ハイドンと雇用主であるエステルハージ候の関係は、たいへん興味深いものです。たとえば、弦楽四重奏曲第63番(Op.64-1)の記事(*1)で、
と書いたように、また弦楽四重奏曲「ひばり」の記事(*2)で、
と書いたように、ハイドンの音楽には、エステルハージ候の好みやあり方が、かなり反映していそうです。ハイドンも、若い頃には疾風怒濤の年代の激しい要素を持っていたのでしょうが、もしかするとエステルハージ候の好みに合わせ、晴朗で自然体なスタイルをとっていくようになったのかもしれません。なんとなく、生まれながらの上流階級という品のよさを感じさせるところがあります。
ところで、このエステルハージ候というのは、一番最初に29歳のハイドンを雇ってくれたパウルII世アントンではなく、その後を継いだ弟のニコラウスI世のことです。この人は、ほんとに一流の文化人だったみたいです(*3)。
幸か不幸か、ハイドンが58歳の1790年にニコラウスI世は死去し、息子アントン候が後を継ぎますが、この人は緊縮財政論者で、離宮を引き払い、楽長ハイドンとコンサートマスターのマッシーニに年金を贈って楽団を解散してしまいます。結果的にハイドンを自由の身分にしてくれたアントン候は、四年後の1794年、ハイドン62歳の年に死去し、後をニコラウスII世が継ぎます。この人は楽団を再建し、有名なハイドンに作曲を命じることで自負心を満足させるような人で、あまり音楽への理解はありません。すでに実質的にフリーの立場にあったハイドンは、ニコラウスII世の命により、リヒテンシュタイン家出身の妃の命日に演奏するため、ミサ曲を作曲します。それが、ミサ曲第11番ニ短調、いわゆる「ネルソン・ミサ」です。
I. キリエ
II. グローリア
III. クレド
IV. サンクトゥス
V. ベネディクトゥス
VI. アニュス・デイ
トラファルガー海戦のネルソン提督のエピソードなどを先入観として持っていると、この曲の持つ暗さ、激しさは意外です。それもそのはず、この曲の本来のタイトルは「Missa in Angustiis」すなわち「困苦の時のミサ」だそうで、戦勝を祝うものではありません。では、ハイドンはなぜこんな音楽を作曲しようと思ったのだろう?
それはたぶん、自分が心から尊敬し仕えたニコラウスI世には人間的に遠く及ばず、オーケストラから木管楽器奏者を解雇してしまうような愚かさを持つ、現エステルハージ候ニコラウスII世に対する嘆きと怒りではないかと思います。初版では木管楽器のパートがない、特殊な楽器編成がその理由です。
(*1):ハイドンの弦楽四重奏曲第63番(Op.64-1)を聴く~「電網郊外散歩道」2012年6月
(*2):ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」を聴く~「電網郊外散歩道」2005年9月
(*3):エステルハージ家の歴史
演奏は、ベーラ・ドラホシュ指揮エステルハージ・シンフォニア、ハンガリー放送合唱団ほか。CD
は NAXOS の 8.554416 です。NAXOS Music Library で試聴できるようです。
雇い主が、従業員が楽譜を出版し収入を得るという副業を認めていたのですから、かなり理解のある人と言えましょう。還暦間近なハイドンもまた、自由な身分に憧れながらも、こうした境遇の価値を十分に認識していたものと思われます。
と書いたように、また弦楽四重奏曲「ひばり」の記事(*2)で、
聞き終えた後、幸せな気分で眠れる音楽は、意外に少ない。自分の不幸を訴えるのに夢中な音楽家は、他人の幸福に思いを寄せることはできないのかもしれない。ハイドン58歳の音楽は、エステルハージ侯爵家における長い楽長生活に終止符を打ち、ようやく自由な身分となった時代の充実した作品だ。自分の意志と忍耐でかちとった自由。一見すると屈託のないハイドンの明るさの背後には、忍耐を知る人の意志的な眼差しがあるように思う。
と書いたように、ハイドンの音楽には、エステルハージ候の好みやあり方が、かなり反映していそうです。ハイドンも、若い頃には疾風怒濤の年代の激しい要素を持っていたのでしょうが、もしかするとエステルハージ候の好みに合わせ、晴朗で自然体なスタイルをとっていくようになったのかもしれません。なんとなく、生まれながらの上流階級という品のよさを感じさせるところがあります。
ところで、このエステルハージ候というのは、一番最初に29歳のハイドンを雇ってくれたパウルII世アントンではなく、その後を継いだ弟のニコラウスI世のことです。この人は、ほんとに一流の文化人だったみたいです(*3)。
幸か不幸か、ハイドンが58歳の1790年にニコラウスI世は死去し、息子アントン候が後を継ぎますが、この人は緊縮財政論者で、離宮を引き払い、楽長ハイドンとコンサートマスターのマッシーニに年金を贈って楽団を解散してしまいます。結果的にハイドンを自由の身分にしてくれたアントン候は、四年後の1794年、ハイドン62歳の年に死去し、後をニコラウスII世が継ぎます。この人は楽団を再建し、有名なハイドンに作曲を命じることで自負心を満足させるような人で、あまり音楽への理解はありません。すでに実質的にフリーの立場にあったハイドンは、ニコラウスII世の命により、リヒテンシュタイン家出身の妃の命日に演奏するため、ミサ曲を作曲します。それが、ミサ曲第11番ニ短調、いわゆる「ネルソン・ミサ」です。
I. キリエ
II. グローリア
III. クレド
IV. サンクトゥス
V. ベネディクトゥス
VI. アニュス・デイ
トラファルガー海戦のネルソン提督のエピソードなどを先入観として持っていると、この曲の持つ暗さ、激しさは意外です。それもそのはず、この曲の本来のタイトルは「Missa in Angustiis」すなわち「困苦の時のミサ」だそうで、戦勝を祝うものではありません。では、ハイドンはなぜこんな音楽を作曲しようと思ったのだろう?
それはたぶん、自分が心から尊敬し仕えたニコラウスI世には人間的に遠く及ばず、オーケストラから木管楽器奏者を解雇してしまうような愚かさを持つ、現エステルハージ候ニコラウスII世に対する嘆きと怒りではないかと思います。初版では木管楽器のパートがない、特殊な楽器編成がその理由です。
(*1):ハイドンの弦楽四重奏曲第63番(Op.64-1)を聴く~「電網郊外散歩道」2012年6月
(*2):ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」を聴く~「電網郊外散歩道」2005年9月
(*3):エステルハージ家の歴史
演奏は、ベーラ・ドラホシュ指揮エステルハージ・シンフォニア、ハンガリー放送合唱団ほか。CD
は NAXOS の 8.554416 です。NAXOS Music Library で試聴できるようです。