版のもよう。その意味では、むしろ研究の進展を追いかけた当時の、同時代的な熱気の残る本と言えそうです。

本書の構成は次のとおり。

第1章 正常細胞とガン細胞
第2章 ガンの原因は遺伝子に作用する
第3章 ヒトのガン遺伝子を求めて
第4章 ガン遺伝子の正体
第5章 ガン遺伝子タンパク質をとらえる抗体
第6章 ガン遺伝子タンパク質の働き
第7章 細胞増殖の異常を引き起こすガン遺伝子
第8章 細胞の分化、ガンの転移とガン遺伝子
第9章 細胞のガン化の仕組みを考える
第10章 研究の問題点と将来

1979年、マサチューセッツ工科大学のR.A.ワインバーグらが、メチルコラントレンという発ガン物質でガン化したマウスの細胞からDNAを抽出し、マウス培養細胞に移入して細胞のガン化を確認します。続いて1981年には、ヒトの膀胱ガン等のDNAを同じように培養細胞に加えて、細胞のガン化を確かめ、ヒトのガン細胞のDNAには「ガン遺伝子」が含まれており、これが動き出すことで「ガン化」が起こることを示します。

そこから多くのガン遺伝子が発見されるとともに、正常な細胞にもガン遺伝子があることが判明します。とくに、ラス遺伝子の場合、タンパク質のアミノ末端から数えて12番目のアミノ酸(Gly:グリシン)を支配する(コードする)塩基(GGC)のうち1個が変異してGTCとなり、その結果アミノ酸がバリン(Val)に代わっていることがわかっています。つまり、遺伝子の上では、遺伝の暗号がただ1文字変化しただけで、タンパク質のアミノ酸1個が変化し、その結果、細胞がガン化することになるわけです。

ただし、遺伝子上の変化がどのようにガン化を引き起こすかについては、まだわかっていないとしながら、ワインバーグの二段階仮説を紹介します。正常な細胞では、免疫のしくみによってがん細胞の発生は抑えられていることから、ガン抑制遺伝子の存在が明らかになります。



本書では、ガン遺伝子の発見と研究の経過を追いながら、細胞増殖と分化の仕組みを見つつ、ガン抑制遺伝子の発見までを扱っています。おそらく、ガン抑制遺伝子の役割など近年の成果については、もっと最近の本を手に取るべきなのでしょう。それでも、最近の新書のお手軽さを感じているだけに、黄版のころ岩波新書の格調と充実度を痛感してしまいます。

(*1):がん細胞のゲノム解読~2015年6月29日付共同通信より

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池上彰『そうだったのか!日本現代史』を読む

2015年07月05日 06時04分54秒 | -ノンフィクション
集英社文庫の、池上彰著『そうだったのか!』シリーズより、『中国』に続き『日本現代史』を読みました。
本書の構成は、次のとおり。

第1章 小泉内閣が生まれた
第2章 敗戦国・日本 廃墟からの再生
第3章 自衛隊が生まれた 憲法をめぐる議論始まる
第4章 自民党対社会党~「五五年体制」の確立
第5章 安保条約に日本が揺れた
第6章 総資本対総労働の戦い
第7章 日韓条約が結ばれた
第8章 文部省対日教組 教育をめぐって抗争が続いた
第9章 高度経済成長 豊かな日本への歩み
第10章 「公害」という言葉が生まれた
第11章 沖縄は帰ってきたけれど
第12章 学生の反乱に日本が揺れた
第13章 日本列島改造論と田中角栄
第14章 バブルが生まれ、はじけた
第15章 連立政権の時代へ

いずれも興味深い内容ですが、私の生まれる前の頃の話が、とくに興味深いものがあります。敗戦国・日本が廃墟から再生するについては、経済の破綻の中を生きのびなければならなかったこと。わが老母は、戦時中、女学校の同級生たちと共に、神奈川県の軍需工場に動員されたのだそうですが、食べ物が乏しくて、ひもじくて閉口したといいます。同級生の中に農家があり、送ってもらった食物を分けてもらい、うれしかったそうな。戦後すぐにお嫁に行くときに、非農家出身にもかかわらず農家の長男に嫁いだのは、食物に不自由しないだろうと思ったから、と笑います。なるほど!です。

戦争犯罪の追及や農地改革などについても、戦争中は軍国主義の旗振りや監視・告発に奔走していたのに、戦後になるとコロリと旗色を変えて、政治家としてのし上がっていった人など、村の役職にあった祖父や、先年亡くなった父からも、「大嫌いな人」として名前を聞かされたものでした。ああなるほど、その人は、占領軍に取り入ることによってそれが可能になったのだな、と合点がいきました。

そういえば、私が物心ついた頃にも、当地には進駐軍の将校が家族と共に住んでおりました。その子どもたち、兄と妹とは、一緒に遊んだものでした。駐屯地はすでに米軍から今の自衛隊に引き継がれていたはずなのに、なぜあの米軍将校家族は居住していたのか? その理由が、おぼろげながら理解できたように思います。もしかしたら、あれは情報将校であり、自衛隊はその成立時から、米軍の傘下にゆるやかに組み込まれていたということか。思わず眼からウロコです(^o^)/
いや、単に国際スパイ小説の読みすぎだったりして(^o^)/



公害や沖縄返還、あさま山荘事件、田中角栄、バブル経済などは、まさに同時代史です。思わず懐かしさが優先しそうになりますが、本書のように解説され意味づけられてみると、平易でたいへんわかりやすい。『そうだったのか!日本現代史』という書名は、まさにそのものズバリです。

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福岡伸一『生物と無生物のあいだ』を読む

2015年06月20日 06時03分06秒 | -ノンフィクション
講談社現代新書で、福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を読みました。学生時代に生化学を専攻したとはいうものの、その後の進歩はフォローしきれず、アセチルコリン・レセプターのサブユニットの塩基配列が解明されたあたりで止まっております。本書がベストセラーになっていた時期も、なにをいまさら二重らせんでもあるまいと、とくに関心を示さずにきておりました。そんな時に、たまたまPCR法の確立以降を扱った入門書を探すことになり、本書を手にした次第です。

私にとっては、エイブリーの肺炎双球菌を用いた実験(遺伝子の本体はDNAである)や、シャルガフの法則(4種の塩基のうち、AとT、CとGの含有量は等しい)などは、学生時代を思い出させ、なんとも懐かしい、ほろ苦さを持った内容です。しかし、PCR(polymerase chain reaction)法は、私にとってはそうではありません。原爆症の父が最初の胃ガンで剔出手術を受け、大学院進学を辞退し就職へと急に進路変更してから10年も過ぎたころに確立された方法です。もし、経済的基盤を失ったまま、家族を見捨てて大学院に進学していたらどうなっていたのだろうと恐ろしくなります(^o^)/
本書の構成は、次のとおり。

第1章 ヨークアベニュー、66丁目、ニューヨーク
第2章 アンサング・ヒーロー
第3章 フォー・レター・ワード
第4章 シャルガフのパズル
第5章 サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ
第6章 ダークサイド・オブ・DNA
第7章 チャンスは、準備された心に降り立つ
第8章 原子が秩序を生み出すとき
第9章 動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)とは何か
第10章 タンパク質のかすかな口づけ
第11章 内部の内部は外部である
第12章 細胞膜のダイナミズム

PCR装置の発表は、1988年のようです。



要するに、DNAの二重鎖を100℃に加熱すると、アデニン(A)とチミン(T)、シトシン(C)とグアニン(G)間の水素結合が切断され、一本鎖となります。これを一気に50℃まで冷却し、徐々に72℃まで加熱していくと、二重鎖に再構成される前にプライマーが結合した箇所からDNAポリメラーゼが作用し、求めるDNAが二倍量に複製されます。これを再び100℃まで加熱し、コンピュータで制御してこのサイクルを繰り返せば、4倍、8倍、16倍…と自在に複製することができます。つまり、

「任意の遺伝子を、試験管の中で自由自在に複製する技術。もう大腸菌の力を借りる必要はない。分子生物学に本当の革命が起こったのだった。」(p.76)

ということになるわけです。
普通の酵素タンパクは、100℃では熱変性して失活してしまうものですが、100℃に加熱してもDNAポリメラーゼが酵素活性を失わない理由は、好熱細菌から抽出されたためで、最適温度が72℃であるとのことです。これも、実に興味深い。



遺伝情報の中から特定の文字列を探しだし、複製する自動化プロセス。その鍵は、ごく短い、人工的に合成可能な、10~20文字の1本鎖DNAでできている二つのプライマーにある、とされます。アンチセンス側はプライマー1から、センス側はプライマー2から、それぞれDNAポリメラーゼが複製していき、2本鎖DNAが2倍に増えて行きます。このようにして、目的のDNAの配列をいくらでも複製することができれば、材料が微小量であっても、困難はかなり回避できることになります。



動的平衡系としての細胞の中で、とくに細胞膜の動態に着目し、人工的に作った脂質二重層は安定なのに、酵素分子を分泌する膵臓の組織では、細胞内で作られた酵素分子がどのように細胞膜を越えて消化管に分泌されるのか。この精妙な膜の動態を明らかにするために、ポリアクリルアミドゲル電気泳動法で二番目のバンドとして観察される糖タンパク質GP2の遺伝子をノックアウトしたマウスが使われます。その実験の結果は……。

うーむ、明らかになってみれば、ごく当然の結果でしょう。人間社会のある組織の構成員が、事故や病気で「ノックアウト」状態になってしまったときには、たいていの場合、代わりの人が出てきて、仕事はなんとか継続されます。ところが、ある一人の人が悪意を持って特定の仕事をサボタージュしてしまうと、全体がおかしなことになってしまう、そんなイメージでしょうか。

本書で話題にされている、ワトソンとクリックのノーベル賞受賞の業績に、ロザリンド・フランクリンのX線解析の結果がどのように使われたのか、という点については、高校生の頃に読んだ『二重らせん』でも、「かわいそうなロザリンド」と同情したものでした。でも、話題としてはすでに半世紀以上前の出来事で、特に感慨はありません。むしろ、自分自身が厳しい研究競争の渦中に身を置くことなく人生を送ったことを、結果的には良かったと思っていることに、歳月の重みを感じます。

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池上彰『そうだったのか! 中国』を読む

2015年05月15日 06時05分28秒 | -ノンフィクション
集英社文庫で、池上彰著『そうだったのか! 中国』を読みました。いかにテレビを観ないとはいえ、著者が「週刊こどもニュース」のお父さん役で解説を担当していたことくらいは承知しています。そのときの解説がわかりやすいことに強い印象を持っており、文庫本で現代中国の背景を手っ取り早く知りたいという軟弱な動機で手にしたものです。

本書の構成は、次のとおりです。

第1章 「反日」運動はどうして起きたのか
第2章 毛沢東の共産党が誕生した
第3章 毛沢東の中国が誕生した
第4章 「大躍進政策」で国民が餓死した
第5章 毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った
第6章 チベットを侵略した
第7章 国民党は台湾に逃亡した
第8章 ソ連との核戦争を覚悟した
第9章 日本との国交が正常化された
第10章 小平が国家を建て直した
第11章 「一人っ子政策」に踏み切った
第12章 天安門事件が起きた
第13章 香港を「回収」した
第14章 江沢民から胡綿涛へ
第15章 巨大な格差社会・中国
第16章 進む軍備拡張
第17章 中国はどこへ行くのか
21世紀の中国の光と影

この中で、私の世代ではいわゆる「ニクソン・ショック」の記憶が鮮明です。同盟国・日本の頭越しの訪中がどういう意味を持っていたのか、本書では中ソ対立を背景に、「敵の敵は味方」という考え方で米中の接近が起こったこと、ベトナム戦争を続けるアメリカ側からは、中国の直接介入がないことを確かめたこと、などを指摘しています。なるほど! そうだったのか!

また、アマルティア・センの著書『貧困の克服』(集英社新書)で指摘されていたように、中国の「大躍進政策」によって大量の餓死者が出た経緯や理由が、本書では具体的に説明されており、迫力があります。権力の中枢にある毛沢東には、地方の惨状について情報が届いていないだけでなく、そもそも独裁者は地方のリアルな情報など欲していない。貧困や飢餓は、たんに食料や物資が不足するからというよりも、足りない地域と余っている地域に関する情報が交流しないこと、端的に言えば、政府が無策なことによる。ベンガル地域におけるセン教授の指摘が、1950年代の中国にも当てはまります。

そのほか、文化大革命とは何だったのか、二回の天安門事件の意味など、眼からウロコがぼろぼろと落ちました。この文庫本シリーズはけっこう好評なようで、他にも増刷を重ねて書店に平積みになっているものがあるようです。高校の歴史の授業ではついに到達しなかった現代史、自分が同時代に経験した様々な出来事の意味を示唆し、あるいは解き明かすものとして、良いシリーズを見つけたと思います。

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杉森久英『天皇の料理番』を読む~新聞報道をきっかけに

2015年04月23日 06時01分03秒 | -ノンフィクション
過日、新聞で興味深い記事を眼にしました。2015/03/17付けの山形新聞の記事です。

宮中の献立1200枚公開、「天皇の料理番」秋山徳蔵が収集

記事によれば、日本の近代化の中では様々な変化があったことと思いますが、その一つ、宮中の料理のメニューの変遷を裏付ける基礎データとなる資料が、元「天皇の料理番」の手によって収集整理されていたものを、このたび公開の運びとなった、ということです。

そういえば、『天皇の料理番』というのは、たしか同名の本が刊行されていたのではなかったか。興味を持って、図書館から借りてきました。昭和54年、読売新聞社から刊行された単行本です。本書は、次のような構成になっています。

  1. 胸に燃える火
  2. 天まであがれ
  3. 負けじ魂
  4. フランス熱
  5. 堪忍袋
  6. 新ジャガ
  7. セーヌ川のほとり
  8. 雲の上
  9. 戦争のあとさき

第1章:「胸に燃える火」。福井県の旧家・高浜家の次男の篤蔵は、はじめは坊さんになりたいと小僧として禅寺に入りますが、歴代住職の墓を倒すなどのイタズラで寺を追い出されます。次男なので料理屋の養子になり、得意先の鯖江の連隊の田辺軍曹にカツレツを食べさせてもらい、西洋料理に憧れます。軍曹に基礎だけはひととおり習うものの、養家の借金問題を契機に、妻を置いて一人で東京に出奔します。
第2章:「天まであがれ」。長男で優秀な兄は、学問好きで東京の法律学校に遊学中でした。兄の紹介で、フランス帰りの桐塚弁護士から華族会館に推薦してもらいます。
第3章:「負けじ魂」。華族会館での新米修行は、同時に料理人の世界における人間関係というか力関係というものに対する洞察を養う期間でもあったのでしょうか。寺の小僧時代の経験が役立った面もあるようです。
第4章:「フランス熱」。西洋料理を勉強したい熱がこうじて、フランス語の勉強を始め、その上に仮病を使って休みを取り、英国公使館にもぐりで出入りするようになります。
第5章:「堪忍袋」。そんな事情を知られてしまい、直属の上司にことあるごとにいびられるハメになります。しかし、逆に喧嘩でこてんぱんにやっつけてしまい、華族会館を飛び出します。
第6章:市井の食堂で働いた後に、上野の精養軒で働けることになります。ここでは、フランス帰りのグラン・シェフ西尾のノートをこっそり盗み写すなど、フランス熱は高まるばかりです。
第7章:「セーヌ川のほとり」。徴兵検査の後、父親に頼み込み、フランスに料理修行に行けることになります。このあたり、次男坊とはいえ、さすがは旧家・資産家の息子です。パリに到着し、ホテル・マジェスティックに住み込みの下働きの見習いとして入ります。小遣銭ほどの給料で懸命に働き、やがてキャフェ・ド・パリという高級レストランに移って、給料もぐんと上がります。別れた奥さんに似たフランソワーズという娼婦と仲良くなった頃、パリの日本大使館参事官の安達峰一郎(*1)から手紙が届き、宮内省に推薦しているとのこと。
第8章:「雲の上」。帰国してロシア大使館のシェフをしている秋沢重次の娘・敏子と結婚し、エスコフィエの『料理全書』の翻訳を出版するうちに、宮内省の厨司に任命されます。要するに、篤蔵は「天皇の料理番」になったわけです。
第一次大戦が終わって、昭和天皇がまだ皇太子の時代に、ヨーロッパ親善旅行に出かけます。このときは、秋沢となった篤蔵も随行し、英国での歓迎のメニューや厨房の様子などを見学、克明に記録を取ります。バッキンガム宮殿に保存された80年分の正宴のメニュー集を借り出して写せたことは、実に幸いでした。答礼の宴では、篤蔵が腕をふるい、客たちは感心します。昭和天皇の即位~戦争前の時代が、篤蔵の最も脂の乗った時代でしょう。
第9章:「戦争のあとさき」。妻の敏子を亡くし、終戦によって進駐軍に気を使うこととなり、乏しい材料でやりくりしなければならない現実の中で、篤蔵は知恵をしぼります。それなのに、晩年、何十年も献身した現場の人間が皇室の行事には招かれず、少し前に就任したばかりのナントカいう課長や部長が招かれる。このあたりは、日本の官僚制の典型的な姿でしょう。篤蔵の最期は、いかにも気骨ある職人のものです。



新聞では、「秋山徳蔵」となっていましたが、本書は実在の人物をモデルにした小説ということで、「秋沢篤蔵」という名前にしたのだそうです。たいへんおもしろい作品です。
なお、備忘のために関連情報をいくつかリストアップしておきましょう。

  1. 2015年4月26日から、TBS系「日曜劇場」でドラマ化・放送されるそうです。佐藤健主演、初回は21:00~22:48のスペシャル版。
  2. 本書は、集英社文庫から2015年3月20日に上下2巻で発刊されているそうです。


(*1):安達峰一郎:現在の山形県山辺町出身の外交官・国際法学者で、国際司法裁判所の判事・所長をつとめた人です。小村寿太郎の下でポーツマス講和条約の草案を作ったことでも知られています。1897年にフランス大使館に勤務していますが、このエピソードは1908(明治41)年にフランス大使館参事官となっていたときのものらしい。「天皇の料理番」の推薦者が山形県出身者であったことに驚きます。
(*2):安達峰一郎~Wikipediaの解説
(*3):世界の良心・安達峰一郎~生家・記念館のWEBサイト

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一志治夫『奇跡のレストラン:アル・ケッチァーノ』を読む

2015年04月06日 06時05分04秒 | -ノンフィクション
文春文庫で、一志治夫著『奇跡のレストラン:アル・ケッチァーノ』を読みました。「食と農の都・庄内パラディーゾ」という副題は、単行本として発行されたときの題名だったようです。本書の構成は、次のとおり。

プロローグ
第1章:天国のような大地
第2章:「アル・ケッチァーノ」開店
第3章:素材への限りない愛情
第4章:「地方再生」と「地産地消」
第5章:庄内地方に生きる生産者たち
第6章:農業の新しい風
第7章:食と農の未来図
第8章:庄内から世界へ
エピローグ

第1章:「天国のような大地」は、山形大学農学部の助手として着任した江頭宏昌(えがしら・ひろあき)先生が、2001年に准教授に昇任、その秋に自然派レストラン「アル・ケッチァーノ」のシェフ奥田政行さんと出会うところから始まります。「地元の食材を生かすような、庄内の食材の良さがわかるようなレストラン」をやりたいという奥田シェフに、江頭先生は「在来作物の、この地域ならではの野菜をこれから発掘して研究しようと考えている」ので、「そういう料理をやってみたら面白いんじゃないですか」と提案します。学者と料理人という組み合わせは、研究者気質と職人気質とは相通じるところがあり、良いコンビなのかもしれません。
様々な在来作物・伝統野菜を採種し播いて育て選抜するという庄内の農業の伝統がまさに消えようとする直前に、かろうじて待ったをかけ、復活させ、維持しようとする努力に、食の現場からと学問からのアプローチが加わります。このあたりは、ドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」(*1)でも描かれており、偶然性というか、人と人とのつながりのおもしろさを感じるところです。
第2章:「『アル・ケッチァーノ』開店」では、奥田シェフの修行時代と庄内への帰郷、そして実家の借金問題など、現実的な面が描かれます。決してふわふわとした甘い話ではありません。
第3章は、地元の食材を生かす努力と工夫を、第4章では奥田シェフのイタリア行きとそこでの評価から、逆に日本で評価が高まる経緯が描かれます。ここまでは、奥田シェフ個人に関わる内容です。
第5章と第6章は、藤沢カブや平田赤ネギなどの生産者の実状が描かれます。温海カブや民田ナスであれば、地元では漬け物をすぐに思い浮かべるところを、奥田シェフの料理は、余計な味付けを控え、素材本来の味を生かしつつ互いのハーモニーを奏でるようなものなのでしょうか。
第7章と第8章は、奥田シェフを取り巻く様々な人々の話。老舗の主人や技術者や事業家など、経歴も在り方も多彩です。
エピローグでは、東日本大震災の直後、被災地での炊き出しボランティアの話も出てきます。そういえば、あの時は当地の飲食店業界も軒並み閑古鳥が鳴く状況でした。お客さんが戻るまでは、だいぶ時間がかかったと記憶しています。八神純子さんのコンサート(*2)でも、奥田シェフとボランティアの話題が出ていました。このあたりは、同時性を感じます。



レストランで使う食材の量などは、生産量からすればごく限られているわけですが、伝統野菜を守ろうと苦闘する人々を勇気づける力はある。ふと、山響を作った村川千秋さんを連想してしまいました。
なかなかおもしろかった。機会があれば庄内の「アル・ケッチァーノ」に行ってみたいものですが、その他にも、地元の食材を生かしつつ良い料理を提供しようとする様々なお店があるでしょうから、それらを訪ねて美味しいものを食べることで、自分自身も楽しみ、少しは地産地消に貢献できるようにしたいものだと思います。

(*1):映画「よみがえりのレシピ」を観る~「電網郊外散歩道」2012年11月
(*2):山響スペシャルコンサート「八神純子・山響と歌う&トーク」を聴く~「電網郊外散歩道」2012年12月

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村上陽一郎『工学の歴史』を読む

2015年02月13日 06時02分05秒 | -ノンフィクション
当ブログのカテゴリー「歴史技術科学」の連載記事の関連で、19世紀の日本及び欧米の科学史・技術史・教育史に関する資料を集めて読んでいますが、たまたま某図書館で、明治の工部大学校に関する章を持つ本を見つけました。岩波講座『現代工学の基礎』より、村上陽一郎著『工学の歴史《技術連関系I》』です。

本書の構成は、次のようになっています。

序章 技術,工学,科学
1 技術の特殊な形態
2 工学教育と工学者の制度
   フランスの場合/ドイツ語圏の場合/イギリスの事情/
   アメリカの場合
3 日本の工学の歴史
   幕末から維新へ/工学寮と工部大学校/工学の他の流れ
4 初期工学者の系譜
   アメリカ電気工学の場合/イギリスの初期工学者/大陸の人々/
   日本における初期工学者たち
終章 結語

なかなか歯ごたえのある内容ですが、とくに私が知らずにいて、今回あらためて認識したのは、1877(明治10)年の雑誌「ネイチャー」に掲載された、"Engineering Education in Japan" という短信の内容です。

これは、16歳から20歳まで実地の訓練ばかりで理論のない英国の技術教育と、理論ばかりで実地の訓練に欠けているフランスの技術教育の欠点を指摘し、ダイアーらが中心になって推進している、理論と実地とを兼ね備えた日本の工部大学校における系統的な教育を評価するものです。

C.W.C.という署名のある筆者が誰なのかは不明ですが、英国のような歴史に由来する桎梏を持たない、明治の日本のような国だから可能な大胆な挑戦をしている、工部大学校における教育の世界的な意味を指摘するものです。欧米からの日本への影響という面だけではなく、日本が欧米に与えた影響もあった、という指摘は、初めてでした。もちろん、影響の大きさ・広さ・深さの点で、欧米からのほうが圧倒的だったのは間違いないところでしょうが。

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『帆布トートバッグの本』を読む

2015年02月06日 06時05分04秒 | -ノンフィクション
誠文堂新光社から2011年に刊行された実用書で、『帆布トートバッグの本』を読みました。「定番から作家ものまで+作り方」と副題がありますが、表紙には著者名が記されていません。奥付を調べてみたら、編者名として「誠文堂新光社」とありました。たぶん、出版社の中の実用書部門が、ムックを作るような姿勢で作った単行本なのだろうと思います。

実際、構成もムック風で、

■帆布のキホン
■長く愛される帆布トートバッグ
一澤信三郎帆布/工房HOSONO/犬印鞄製作所/須田帆布/帆布牛や/アトリエペネロープ/工房おのみち帆布
■新定番の帆布トートバッグ
BAG'n'NOUN/BLANC-FAON/倉敷帆布/mishim/TEMBEA/koton/伊兵衛Ihee
■手作りする帆布トートバッグ

という具合です。

仕事で通勤するには、いかにも中年おじん風な(^o^;)ブリーフバッグを愛用していますが、寺の会合に出たり、地域の会合に参加したりするような時、あるいはちょっとしたお出かけ時には、A4判のファイルがすっぽり入る大きさのトートバッグなどが便利です。今は、山響マークの、小さく折りたためる合成繊維のものを愛用していますが、もう一つしっかりしたものがあってもいいのかも。例えば米沢の「牛や」の日乃本帆布(*)の製品など、ちょいと実物を見てみたい。春になって新しい車が来たら、週末農業の合間をみて、妻と一緒に足を伸ばしてみたいものです。

(*):有限会社三香堂~日乃本帆布×牛や

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川又一英『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読む

2015年02月03日 06時02分54秒 | -ノンフィクション
新潮文庫で、川又一英著『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読みました。NHK-TVの連続テレビドラマ「マッサン」で話題になっている、竹鶴政孝とリタ夫人を描くものです。全体は五章に分かれています。

第1章:造り酒屋の息子として生まれた竹鶴政孝が、大阪高工の醸造科に進み、清酒ではなく洋酒をやりたいと摂津酒精醸造所に入ります。そこで模造ウイスキーの製造に取り組みますが、先見の明のある社長の命令で、スコットランドにウイスキーの研修留学に出ることになります。

第2章:政孝のスコットランド生活を描きます。日本から来た政孝に、グラスゴーの王立工科大学の主任教授ウィリアムは一冊の専門書を紹介します。著者に会いに行きますが、高額な謝礼を要求され断られてしまいます。たまたまある蒸溜所の見学を許され、職工と一緒に実習をさせてもらえることになります。現場の装置の状況や実際の作業のノウハウをノートにメモしながら、どんな役でも自ら買って出ます。
そして、カウン家の末弟の柔術コーチを依頼されたことから、長女リタと親しくなり、さらに別の蒸溜所で実習を許可されます。この実習の後に、政孝はカウン家で日本の鼓を披露し、リタはピアノでシューマンのソナタを演奏します。シューマンのソナタ?もしかしたら、シューマンが若いクララにささげた、あの第1番(*1)?
だとしたら、その後の「オールド・ラング・ザイン」の日英合唱の場面の重要な伏線になりますね。そして、政孝とリタは、周囲の反対を押し切って、グラスゴーの結婚登記所で結婚します。

第3章:リタとともに帰国した竹鶴政孝は、本格的なウイスキー製造に乗り出しますが、経営的な観点から考える者と技術的な観点から考える者の議論は、どうもかみ合いません。これは、いつの時代にも変わらないようですね~(^o^)/
後にサントリーになる寿屋山崎工場からは独立し、政孝とリタは北海道に旅立ちます。

第4章:竹鶴政孝は、北海道余市で「大日本果汁」略して「日果」を立ち上げ、原酒の樽を寝かせながら太平洋戦争をくぐり抜けるところです。この時代、英国人のリタさんは、さぞや居心地が悪かったことでしょう。海軍監督工場の社長夫人という立場が、もしかしたら身を守ったのかもしれません。

第5章:戦後の復興の時代です。まがいものでない、本物のウイスキーが全国商品として認められるまでの、経営的な苦労が描かれます。なるほど、そんなふうにしてニッカは成立・成長し、仙台のニッカの工場も作られ定着したのですね。



NHK-TVの放送のほうは、大日本果汁でジュースの販売に苦労するあたりの場面に差し掛かっていたようです。どんどんストーリーが進んでいきますので、ついていくのに苦労します。それよりも、竹鶴政孝氏がグラスゴー留学時代に書き留めていた留学時代のノートがネット上で眺めることができる(*2)のですね。すごいものです。

(*1):シューマン「ピアノ・ソナタ第1番」を聴く~「電網郊外散歩道」2007年12月
(*2):竹鶴ノート:ニッカウヰスキー80周年ストーリーより

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大山康弘『働く幸せ~仕事でいちばん大切なこと』を読む

2015年01月09日 06時04分58秒 | -ノンフィクション
2009年にWAVE出版から刊行された、大山康弘著『働く幸せ~仕事でいちばん大切なこと』を読みました。著者は、1932年生まれで、白墨(チョーク)を製造する会社、日本理化学工業(株)の会長さんです。1974年に父親の後を継いで社長に就任しますが、1960年にはじめて障碍者を雇用して以来、一貫して障碍者雇用を促進します。その結果、社員では74人中53人、製造ラインではほぼ100%を知的障碍者のみで稼働するといいます。こうした経営が評価され、2009年に渋沢栄一賞を受賞しているとのことです。
本書は、著者の幼いころから始まり、日本理化学工業に入社して障碍者雇用に取り組むようになった経緯と、その理念というか、考え方を述べたものです。

きっかけは、たまたま会社の近くにあった養護学校の先生が、生徒を就職させてもらえないか、それができなければせめて実習として職場体験をさせてもらえないかと、何度も頼みに来たことでした。この子たちは、卒業すれば施設に入ることになり、そうすれば一生働く体験はできなくなってしまう、というのです。はじめは軽い気持ちで、そんなに言うのなら、少しの期間だけ、働かせてみようかと二人を受け入れます。そうしたところ、実に一生懸命に、嬉しそうに働く。周囲のおばちゃんたちが心を動かされ、「私たちが面倒をみるから、雇ってみたら」と言ってくれたのがきっかけで、翌年から採用を始めた、という流れです。
ある法事の際に、禅寺の住職と相席となり、障碍者が実に嬉しそうに、熱心に働くということを話したところ、住職はこんなことを言ってくれたのだそうです。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは、次の4つです。その1つは、人に愛されること。2つは、人にほめられること。3つは、人の役に立つこと。そして最後に、人から必要とされること。障碍者の方たちが、施設で保護されるより、企業で働きたいと願うのは、社会で必要とされて、本当の幸せを求める人間の証なのです。」

そこから、本格的に障碍者を雇用することになりますが、それは、ステップを分解し、単純化するなど、業務プロセスの改善を伴うものとなります。そうした努力が実って、会社は工場を増設し、幾度かの危機を乗り切り、なんとか持続的に成長することができました。著者は言います。

「働く」とは、人に必要とされ、人に役立つこと。そのために、一所懸命に頑張れば、みんなに応援してもらえる。私は、このことを知的障害者に教えてもらったのです。

なるほど。自分の体験からしても、よくわかります。

全盲だったわが祖母は、端切れ布を集めておき、雑巾を縫っておりました。若い頃は、お針子に縫物を教えるほどだったそうで、目が見えなくても、運針はしっかりしておりました。10ミリ程度の間隔で碁盤の目のように縫い込まれた雑巾は、丈夫で穴があきにくく、使い込んでも長持ちしました。百枚たまると、小学校に寄付して喜ばれておりました。私が、祖母の雑巾は丈夫で長持ちして穴があきにくいと先生がほめていたことを伝えると、実に嬉しそうにしていたことが、半世紀経った今でも記憶に残っています。

自分のした「仕事」が他人のために「役立ち」「喜ばれる」ことは、たしかに自分にとっても喜びと張り合いになることでしょう。
どうしても福祉は施設でと考えがちですが、最低賃金とはいえ健常者と同じ給料をもらえるのですから、半ば自立した生活の展望が開けます。日本理化学工業は、ダストレスチョークというオンリーワンの技術と製品を持っていたという強みがあったからでしょうが、こうした企業がもっと増えてくれることを願いたいものです。

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石渡博明『安藤昌益の世界』を読む

2014年12月13日 06時20分35秒 | -ノンフィクション
まだ若い頃、たぶん学生時代に、岩波新書の目録の中に、ハーバート・ノーマンの『忘れられた思想家~安藤昌益のこと』という二巻本があることから、青森県八戸市に住んでいたという江戸時代の思想家・安藤昌益に興味を持ったことがありました。残念ながら、ノーマンの岩波新書は入手できず、岩波文庫の安藤昌益著『統道真伝』二巻をパラパラと読み、なかば驚き、なかば呆れたものです。

驚いたというのは、古代の聖人たちへの批判、とくに釈迦への批判の痛烈さでした。妻子を捨てて自分の修行に没入し、独身主義で女性を修行の妨げとし、両親の性愛の結果として生まれてくる自然の営みを罪悪視する教えは虚妄で有害だと喝破する痛烈さにびっくりしました。ましてや、お布施や喜捨を称揚し成仏を約束する僧侶たちの、社会への寄生性を合理化する仏教の教説を糾弾する論調の激越さに、正直言っていささかビビりました(^o^)/
また、独特の用語法や、屁理屈にしか思えない様々な議論の内容などは、若い青年(私)の理解を超えており、「当時としては画期的かもしれないが現代には縁の薄い古典」として、書棚に納めるだけに終わっていました。

ただし、安藤昌益という人物がどういう人なのか、なんでまた八戸にそんな思想家がポコッと存在したのか、という興味は底流としてあったようです。たまたま図書館で、2007年に草思社から刊行された単行本、石渡博明著『安藤昌益の世界~独創的思想はいかに生まれたか』を見つけた時に、謎の人物に対する興味を覚え、読んでみようと手に取った次第です。

本書の構成は、次のようになっています。

第1章 安藤昌益の生涯
 誕生の地・大館/修行の場・京都/展開の場・八戸/終焉の地・大館
第2章 安藤昌益、復活の歴史
 狩野亨吉による紹介/奥州街道の初宿・千住/書物の運命/戦前・戦中の研究/戦後の資料発掘/「安藤昌益全集」の刊行/海外での研究
第3章 安藤昌益と自然真営道
 万有存在の法則を求めて/安藤昌益の基本用語/易批判と互性の論理/思考の深化/自然をどう見るか/直立・直耕する人間
第4章 安藤昌益の医学と医論
 医学界への批判/伝統的医学論への批判/真営道医学の世界
第5章 安藤昌益の社会思想
 社会の基本とは/「自然の世」と「法の世」/版図拡大をどう考えるか/安藤昌益の世直し論

それによれば、安藤昌益は今の秋田県大館市二位田の豪農の次男として生まれたらしいです。京都に出て禅林で仏教修行に励み、やがて無我の境地に至り、悟りを得るという体験を得て師から印可を受けるのですが、やがて自らの解脱体験を一種の錯覚であるとして否定するようになります。著者はその理由を、青年期の性の問題を越えられず、むしろ男性だけの仏門の倒錯性や仏教の教えにある虚妄性が、仏門からの離脱を促したのでは、と見ているようです。

仏門を去った安藤昌益は、新たな方向性を医学の道に求め、当時の名医・味岡三伯に師事します。医学の豊富な経験を積んだ昌益は、壮年期にさしかかった頃に、奥州南部・八戸藩の城下に移住します。ここでも、町医者でありながらその医術の実績と人柄から尊敬を集めるようになり、かなりの弟子たちが集まるようになります。その後、大館の実家の兄が逝去したので故郷に戻り、実家には養子を取らせて後継とし、八戸には同じく良医だったらしい息子を残し、自分は大館に住んで医者を続け、そこで没しているようです。

では、彼の過激なまでの思想は、どのように形成され、発表され、後世に遺されたのか。実は、弟子たちは師の医術の根本にある思想の危険性を充分に自覚していたようです。だからこそ、おそらく京都にある妻の実家の版元から問題部分を削除して出版した『自然真営道』三巻本以外の大著の原稿を、それぞれ書き写し、手許に秘蔵して後世に伝えたのでしょう。著者のこの推測は、説得力があります。

そして、安藤昌益の過激な思想の形成には、実は当時の医療の現状に対する批判があった、とする著者の見解もまた、説得力があります。当時、吉益東洞に代表される古方派医学の台頭により、攻撃的な薬物療法が専らとなり、薬剤による副作用には目をつぶり、結果責任に対しても「生死は医のあずからざるところ」などと言ってはばからないような、医療の荒廃があったようで、安藤昌益はこれを痛烈に批判していたようなのです。そして、伝統的医学の体系の中に、こうした医療の荒廃を生み出す素地があるとして、封建的な壮年男子中心の医学体系(*1)を、生命の本源である婦人科を冒頭に置き、小児科、壮年科、老人科という順序に病を考察し治療を施すべきだというように、人の成長に沿って作り変えようとした、と指摘しています。また、精神疾患・精神障害も病という観点から細分化された多くの症例をあげ、薬物療法と対話療法で臨む、とした点を評価(p.201~3)しています。

本書「まえがき」にある、

安藤昌益は、一言でいえば、食と性愛を基軸にして宇宙の全存在を一大生命とと見なし、そこから平和で平等な社会を希求した江戸時代中期の「いのちの思想家」である。

という要約が、なるほどと納得できました。農山漁村文化協会版『安藤昌益全集』を執筆・編集した著者ならではの好著であると感じるとともに、学生時代からの「謎の人物」の姿が、かなり解明されたように思い、嬉しく感じました。

(*1):「本道」と呼ばれた当時の内科医学では、医学の対象は皇帝や家長としての成人男性であり、大部分がこの内容で、婦人科や小児科は「巻末に申し訳程度に置かれる構成になっていた」(p.193)とのことです。

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天野郁夫『学歴の社会史』を読む

2014年11月27日 06時03分06秒 | -ノンフィクション
当ブログの「歴史技術科学」カテゴリーの関係で、明治初期の高等教育とお雇い外国人教師のことを調べているうちに、天野郁夫著『学歴の社会史』(平凡社ライブラリー)を読むことになりました。江戸時代には、学歴よりも身分制が大きく重かったわけで、学歴が影響力を持つようになったのは明治以降であることは明らかですが、では明治のいつごろ、どのような経緯でそうなったのか?

本書の構成は、次のようになっています。

  1. 学歴のすすめ
  2. 教育授産
  3. 士族学校
  4. 農民たち
  5. 商人教育
  6. 教育も銭なり
  7. 上京遊学
  8. パンと教養
  9. 身を立るの財本
  10. 学歴の効用
  11. 庶民の世界
  12. 学歴の岐路
  13. 中等教育
  14. 教員社会
  15. 官尊民卑
  16. 学歴戦争
  17. 官私抗争
  18. 学校選択法
  19. 学問・学校・職業
  20. 学閥の形成
  21. 採用待遇法
  22. 苦学・楽学

ここで、誤解のないように付け加えておけば、1.の「学歴のすすめ」とは、著者が学歴偏重を勧めているわけではありません。明治時代に外山正一という初代社会学教授が著した『藩閥之将来』という本にもとづき、藩閥に代わって学閥が中心になってくることを簡潔に説明しています。

以下、明治維新によって生計の道を失った士族が、教育によって官僚への道を歩むが、農工商の身分の人たちは、当初は立身出世の道を選ばなかったこと、やがて明治中期になると徴兵制における優遇など学歴の価値は誰の目にも明らかとなり、その結果として(旧制)中学校への進学熱が高まり、士族の比率が低下し富裕な平民層出身者の比率が高まっていくことが示されます。近い過去に激しい内戦の記憶を持つ明治の日本で、子の徴兵期間が三年から一年に短縮されるという一年志願制度の特権は、富裕な平民層の親にとって価値あるものであったことは間違いないでしょう。



本書の後半においては、主として法科をめぐって、帝国大学と私学の争い等が描かれます。これらの経緯は、当方の興味関心とはだいぶ方向性が違います。正直に言って、歴史的・社会的な重要性は理解できるとはいうものの、要するに特権をめぐる確執ですから、あまり良い印象を受けません。よって、ばっさりと省略します。このあたり、当方はどうしても人あるいは組織間の利害関係よりも、事物の仕組みや法則により興味を持ってしまう傾向があります。これは、理系の弱点だと思いますが(^o^;)>poripori

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